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ポリネシアに過去を贈り届けた考古学者、篠遠喜彦博士を讃える記念式典が、タヒチ・フアヒネ島で開催

2019.10.12 Sat

藍野裕之

藍野裕之 ライター、編集者

EI MURIAROHA NO’OE〜永遠の愛と感謝をあなたに

 前日までの雨季の名残りの曇り空が、嘘のように晴れ渡った9月3日(現地時間)、一昨年に亡くなったひとりの日本人考古学者を記念する式典がタヒチの離島、フアヒネ(Huahine)島で開催された。

 タヒチとは、南太平洋に位置するソサエティ(Society)諸島の総称である。広い太平洋の中で、ハワイ、ニュージーランド、イースター島を結んだ一辺が8000kmほどになる巨大な三角形の内側がポリネシアだ。ソサエティ諸島は、その中央部にあり、周辺のオーストラル(Austral)諸島、トゥアモトゥ(Tuamotu)諸島、ガンビエ(Gambier)諸島、マルケサス(Marquesas)諸島を含めて、現在はフランスの海外共同体であり、地理的には「フランス領ポリネシア」と名付けられ、フレンチ・ポリネシアとも呼ばれている。

 領内には118の島がある。ソサエティ諸島は、タヒチ島をはじめ、14の島で構成され、ふたつの群島に分かれている。諸島は南東から貿易風の影響が強いため、タヒチ島の周辺5島が風上(ウィンドワード)群島、その西北にある9島が風下(リーワード)群島と呼ばれる。

 式典は、風上群島のタヒチ島から約175kmにある風下群島のフアヒネ島で開かれた。

 この広い太平洋に点在する島々に、人は、なぜ、いつ、どのようにして移り住んだのか。この人類史上最後とも言われる民族移動の解明に、生涯をかけて取り組んだ日本人考古学者が、篠遠喜彦博士だった。今回の式典は、博士を讃える記念碑の除幕式だった。

Dr.Yosihiko.H.Shinoto(しのとお・よしひこ) 1924年9月3日 東京保谷市生まれ。自由学園入学後、考古学を志す。紆余曲折を経てハワイ大学を卒業し、ハワイビショップ博物館に勤務。1961年、北海道大学で理学博士の学位を取得後、ハワイに戻り、調査範囲をポリネシア全域に広げ、ポリネシアの重要な遺跡の復元活動を行なう。1978年、フアヒネ島の水没遺跡で古代の遠洋航海型カヌーを掘り出す。復元された遠洋航海型カヌー「ホクレア」の学術顧問に就任し、ハワイ〜タヒチ間約3000kmを、伝統的な航海術を用いて成功させる。おもな著作に荒俣宏氏との対談による「楽園考古学」(平凡社)がある。2017年10月4日、ホノルルにて死去。享年93歳。©️ Bishop Museum [Sinoto1967]。(写真=ビショップ博物館)

波乱と冒険に満ちた海洋考古学への挑戦

 博士は1924年に東京で生まれ、一昨年ホノルルで93年の長い生涯を閉じた。その生涯は波乱万丈だった。中学生のときに考古学に目覚め、考古学者を志しながらも、戦争による混乱で大学に進めずにいた。そこで意を決し、カリフォルニア州立大学バークレー校に留学を決め、1954年6月、横浜からサンフランシスコ行きの船に乗る。

 ところが、渡航中に人生の航路を大きく方向転換させる出来事が起こった。アメリカの身元引受人から船内に届いた電報に従うまま、篠遠青年はホノルルで途中下船した。そして迷いながらハワイ島南端の岬、サウスポイントまでたどり着いた。そこで行なわれていたのは、ホノルルにあるビショップ博物館の人類学チームによる発掘調査だった。

初めてのタヒチ。1960年マウピティ島で、エモリー博士と。 ©️ Bishop Museum(写真=ビショップ博物館)

