ホーボージュン令和元年のアジア旅! 「ヒマラヤの果て、雲の手前。〜幸せの国ブータンを旅する〜」中編

2019.08.19 Mon

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ホーボージュン 全天候型アウトドアライター

Photo by Keiji Tajima


アウトドアライターのホーボージュンさんが
アジアバックパッキングのレポートをお届けして今年で4年目。
令和最初の旅先は、“世界一幸せな国”として知られる
ヒマラヤのブータン王国!
いよいよヒマラヤの山麓にある城砦をめざし
トレッキングがスタートします!

ブータン前編はコチラから!)

 ドラゴン号は渓谷沿いの急峻な山道を快調に走り続けた。太陽が高くなる頃「ジグメ・ドルジ国立公園」の核心部へ到達し、つづら折りの道がどんどん細くなった。今日はいよいよトレッキングを開始する。そろそろ登山道も近づいているはずだ。 

 ところがソナムさんはなかなか歩き始めようとしない。時々クルマを停めて周辺の様子を見に行くが、ゴーサインを出さないのだ。

「どうしたんですか?早く出発しましょうよ」
「……」

 なぜかソナムさんは黙っている。目を半分閉じ、頬に指先をあて、まるで半跏思惟像のような顔をしていた。あたりに漂う静寂と諦観。もしかして涅槃に渡ってしまったのだろうか?

「……やめましょう」
「な、なんで?」

 ソナムさんいわくこのあたりのトレイルは雨季でブッシュが覆い茂ってしまい、とても足を踏み入れる状態じゃないという。登山道の整備がされていないから荒廃がひどいらしい。

 そもそもブータンには「登山道」という概念がない。なぜなら誰も登山をしないからだ。山は聖なる場所であり、登る場所ではない。山を縦走するのは交通と交易のためで、僕がいう「トレイル」とは彼らの「生活道路」のことなのだ。
 そんな生活トレイルも最近は自動車が通れる舗装路がどんどん整備され、その役目を終えつつある。このエリアも舗装道路が繋がり、かつての生活トレイルはすっかり廃道になってしまった。

「でも、せっかくだから行ってみましょう!」

 あまり乗り気でないソナムさんを説得し、ドラゴン号から荷物を降ろす。はるか日本からやって来たのだ。しかも一日240ドルもの公定料金を払っているのだ。ブッシュごときで敗退するわけにはいかない。僕はブーツの紐をきつく締め、トレッキングポールを握るとびっしょりと露の降りたブッシュを掻き分け、森の中へと突撃したのである。
 
 ところがどっこいぎっちょんちょん。

「ぎゃあああああ!」

 わずか数百メートル行ったあたりで僕は踵を返し、一目散に舗装路に駆け戻ってきた。

「ヒ、ヒ、ヒルだあああ!」

 ずぶ濡れになったトレッキングブーツとパンツにビッシリと山ビルがへばりついている。日本のヒルよりサイズは小さいが、血を求めてウジャウジャうごめくビジュアルが僕を絶叫させた。何を隠そう僕はヒルが大嫌いなのだ。

「ひゃあああ!」

 僕の後からカメラを抱えたケイジ君も戻ってきた。同じように靴やパンツにヒルが張り付いている。僕はグレゴリーのトップリッドからライターを取り出し、炎で炙ってヒルを落とした。コイツらは無理に剥がすと傷跡が残りいつまでも直らないのだ。本当は塩を振りかけて落とすのが一番早いが、今回は持ってこなかった。まさかヒマラヤの山中にヒルがいるなんて思わないじゃないか。
 それにしてもケイジ君には毎回ひどい目に遭わせてしまう。前回一緒にロシア領サハリンを旅した時には山ダニの襲撃を受け、両脚をボコボコにされた。なんだか申し訳ない。

