• 山と雪

【短期連載】高桑信一の「径 ━━ その光芒」万世大路 其の壱

2018.10.22 Mon

目的によって拓かれる径は、それを失うことで野に還ってゆく。消えゆく古道にかすかに漂う、かつての幕らしや文化、よすがに触れてみたい。草に埋もれ、忘れ去られた径をたどる旅。訪れるのは、奥羽山中の万世大路です。

トンネル手前の路肩に石垣が積まれていた。比較的新しく、昭和の改修時に手直ししたか、新たに積みなおしたようにも見えた。

三島通庸の遺産

 雨の国道13号を離れて奥羽本線の峠駅に向かい、まるで格納庫のような古いスノーシエッドの駅舎で夜を過ごした。いまでは使われなくなった駅舎だが、隣接するホームでは山形新幹線と在来線が同じ軌道を通過するという不思議な光景を目にすることができる。

 車の侵人も可能で、近年締め出されることの多くなったステビバ(ステーションビバーク)の風情を味わえる貴重な宿だが、むろん無断便用だからお勧めはできない。

 酒を飲んでも気持ちが弾まないのは雨が止まないからだ。こと登山に関するかぎり、たとえ悪天が予想されたとしても、とりあえず現地に向かうのを信条にしているが、しかし古道を訪ねる連載の初回で、しかもワンチャンスの取材であってみれば、気が滅入るのは否めない。

 翌日も雨なら、近くの滑川温泉に避難することに決めておく。明日から連休がはじまるが、自炊部屋ならどうにか取れるだろう。

 滑川温泉の近くにある五色温泉は、吾妻連峰の大量遭難(平成6年2月)で難を逃れた登山者が助けを求めた宿である。

 つまりここは、吾妻連峰と蔵王連峰を結ぶ奥羽山脈のど真ん中なのだ。

早春の森の新緑を割って小沢が流れていた。ようやく訪れた春の息吹がうれしい。

 鉄道が、奥羽本線として、この山深い栗子山塊を貫いたのは明治32年で、急勾配のあまり四つのスイッチバッグ駅を設置しなければならなかった。そのひとつが峠駅の遺構であった。

 それから百年以上を経た平成4年、すでにスイッチバッグは廃され、線路幅も広げられて山形新幹線が開業し、昭和41年5月に、長大なトンネルを連ねて開通した国道13号(栗子ハイウェイ)とともに、首都圏から裏日本への大動脈として機能している。ならばそれ以前、重畳としたこの山波に、道はどのように開かれ、発展してき たのだろうか。

 米沢と福島を結ぶ板谷街道は、米沢藩主の参勤交代に使われた道で、難路であった。戊辰戦争の余韻も冷めやらぬ明治九年、新しい道の開削がはじまった。それがのちに「万世大路」と呼ばれることになる「栗子新道」だった。

 栗子新道は、福島と米沢を結ぶ42キロの区間で、難工事となったのは県境付近の山岳地帯であった。栗子山の直下に栗子トンネル、その前後を含めて五ケ所の素掘りのトンネルを掘ったのである。

万世大路の山形側を歩く。荷馬車の通行した道は、昭和の改修によって車が通れるほど広くなっている。

 4年11か月の歳月を費やした明治14年10月3日。折から東北行幸の途次だった明治夫皇を迎え、米沢側のトンネル入口で開通式が挙行された。この道を万世大路と呼ぶのは、のちに明治天皇が「萬世大路」と命名したことからくるが、解釈の根拠はないらしい。大意としては――幾世代にも亘って永く頼れる道路となれ――ではないかと、鹿摩貞男氏は、その著書『万世大路読本(HP版)』のなかで述べている。

自動車もない時代で、万世大路は荷馬車の通行を目的とした。開通当時の賑わいは相当のもので、一日平均で100人が通行し、荷馬車は40台、宿泊者も20人ほどいたという。