 チームを率いていたのはケネス・P・エモリー博士である。エモリー博士はホノルルに生まれ、アメリカ本土で学位をとり、1920年代から研究者生活をスタートさせた。当時、すでにポリネシアの民族学、考古学の第一人者として国際的に名を馳せていた。しかし、もともとの専門は民族学で、考古学は後から学んだものだった。

 篠遠青年は、彼らの発掘を見学しているうち居ても立ってもいられなくなった。試掘坑という縦坑を次々に掘っているが、上部の地層を一枚一枚剥がすようにして、遺物が見つかった地層を面で露わにしていく発掘になっていない。見かねて手伝い始めると、3000本におよぶ釣針と、それらが眠っていた地層が広い範囲で現れたのだ。エモリー博士は篠遠青年の日本仕込みの腕に目を見張り、「留学先を変更してハワイに残れ」と強く勧めた。篠遠青年も、一から仲間づくりをしなければいけないカリフォルニアに渡るより、偶然ながら数日間寝起きをともにして気心を知った仲間がいるのと、何よりポリネシアの考古学は始まったばかりであり、大きな発見が期待されることを感じ、ハワイ大学に留学先を変えたのである。

1964年モオレア島にて。©️ Bishop Museum(写真=ビショップ博物館)

 ハワイ大学を卒業すると、篠遠青年はビショップ博物館に就職した。当時のビショップ博物館は自然科学と人類学の分野の博士を多数かかえるポリネシア研究の一大センターだった。そこでポリネシア考古学に打ち込んでいったのだが、篠遠青年をまず困らせたのはポリネシアでは、サモア、トンガより東、および南北の島々では土器が出土しないことだった。古代ポリネシア人は煮炊きや食事に土器を用いなかったのだ。

 日本は縄文時代でも弥生時代でも豊富な土器を持ち、出土した土器は、形やデザインによって、文化編年を導くことができる最大の材料である。遺物の年代だけなら、出土した炭から放射性炭素14の減少具合を利用して算出は可能だ。しかし、遺物を材料に文化編年を行なわなければ、その時代にどのような文化が営まれていたかはわからない。文化編年の材料は土器のように、つくっては壊れ、壊れたら新しいものつくり、大量生産が繰り返されるものがいい。また、ある地域の文化編年が体系化されると、そのカギになった遺物と類似したものが遠隔地から出土した場合、両方の土地の関連性が見えてくる。
古代ハワイの釣針(写真=鎌田慶司)

 土器が出土せず、困った篠遠青年が、ポリネシアの文化編年の鍵となる遺物として注目したのが釣針であった。

 そうして、ハワイでの発掘を繰り返し、釣針による文化編年の方法論を確立した。確立には数年を要したが、それを武器にビショップ博物館の人類学部は予備調査を経て、62年から64年にかけて、フランス領ポリネシアで大調査を敢行した。篠遠理論を基礎に、ハワイ先住民のルーツはもとより、ポリネシアの広い海域のなかに点在する島々に、いつごろ、どのようなルートを通って人類は渡ったのかを解き明かそうという大調査である。

 先行した釣針による文化編年の方法論で、篠遠青年は博士の学位を得て、フランス領ポリネシアでの発掘調査に臨んだ。そして重要な遺跡を次々に発見して大きな収穫を得た。この成果を踏まえ、自分では調査しきれなかった島々の遺物を再検証した結果と重ね合わせ、ついに68年、「ポリネシア移住論仮説」を発表した。現在、この仮説は「オーソドックス・シナリオ」と呼ばれる。とことん遺物を基本にするという、考古学の正統的(オーソドックス)な手法に基づくシナリオの意味だ。発表から半世紀を過ぎ、その間に後進の考古学者によって修正や補足が加えられたが、大筋は変わることはない。いまでも燦然と輝くポリネシア人類史に打ち立てられた不滅の金字塔である。