「ジュ、ジュンさん……」

 ケイジ君が震えた声でいう。

「オレの腹になんかいませんか……? オレからは角度的に見えないんですけど」

 Tシャツをたくし上げて腹を僕のほうへ突き出す。かがみ込んでそれを見た時のことを思い出すと今も鳥肌が立つ。黒くてぶっといヒルがケイジ君のヘソの穴の中へ、身体をグイグイとくねらせながら潜り込もうとしていたのだ……。

「ぎゃああああああ!」

 かくして僕らは廃道トレイルからの撤退を決めた。そしてトレッキング開始地点は風通しがよくてもっとドライな、標高2,400mのダムジン村に変更したのである。

 
旗が風にはためくたびに
祈りが風に乗って届けられる

 ダムジンで簡単な昼食を取ると、僕らはいよいよトレイルを歩き始めた。

 今回めざすのは標高2,850mにあるガサ県の《ゾン》だ。一般的にはここがブータン西部では人が住む最高地点になる。正確にはここからさらに2日歩いた3,840m地点(富士山より高い!)に先住民族が住むラヤという集落があるが、そこに行くには往復だけで4泊5日かかるため、今回は断念した。追加の公定料金1,200ドルはさすがに無理だ。

 さて。ブータンの社会を理解するためにはゾン(城砦)のことを理解しておく必要がある。これは「僧院」と「県庁」を合わせたような巨大建築物だ。ブータンは仏教と国政が密接に関係していて、王制が敷かれる前は仏教の指導者が国政を司っていた。今は議会民主主義の国だが、国民の仏教への帰依は篤く、ゾンが聖俗両方の中心となっている。ブータンには20の県があり、すべての県にゾンがある。

 面白いのはゾンは高山の山頂や見通しのよい峠、川の中州などに設置されていることだ。これは度重なるチベットからの侵攻に備えた軍事拠点でもあったから。そのためガサ県のガサ・ゾンは標高2,850mというとんでもない高所に設置された。いってみれば長野県庁が北アルプスの奥穂高岳にあったり、富山県庁が立山連峰の室堂にあるようなものだ。住民票1枚出してもらうのもたいへんなのである。

 また僧院であるゾンは若いお坊さんたちの学校を兼ねていて、ガサ・ゾンには常時100人以上の少年僧が居住し共同生活を送っている。彼らは休みの日にはダムジン村やガサ温泉まで歩いて降りてくるのだが、そのおかげでこの区間のトレイルは現役の生活道として使われ続けている。

 このガサ・トレイルを歩き始めてしばらくすると道は美しい棚田の上に出た。稜線には何十本もの白い旗が並び立ち、緑の水田を渡った風がその旗をはためかせていた。
 ここにくるまでにあらゆる峠、あらゆる橋、あらゆる山頂で風にはためく旗を見た。その旗には2種類あった。カラフルな《ルンタ》と真っ白な《ダルシン》だ。

 ルンタはブータン語で「風の馬」という意味で、チベットやネパールでは《タルチョ》と呼ばれる。五色の旗に経文と馬のイラストが印刷されていて、五つの色は青、白、赤、緑、黄の順と決まっている。そしてそれぞれの色は仏教では天、風、火、水、地を現している。
 旗に風の馬が描かれるのは「仏法が風に乗って広がるように」という願いからだ。そのためルンタは風のよく吹き抜ける場所に結ばれる。
 また旗が一度はためくたびに一度読経したことになるので、ブータンの人は縁起担ぎのため、なにかにつけルンタを結ぶ。クルマの車内に結ぶ小型のルンタもある。「英語で言うとラッキーフラッグですね」とソナムさんが教えてくれが、その語感に近いカジュアルさがある。

 いっぽうダルシンは「弔いの旗」だ。日本の幟(のぼり)によく似ているが高さは5メートル以上あり、縦長の白い布地に細かい字でびっしりと経文がかかれている。

 ブータンでは人が死ぬと火葬し、その遺灰を山に撒く。そして遺灰を撒いた場所に108本のダルシンを建てることで魂を供養する。風ではためくたびに祈りが風に乗って届けられるというのはルンタと同じで、こちらも風のよく通る丘の上などに建てられる。