 東北地方への動脈として華々しく登場した万世大路も、明治32年の鉄道の敷設によって物流の主役の座を奪われ、わずか20年足らずの繁栄の軌跡を残して衰退した。

 万世大路の12キロほどは現国道13号に吸収されている。しかし栗子トンネルを中心に、峻険な山中に刻まれた十数キロの道が、まるで亡霊のようにたたずみ、山に飲みこまれる日を待っている。

 その幻の遺をたどるべく、私たちは古い停車場の傍らにうずくまり、ちびちびと酒を舐めながら雨を逃れているのであった。

右が明治のトンネルで左が昭和初期のトンネル。内部でひとつになっているが、めずらしいという。

 朝には雨が止み、駅舎の外には光を浴びた新緑がまぶしく見えた。これなら行けると車に乗る。

 栗子トンネルはすでに崩壊していて通行不能であることは知っていた。ならば選択肢はふたつ。山形、福島の両県から、それぞれのトンネルの出入り口を往復するか、あるいはトンネル部分を山越えするかである。山越えするなら山中一泊の荷を背負わねばならない。たとえ一日で越える道でも日帰りではもったいない。その山の息吹を知るには、山で一夜を過ごすことだ。

 ラインとしては山越えのほうが美しい。どちらとも決めかねたまま、まずは現場に行ってからと、米沢に向かう。

 国道を出はずれて米沢砕石の前で道を失う。うろうろしていたら従業員が敷地を突っ切れと教えてくれた。万世大路の玄関口は、すでにこの会社の敷地になっていた。

 採石場を後にして未舗装路を少し走るとゲートに阻まれる。傍らに「トンネルまで 4.1キロ」の標識がある。地元の「万世大路を守る会」が設置したものだろう。

 天気もどうやらもちそうで、山越えに決めてザックを担ぐ。

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 福島側の万世大路ならば、なんどか歩いたことがある。むろん沢登りとしてだ。あちらはなんの標識もないこざっぱりとした道だが、こちらは随所に看板があって道の由来を知ることができる。

 暑り空の下でツツジやタムシバが咲き、雪解け水が流れて春の訪れを教えていた。

 新緑の山肌には山桜のビンクが鮮やかに散り、道端のワサビの花が清楚であった。

 やがて前方にトンネルが見えた。まるで髑髏の眼窩のような穴がふたつ並んでいた。右が明治14年に開通した初代のトンネルで、左が昭和初期の改修によるものである。

 トンネルの人り口にザックを置いて、左のトンネルに探索を試みる。危険だから入るなという看板があるが、自己責任ということで奥に進む。

 瓦雌を乗り越え、200メートルほど進んだあたりで崩壊して埋まっていた。

 引き返してから右の旧トンネルにも、と思うが素掘りで暗く、陰々滅々としていて、とても入る勇気が湧かなかった。

左手のトンネルの上の銘板。「栗子燧道、昭和十年三月竣工」と読める。

 明治14年の10月3日。その手にカンテラを提げて明治天皇を先導したのは、時の山形県令だった三島通庸である。記録には随行350名とあるが、このときの三島の晴れがましさは、いかばかりであったか。

 万世大路は、三島通庸の剛腕によって成し遂げられた事業だった。その業績の評価が後世において真っニつに分かれるのは彼の不徳のゆえである。日本の近代化は道路の開通にあるとして、反対を押し切って各地に道を拓いた三島の持論を先見性としてもいいが、必ずしも先見とばかり言えないのは、それらの道の多くが数十年後には鉄道によって地位を奪われ、廃道と化していくからであった。

【資料提供:鹿摩貞男『万世大路読本』】


高桑信一 たかくわ・しんいち
1949年、秋田県生まれ。作家、写真家。「浦和浪漫山岳会」の代表を務め、奥利根や下田・川内山塊などの渓を明らかにした、遡行の先駆者。最小限の道具で山を自在に渡り、風物を記録する。近著に『山と渓に遊んで』(みすず書房)、『山小屋の主人を訪ねて』(東京新聞)、『タープの張り方、火の熾し方 私の道具と野外生活術』『源流テンカラ』(山と溪谷社)など。

出典:好日山荘『GUDDÉI research』2016夏号

 
 
 
 

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