1965年、篠遠博士がエモリー博士と連名で提出したオーソドックス・シナリオの図。南太平洋のハワイ、ニュージーランド、イースター島を結んだ巨大な三角形の内側がポリネシアだ。ポリネシアの西、サモア、トンガから移動を始めた人びとは、まずマルケサス諸島(紀元300年頃)に到達。ここをセンターにポリネシアの拡散が起こったと説いた。イースター島は紀元400年頃、ハワイは紀元500年頃、タヒチは紀元600年頃、ニュージーランドはタヒチ、クック諸島を経て紀元800年頃、最初の移住が起こったとした(現在はもっと新しい年代が支持されている)。[©️Sinoto1967]。

ポリネシア人の心の故郷を復元

 篠遠博士がフアヒネ島を初めて訪れたのは1962年、ビショップ博物館の大調査の一員として。そして67年に再訪し、さまざまな島の調査のひとつに過ぎなかった前回とは違い、この島にじっくり腰を据えて調査を行なった。

 調査は晩年まで毎年行なわれ、フアヒネ島は篠遠博士が後半生を捧げたライフワークの島となった。

 島の北西にファレという小さな港町がある。式典会場は、そこから汽水湖のファウナ・ヌイに沿って4㎞ほど東に位置するマエバ村だ。フアヒネ島に人が暮らし始めたのは紀元1000年頃だが、マエバ村からは、その後に築かれた特異な文化を示す遺跡が多数発見されたのである。ファウナ・ヌイの沿岸に、島の各地の首長がまとまって暮らしていたのだ。首長だけの共同体は他の島に類を見ないもので、こうした遺跡群の発見は、かつてマエバ村が島の政治の中心、島の首都だったことを物語り、篠遠博士の情熱は、この地の歴史の全容を解明することに注がれていった。

 そして、篠遠考古学の第2章とも呼ぶべき調査は、発掘とともに遺跡の復元を伴ったものになり、他の考古学調査とは別格のものとなった。復元は発掘に比べて学術的な意味が薄く、そのうえ膨大な手間と労力がかかり、考古学者はなかなか手を出さない。それを篠遠博士は半世紀もやり続けたのだ。

 復元はマラエを中心に行なわれた。マラエとは神話のなかの神々や祖先神を祀り、さまざまな儀式が行なわれた場所を言い、そのため祭祀場と呼ばれるのが普通だが、首長の権威の象徴で集落の文化的中心でもあることから神殿と呼ばれる場合も少なくない。ソサエティ諸島のマラエは、岩石と石化したサンゴでつくられてきた。その復元にあたり、博士は極力、重機を使わず、島民を雇って人力を主力にして、建設当時にできるだけ近い方法で行なった。

 当初、マラエの復元は必ずしも島民の理解を得られたものではなかった。フアヒネ島をはじめ、ソサエティ諸島の人々は18世紀後半以降に訪れ始めた西洋人の影響で、キリスト教に改宗していた。しだいに、キリスト教への改宗と文明化が進むにつれて、マラエは半ば土のなかに姿を隠し、崩れた石積みは草木で覆われてしまっていたのだ。

 こうした歴史があるなかで、復元をはじめた篠遠博士の活動に島民が不理解だったというのもうなずける。もはやマラエはポリネシア先住民の捨てた過去の象徴であり、掘り返せばときに人骨が出る不気味なものでしかなかったのだ。しかし、博士の根気強い説得と行動により、しだいに追随する者が現れた。

 ポリネシア先住民は文字を持たず、民族の歴史を口承伝承で伝えてきた。語り部である長老がいなくなれば、民族の歴史は闇に葬られてしまう。絶滅寸前となった口承伝承は歴代の民族学者が記録した。その成果を篠遠博士は島民に語り、復元への参加を促し、やがて古代の建造物を現実世界に表出させたのだ。