「ブータンにはお墓はありません。遺灰を撒いて、旗を立てて終わりです」

 僕はそれを聞いて『千の風になって』という歌を思い出した。あの歌に歌われる死生観はまさにダルシンのそれである。ブータンの人々は墓の前で泣いたりしない。死は悲しいことではない。肉体を抜けて自由になった魂は空を吹き渡り、またどこかで転生するからだ。
 そんなダルシンのはためく丘の下に、古い大きな農家があった。家の前を通りかかると小さな女の子が庭で遊んでいた。「クズ・ザンポーラ(こんにちは)」と声をかけると、女の子は庭仕事をしていた父親のうしろに隠れてしまった。でもその腕の向こうから好奇心たっぷりの瞳が見えた。 母屋のテラスではプロレスラーのような風貌をしたゴツイ男が木工仕事をしていた。その横で男の子が手伝いをしている。男は5円玉のような形をした円盤状のパーツと、剣先のような形をしたパーツをノミとナタで削り出していた。テラスにはそんなパーツが山積みされていた。

「何を作っているんですか?」
「ダルシンの飾りですよ」

 おっかない顔とは裏腹に男は優しい口調で教えてくれた。

「今年の春に母が亡くなりました。その弔いのためにダルシンを建てています。いまはちょうど田植えの季節で忙しいのですが、今日はダルシン作りの日にしました」

 それを聞いて僕はちょっとびっくりした。そうなのか、こういう仏具もすべて手作りするのか。

「ダルシンの木柱もぜんぶ自分たちで山から切り出してきます。ここには何もないけれど、森だけは豊かですから」
 ブータンは国土の72%が原生林で、政府によって手篤く守られている。しかしダルシンには108本もの樹木を使う。これはなかなか看過できない量だ。そこで政府は森林資源保護のために木柱の再利用を推奨したり、新規の切り出し本数を制限したりしているそうだ。

 奥の部屋では別の男が木柱の皮を剥いでいた。兄弟か親戚なのだろうか、どうやら一家総出での作業のようだ。みな時間をかけて丁寧に作業している。

 それを見ながら僕は日本の葬儀のことを考えた。日本では仏壇仏具はもちろん、墓や卒塔婆を家族が彫ることはまずない。儀式もじつにオートマティックで、通夜も葬式も火葬も納骨も葬儀屋に言われたままこなすだけだ。先日知人の葬式に参列した際、葬儀屋が遺族に「お寺さんも忙しいので、このさい初七日も一緒にやってしまいましょう」と言っていたのにはびっくりした。冠婚葬祭の風習が時代に合わせて変化していくのはわかるが、いまの日本はあまりにも忙しすぎて、死者をゆっくり弔うことすらできなくなっている。

 こうして送って貰える魂を僕は少しうらやましく思った。きっとこの家のおばあさんは吹き渡る風に乗り、大空を旅しているだろう。


“ブータン建国の父”が辿った
いにしえのトレイルを歩く

 ガサトレイルは幅2メートルほどの細い山道だったが、静かで神秘的なトレイルだった。あちこちにルンタが結ばれ古い仏塔や城壁の跡が残っていた。

「この道はとても古くて、17世紀から使われています。ブータンの国はガワン・ナムゲルというお坊さんが作りましたが、彼はチベットからこの道を通ってブータンに入ったんです。ナムゲルは“建国の父”と呼ばれていて、どこのお寺へ行っても彼の仏像があります」

