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ポリネシアに過去を贈り届けた考古学者、篠遠喜彦博士を讃える記念式典が、タヒチ・フアヒネ島で開催

(2019.10.12)

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波乱と冒険に満ちた海洋考古学への挑戦

 博士は1924年に東京で生まれ、一昨年ホノルルで93年の長い生涯を閉じた。その生涯は波乱万丈だった。中学生のときに考古学に目覚め、考古学者を志しながらも、戦争による混乱で大学に進めずにいた。そこで意を決し、カリフォルニア州立大学バークレー校に留学を決め、1954年6月、横浜からサンフランシスコ行きの船に乗る。

 ところが、渡航中に人生の航路を大きく方向転換させる出来事が起こった。アメリカの身元引受人から船内に届いた電報に従うまま、篠遠青年はホノルルで途中下船した。そして迷いながらハワイ島南端の岬、サウスポイントまでたどり着いた。そこで行なわれていたのは、ホノルルにあるビショップ博物館の人類学チームによる発掘調査だった。

初めてのタヒチ。1960年マウピティ島で、エモリー博士と。 ©️ Bishop Museum(写真=ビショップ博物館)

 チームを率いていたのはケネス・P・エモリー博士である。エモリー博士はホノルルに生まれ、アメリカ本土で学位をとり、1920年代から研究者生活をスタートさせた。当時、すでにポリネシアの民族学、考古学の第一人者として国際的に名を馳せていた。しかし、もともとの専門は民族学で、考古学は後から学んだものだった。

 篠遠青年は、彼らの発掘を見学しているうち居ても立ってもいられなくなった。試掘坑という縦坑を次々に掘っているが、上部の地層を一枚一枚剥がすようにして、遺物が見つかった地層を面で露わにしていく発掘になっていない。見かねて手伝い始めると、3000本におよぶ釣針と、それらが眠っていた地層が広い範囲で現れたのだ。エモリー博士は篠遠青年の日本仕込みの腕に目を見張り、「留学先を変更してハワイに残れ」と強く勧めた。篠遠青年も、一から仲間づくりをしなければいけないカリフォルニアに渡るより、偶然ながら数日間寝起きをともにして気心を知った仲間がいるのと、何よりポリネシアの考古学は始まったばかりであり、大きな発見が期待されることを感じ、ハワイ大学に留学先を変えたのである。

1964年モオレア島にて。©️ Bishop Museum(写真=ビショップ博物館)

 ハワイ大学を卒業すると、篠遠青年はビショップ博物館に就職した。当時のビショップ博物館は自然科学と人類学の分野の博士を多数かかえるポリネシア研究の一大センターだった。そこでポリネシア考古学に打ち込んでいったのだが、篠遠青年をまず困らせたのはポリネシアでは、サモア、トンガより東、および南北の島々では土器が出土しないことだった。古代ポリネシア人は煮炊きや食事に土器を用いなかったのだ。

 日本は縄文時代でも弥生時代でも豊富な土器を持ち、出土した土器は、形やデザインによって、文化編年を導くことができる最大の材料である。遺物の年代だけなら、出土した炭から放射性炭素14の減少具合を利用して算出は可能だ。しかし、遺物を材料に文化編年を行なわなければ、その時代にどのような文化が営まれていたかはわからない。文化編年の材料は土器のように、つくっては壊れ、壊れたら新しいものつくり、大量生産が繰り返されるものがいい。また、ある地域の文化編年が体系化されると、そのカギになった遺物と類似したものが遠隔地から出土した場合、両方の土地の関連性が見えてくる。
古代ハワイの釣針(写真=鎌田慶司)

 土器が出土せず、困った篠遠青年が、ポリネシアの文化編年の鍵となる遺物として注目したのが釣針であった。

 そうして、ハワイでの発掘を繰り返し、釣針による文化編年の方法論を確立した。確立には数年を要したが、それを武器にビショップ博物館の人類学部は予備調査を経て、62年から64年にかけて、フランス領ポリネシアで大調査を敢行した。篠遠理論を基礎に、ハワイ先住民のルーツはもとより、ポリネシアの広い海域のなかに点在する島々に、いつごろ、どのようなルートを通って人類は渡ったのかを解き明かそうという大調査である。

 先行した釣針による文化編年の方法論で、篠遠青年は博士の学位を得て、フランス領ポリネシアでの発掘調査に臨んだ。そして重要な遺跡を次々に発見して大きな収穫を得た。この成果を踏まえ、自分では調査しきれなかった島々の遺物を再検証した結果と重ね合わせ、ついに68年、「ポリネシア移住論仮説」を発表した。現在、この仮説は「オーソドックス・シナリオ」と呼ばれる。とことん遺物を基本にするという、考古学の正統的(オーソドックス)な手法に基づくシナリオの意味だ。発表から半世紀を過ぎ、その間に後進の考古学者によって修正や補足が加えられたが、大筋は変わることはない。いまでも燦然と輝くポリネシア人類史に打ち立てられた不滅の金字塔である。

1965年、篠遠博士がエモリー博士と連名で提出したオーソドックス・シナリオの図。南太平洋のハワイ、ニュージーランド、イースター島を結んだ巨大な三角形の内側がポリネシアだ。ポリネシアの西、サモア、トンガから移動を始めた人びとは、まずマルケサス諸島(紀元300年頃)に到達。ここをセンターにポリネシアの拡散が起こったと説いた。イースター島は紀元400年頃、ハワイは紀元500年頃、タヒチは紀元600年頃、ニュージーランドはタヒチ、クック諸島を経て紀元800年頃、最初の移住が起こったとした(現在はもっと新しい年代が支持されている)。[©️Sinoto1967]。

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ライター
藍野裕之

(あいの・ひろゆき)1962年、東京都生まれ。文芸や民芸などをはじめ、日本の自然民俗文化などに造詣が深く、フィールド・ワークとして、長年にわたり南太平洋考古学の現場を訪ね、ハワイやポリネシアなどの民族学にも関心が高い。著書に『梅棹忠夫–限りない未知への情熱』(山と溪谷社)『ずっと使いたい和の生活道具』(地球丸刊)がある。

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