 篠遠博士は、遺跡を発掘、復元することで、島の歴史を血の通う知識として授け、また古代遺跡を文化遺産として、フアヒネ島民に、そして、ポリネシアの人々に残したのだ。

マタヒアポと呼ばれて

 式典は、ファレ・ポテェと呼ばれる、水上集会場がある広場で行なわれた。その広場には、いくつものマラエもあり、これらも篠遠博士が調査、復元をしたものだ。

 この式典は、博士が亡くなるまで所属したハワイのビショップ博物館とオプ・ヌイによって運営進行された。オプ・ヌイとは、篠遠博士の活動に触発されて、島民有志が立ち上げた歴史文化普及をめざす非営利団体である。また、フアヒネ島の行政を司る「フアヒネ・コミューン」も主催者に名を連ね、島をあげての式典でもあった。さらに主催に名を連ねていたのは、フアヒネ島の「マタヒアポ」である。これは島ごとに存在する長老組織のことだ。マタヒアポは、称号でもあり、長寿であれば誰でもが認定されるわけではない。齢を重ね、知恵と知識を持ち、人望を得た年長者しか認定されない。マタヒアポとは「夜を見通す目」という意味の語だ。長老の知恵と知識は、漆黒の闇でも目が利くほど、あるいは常人では先が見えないときでも先を見通せる、と例えているのである。

 篠遠博士も70代でフアヒネ島のマタヒアポの称号を授与された。島外の、しかも外国人が認定されるのは、きわめて珍しいことである。どれだけ島民から信頼を寄せられていたかわかろう。

 タヒチの伝統的な式典は、祈り、詠踊、演説を基本に進行し、それに、現代的な歌と踊りが添えられる。今回の式典には、島民をはじめ、島外からも100人ほどが参列。祈りと詠踊の後、来賓によるスピーチとなった。スピーチは、フランス語、英語、そしてタヒチ語の3つの言語が使われ、フアヒネ島のコミューン長、マエバの村長、ハワイ州議会の上院議員、ビショップ博物館の代表と続いていった。そして、ひときわ注目を集めたのがオスカー・テマルだった。

 オスカーはフランス領ポリネシアの前自治大統領である。フランスは、第2次大戦後、フランス領ポリネシアに自治権を与え、植民地から海外領土にした。そして議会から選出された自治大統領を領内の首長としたのである。オスカーは2004年、ポリネシア先住民として初めて自治大統領に選出された人物だった。

 そうしてスピーチが終わると、クライマックスとなった。篠遠博士の名を刻んだ記念プレートが、いよいよベールを脱いだのである。

 今回の式典があることを聞いたのは、2019年の4月、ビショップ博物館の関係者からだったが、詳細は知らされなかった。招待状が届いたのは8月に入ってからで、そこには記念プレートの除幕式と書いてあるだけで、式典がどのような意味を持つのか、現地に行くまで、はかりかねていた。

 篠遠博士の功績を讃えるというのはわかる。亡くなって2年だから、少し遅くなった追悼式典かとも思ったが、追悼式典なら命日に行なうのが普通だろう。今回は博士の誕生日に合わせての開催だから、博士の死を悼む思いは込められてはいても、主催者の真意は別のところにあるように思えた。除幕式が終わり、記念プレートが披露された後、博士の名の上に刻まれたタヒチ語の意味を聞かされ、ようやく主催者の思いが伝わってきた。

 EI MURIAROHA NO’OE

 プレートの最上部には、こう書かれていた。日本でも馴染みの言葉が、子音を変えてこのなかにある。「アロハ」だ。タヒチではRとなり、さらに「ハワイのアロハよりも感謝の意味が強いんです」と教えられた。AROHAに冠されたMURIは「終わらない」という意味だそうで、浮き彫りにされたセンテンスは「永遠の愛と感謝をあなたに」となる。

 篠遠博士は、フアヒネ島の人々から愛され、感謝されてきた。だが、博士は世を去り、もはや本人に会うことはできない。それでも愛と感謝を伝えたいとすれば、方法はひとつしかない。博士の教えと遺志を受け継ぐことである。