 ブータン国の成り立ちはヒマラヤ山脈を挟んだ隣国チベットと切り離せない。当時チベットでは《化身ラマ》による国の統治が行われていた。化身ラマというのは世界を救うために如来や菩薩が人間の姿に化身してこの世に現れた師僧のこと。もしこのラマが死ぬとその弟子たちが夢のお告げや預言に基づいて次の生まれ変わり(大抵は赤ん坊や幼い子どもだ)を捜索し、宗教的なテストを経て跡取りに認定する。そして厳しい英才教育を授けて指導者に育てるのが習わしだった。
 ところがこの化身ラマを巡っては教団内でたびたび対立が起こり、チベット仏教はさまざまに分裂した。ガワン・ナムゲルは1594年に生まれ、霊的なお告げによってチベット仏教ドゥク派の第5世化身とされたのだが、のちにライバルとの認定争いに敗れ1616年にこの道を辿ってブータンへ逃れてきた。22歳の時のことである。

 このころブータン一帯にはすでに仏教が浸透していたが、ナムゲルは政教の両面で強力な指導力を見せ、ブータンを国家として統一した。そして彼を追って侵攻してくるチベット軍を撃退すると、各地にゾンを建設して防御網を作りあげた。ガサ・ゾンはそのもっとも古いもののひとつなのである。

 ちなみに日本でも有名なダライ・ラマ14世(テンジン・ギャツォ)はこの頃ブータンに攻め入ってきたチベット仏教ゲルク派のダライ・ラマ5世の名跡だ。ダライ・ラマはそのあと8回も転生したのち、いまは祖国チベットを追われ北インドで亡命生活を送っている。運命とはわからないものだ。生まれ変わるのもなかなかたいへんなのである。

ブータン最古の城砦
ガサ・ゾンを訪ねる

 ガサ・ゾンに着くとソナムさんはザ・ノース・フェイスのトレッキングウエアから民族衣装に着替え、《カムニ》という長いスカーフを纏った。国民は寺院やゾンに入る時には必ずカムニを着用しなければならず、僕ら観光客も建物内では帽子を取り、長袖のシャツを着ることになっている。僕は今回フォーマルなシャツを持ってこなかったので毎回レインウエアを着て参拝したが、蒸し暑くて大汗をかいた。こんなことならヘンプのシャツでも持ってくればよかった。
 ガサ・ゾンは戦略的な城砦として建てられただけあり、威風堂々とした建物だった。しかし城内にいる僧侶はみな若く「寺の小僧」という感じ。これはガサ・ゾンが僧侶学校を併設しているからだ。

 声をかけるとみんな英語で返事をしてくれた。みんな明るくくったくがない。澄んだ瞳と穏やかな微笑み。いろんな国を旅してきたけど、大人もこどももこれほどくったくのない国はなかなかないと思う。
 ただ気になったことがひとつあった。みんな法衣の懐にスマホを入れていて、しょっちゅうそれをのぞいているのだ。

 若い小僧たちだけではない。大人たちや黄色い法衣を着た位の高そうなお坊さんも境内や階段の縁に腰掛けてスマホをいじっている。これはガサ・ゾンに限ったことではなく滞在中に訪れた10カ所近いゾンや寺院の至る所で見る光景だった。

 もちろんこれは日本でも同じだ。お坊さんだってスマホを使うし、檀家と法事の打ち合わせをLINEでしてたりする。SNSで説法する寺も珍しくない。もっといえばお盆の忙しい時期は卒塔婆をインクジェットプリンターで印刷したりもする。そして檀家の戒名や年忌のデータはすべてスマホに入っている。いまや坊主だってIoTなのだ。

 でも僕がこの光景に違和感を感じるのは“それ以外”があまりにも原始的だからだろう。まわりの風景も、建築物も、衣装も、食べ物も、そして人々の暮らしぶりも17世紀の頃のままなのに、懐のスマホだけが最新なのだ。そしてヤクの放牧と冬虫夏草の採取以外何もないこんな僻村にも、しっかり電波は届いている。この“ねじれ”がブータンの未来ににどんな影響を及ぼすのか、僕にはとても気になった。 仏殿の前の広場には108基のバターランプが備えてあった。銅の器にