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<外遊び放談>その② 「台風とウィルダネス」の巻

(2017.11.02)

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■台風の密かな楽しみ

 誰も大きな声では言わないけれど、台風がくるとワクワクしてしまう人は、存外多いのではなかろうか。

 川に近い安普請のわがやでは、台風のスリルも数割増し。台風の夜は、風できしむ家にハラハラしつつ、通り過ぎるのをじっと待つ。

 私が幼年時代をすごした南九州では、台風は大人も子供も興奮させるイベントだった。大きな台風が近づくと、大人たちは食料を買い込み、懐中電灯やろうそくを用意した。近所の瓦屋根の家には、瓦が飛ばないように網がかけられた。

 備えが済んで半日もすると、暖かく、じっとりと重たい風が吹き込んでくる。大気に海の匂いが混じり、ずっと南の土地の空気感が漂う。続けて、強い雨がやってくる。やがて庭木を翻弄し、家をゆがめるほどの大風が吹き、去っていく。

 台風一過の朝は空気が透明だ。埃が洗い流されるのか、はたまた清浄な空気に入れ替わるためか、普段は見えない遠くの山並みまで見渡せる。新鮮な木の葉があちこちに貼り付き、どこから流れてきたのか、家の前をカメが歩いていたりする。

 増水した川を見に行くのも楽しい。圧倒的な力を帯びた水の塊が目の前を轟々と流れていく。人間が抗いようもない水圧が可視化される。去勢された都市の川も数年ぶりに本来の姿を取り戻す。ふだん遊んでいる河川敷が水に浸かる。

 そして、減水した河川敷には本流に戻りそびれた魚が取り残される。サギやカラスと競って、水たまりの魚を探るのは原始的な喜びがある。

 先日、そんな増水後の魚捕りの楽しみを記事にした。「台風一過は川に行こうぜ。今なら水たまりが水族館状態だ!」)

 水が退いた後の河川敷は、本流に近づかない限りそれほど危なくはない。敷居を高くしないよう軽い調子にしたが、最低限にとどめようとしても注意書きが多くなってしまった。

 注意書きだらけの遊び方紹介になってしまった、と自嘲気味のコメントを記事に付したら、読者からFB上で「メディアなら注意書きをつけて当然。それが嫌なら辞めるべし」といった趣旨のコメントがついた。

 強い調子の物言いに驚きつつも立ち止まる。自分は注意書きを付けることそのものを厭うたわけではない(実際に、注意書きは付けている)。しかし確かに、注意書きによって何かが失われることに抵抗を感じている。それは、一体なんなのか?

 次の台風までモヤモヤと考え続け、大風に家がきしむ音を聞きながら思い至った。台風とは都市生活でも体験できる貴重なウィルダネスとの遭遇なのだ。

 多すぎる注意書きは、せっかくのウィルダネスとの出会いを台無しにする。自分で自身を守る意識と生々しい体験を読者から奪ってしまう。だから、できるだけ注意をうながしたくないと感じていたのだ。

■ウィルダネスって、なんだ?

「ウィルダネスとは何か」については、多くの人が論じているが、一般には人界を遠く離れた未開地や荒野、手付かずの広大な原生自然を意味することが多い。

 私はこれらの「環境としてのウィルダネス」に加えて、「人界の法の及ばぬ状況」もウィルダネスになり得ると感じている。

 ウィルダネスで行使されるのは自然のルール。泣いてもわめいてもちょっとタンマとお願いしても、自然は手心を加えてはくれない。人間であってもそこいらの虫と同じルールが適用される。

「人のルールの及ばぬ世界、あるいは人のルールよりも自然の法が優先される状況」は大自然の外でも存在し得る。人間の制御を超えた暴威をふるう台風は、いわば向こうから出かけてくるウィルダネス。都市生活者のためにウィルダネスがよこした出前授業だ。

 先の記事の撮影時、川を見に来たおばあちゃんが、「ふわー! この中に入ったら絶対助からないわー。死んでしまうわー! ふわー!」と、とても嬉しそうに繰り返していた。

 おばあちゃんは「死んでしまう」と表現していたけれど、これは日常のなかに突然滑り込んできた圧倒的な自然を表すのに、ほかの言葉をもたなかったからだろう。

「死んでしまうわー!」と興奮して繰り返すおばあちゃんの隣で、私は「滅茶苦茶ウィルダネス! 命が脅かされるほどにウィルダネス!」と心を震わせていた。表現こそ違えども、ふたりは増水して逆巻く川に、同じものを見ていたと思う。

 ところが私は、自分の町にひとときのウィルダネスがやってきたことを喜びながら、先日の記事では魚捕りにフォーカスしてしまった。

 しくじった。大失敗だった。魚捕りで台風を切り抜いたら、増水の危険性もライフジャケットの必要性も説かなくていけなくなる。大自然の片鱗を見に行くはずの記事が、説教くさいものになってしまう。

 先の記事では、台風という自然への向かい方を提案するべきだったのだ。魚を捕りに行けとも川を見に行けとも勧めずに、現代における台風の体験の仕方を提案するべきだった。

 台風の楽しみ方を提案しても、ほとんどの読者には理解されないだろう。「台風を楽しめなんて不謹慎だ!」と叱られるかもしれない。しかし、読者のうちの数人には、これまでとは違う台風への視点を提供できたはずだ。少なくとも、萎縮した情報を万人に発信するより価値があったと思う。

「放談」の第一弾である<外遊び放談>その① 旅人よ、もう一度パックロッドを手に入れろ!の巻でも書いた通り、アウトドアの楽しみを伝えるメディアが事なかれ主義に陥ったことで、野外活動の世界はずいぶん縮んでしまった。

「メディアなら注意書きをつけて当然。それが嫌なら辞めるべし」という読者のコメントからも感じられるとおり、野外での安全は自分以外の誰かに確保してもらうものになった。

 遊びは注意点とともに紹介されて当然。自分は守られていて当然。命は脅かされないことが当然。今や「怪我と弁当は自分持ち」という精神で野に入る人のほうが少ないかもしれない。

 野外活動に限らず、現代の都市生活は法やシステムに囲まれ、守られている。自力で自分自身の安全を確保する場面は少ない。

 そんなところに台風は、人の都合などお構いないしに自然の力を行使しにやってくる。人の作ったルールよりも上位のルールが現代にもあること、人の力が及ばない世界があることを台風は都市生活者に垣間見せる。

 私たちは便利で快適な生活を送りながら、日々の仕事や生活やSNSや暗い政治やらにもがんじがらめになっている。それこそが世界だと思い込んでいる。しかし、そんな現代でも台風にひと皮むかれたら、生身ひとつでやり抜かなくていけない本来の世界が現れる。

 台風の夜は大自然のなかで過ごす夜のように、否応なく自分の小ささと非力さに向かい合わされる。家にいながらにして、ひとつの生き物としての自分を確認できるのは、ちょっと贅沢な体験だ。

 そんなことを、大風にきしむ家で考えた。

 
 
ライター
藤原祥弘

採集系野外活動を中心に執筆とワークショップを展開。著書に『海遊び入門』(小学館・共著)ほか。好きな獲物はカンパチとノコギリガザミ。twitterアカウントは@_fomalhaut

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