line_box_head

ポリネシアに過去を贈り届けた考古学者、篠遠喜彦博士を讃える記念式典が、タヒチ・フアヒネ島で開催

(2019.10.12)

カルチャーのTOP

icon

ポリネシア人の心の故郷を復元

 篠遠博士がフアヒネ島を初めて訪れたのは1962年、ビショップ博物館の大調査の一員として。そして67年に再訪し、さまざまな島の調査のひとつに過ぎなかった前回とは違い、この島にじっくり腰を据えて調査を行なった。

 調査は晩年まで毎年行なわれ、フアヒネ島は篠遠博士が後半生を捧げたライフワークの島となった。

 島の北西にファレという小さな港町がある。式典会場は、そこから汽水湖のファウナ・ヌイに沿って4㎞ほど東に位置するマエバ村だ。フアヒネ島に人が暮らし始めたのは紀元1000年頃だが、マエバ村からは、その後に築かれた特異な文化を示す遺跡が多数発見されたのである。ファウナ・ヌイの沿岸に、島の各地の首長がまとまって暮らしていたのだ。首長だけの共同体は他の島に類を見ないもので、こうした遺跡群の発見は、かつてマエバ村が島の政治の中心、島の首都だったことを物語り、篠遠博士の情熱は、この地の歴史の全容を解明することに注がれていった。

 そして、篠遠考古学の第2章とも呼ぶべき調査は、発掘とともに遺跡の復元を伴ったものになり、他の考古学調査とは別格のものとなった。復元は発掘に比べて学術的な意味が薄く、そのうえ膨大な手間と労力がかかり、考古学者はなかなか手を出さない。それを篠遠博士は半世紀もやり続けたのだ。

 復元はマラエを中心に行なわれた。マラエとは神話のなかの神々や祖先神を祀り、さまざまな儀式が行なわれた場所を言い、そのため祭祀場と呼ばれるのが普通だが、首長の権威の象徴で集落の文化的中心でもあることから神殿と呼ばれる場合も少なくない。ソサエティ諸島のマラエは、岩石と石化したサンゴでつくられてきた。その復元にあたり、博士は極力、重機を使わず、島民を雇って人力を主力にして、建設当時にできるだけ近い方法で行なった。

 当初、マラエの復元は必ずしも島民の理解を得られたものではなかった。フアヒネ島をはじめ、ソサエティ諸島の人々は18世紀後半以降に訪れ始めた西洋人の影響で、キリスト教に改宗していた。しだいに、キリスト教への改宗と文明化が進むにつれて、マラエは半ば土のなかに姿を隠し、崩れた石積みは草木で覆われてしまっていたのだ。

 こうした歴史があるなかで、復元をはじめた篠遠博士の活動に島民が不理解だったというのもうなずける。もはやマラエはポリネシア先住民の捨てた過去の象徴であり、掘り返せばときに人骨が出る不気味なものでしかなかったのだ。しかし、博士の根気強い説得と行動により、しだいに追随する者が現れた。

 ポリネシア先住民は文字を持たず、民族の歴史を口承伝承で伝えてきた。語り部である長老がいなくなれば、民族の歴史は闇に葬られてしまう。絶滅寸前となった口承伝承は歴代の民族学者が記録した。その成果を篠遠博士は島民に語り、復元への参加を促し、やがて古代の建造物を現実世界に表出させたのだ。

 篠遠博士は、遺跡を発掘、復元することで、島の歴史を血の通う知識として授け、また古代遺跡を文化遺産として、フアヒネ島民に、そして、ポリネシアの人々に残したのだ。

1 2 3 4 5
 
 
ライター
藍野裕之

(あいの・ひろゆき)1962年、東京都生まれ。文芸や民芸などをはじめ、日本の自然民俗文化などに造詣が深く、フィールド・ワークとして、長年にわたり南太平洋考古学の現場を訪ね、ハワイやポリネシアなどの民族学にも関心が高い。著書に『梅棹忠夫–限りない未知への情熱』(山と溪谷社)『ずっと使いたい和の生活道具』(地球丸刊)がある。

line_box_foot