 式典は、この思いの決意表明であったのだ。開催日を博士の誕生日に合わせたのは、おそらく、博士の魂は生き続けているのだ、という意味を込めてのことだったのだろう。

多様性に満ちたフレンチポリネシア

 3時間ほどにおよんだ式典は閉会の辞で閉められ、主催者からランチが振る舞われた。色とりどりのフルーツやケーキなどを、めいめいが、プウラウ(オオハマボウ)の葉をお皿に、取り分ける列ができた。列から人が減るのを待っていると、オスカーがゆっくり歩いてきて隣に座った。

「ハワイからですか?」
 英語だった。
 「いいえ、日本からです」
「学者ですか?」
 「物書きです。かつて、博士から多くのことを教わりました。あなたにとって博士は?」
「とても信頼していました」

 21世紀に入ってオスカーは、親フランス派のガストン・フロスと自治大統領の座を争い、2004年に初選出された。その後、失脚と返り咲きを繰り返し、最後の任期を終えたのは13年だった。

 オスカーの在任中に自治権は拡大した。それまでフランス領ポリネシアは、軍事、外交、造幣などはフランスが主導。しかし現在では、独自に外交交渉もできる。その状態を「フランスの海外国」と評することもある。ただ、依然としてフランス憲法の影響下にあり、一時は外れていたが、オスカー在任の最末期、再び国連が定める植民地を脱していない地域のリスト「非自治地域リスト」に記載された。

 篠遠博士は、フランス領ポリネシアの政府予算を得てタヒチでの活動を続けた。史跡復元は文化遺産の観光資源化を意図した観光予算でもあった。そのため政府要人たちと親しく、歴代の自治大統領のなかでは、ガストンともオスカーとも親密だった。タヒチ独立を強く支持していたわけではない。むしろ外国人として、住民の重大な決定は住民がすべきだと冷静に見ていた。しかし、博士の活動がタヒチの政治と関係なかったとするのは無邪気に過ぎるだろう。

 博士が解き明かしたポリネシアの古代史は、ポリネシア先住民が自身のルーツをたどるのに役立った。祖先が西洋や東洋にはない独自の知識体系を持ったことを知らしめた。そんな博士の活動は、世界各地で先住民が権利回復を求めた時代と重なる。

 その学識は民族的アイデンティティの確立の基礎となり、自文化への誇りの回復だけでなく、ラディカルな脱植民地主義に重なって独立運動の淵源にもなった。篠遠博士は、復元にとりかかった67年あたりから、こうした複雑な先住民の文化復興運動と権利回復運動の渦中で仕事をしてきたのである。

 フランス領ポリネシアの人口は約28万人。民族構成は、約67%がポリネシア系、約16%がフランス系、約12%が他の欧米系、約5%が中国系を中心にした東アジア系だ。もちろん民族間の混血は多い。そのなかで独立支持者は都市部に多く、都市部よりポリネシア文化を色濃く残す辺境部は逆に少ないとも言われる。フランスからの補助金の期待が強いのであろう。

 式典に政治色はまったく感じられなかったが、主催者たちや参加者が、元大統領のオスカーの列席を非常に喜んでいたのが印象的だった。

(レポート=藍野裕之 写真=飯田裕子)

(次回:タヒチ紀行1へと続く)

*過去の記事:篠遠博士追悼シンポジウム東京海洋大学で開催

藍野裕之

藍野裕之 ライター、編集者

(あいの・ひろゆき)1962年、東京都生まれ。文芸や民芸などをはじめ、日本の自然民俗文化などに造詣が深く、フィールド・ワークとして、長年にわたり南太平洋考古学の現場を訪ね、ハワイやポリネシアなどの民族学にも関心が高い。著書に『梅棹忠夫–限りない未知への情熱』(山と溪谷社)『ずっと使いたい和の生活道具』(地球丸刊)がある。

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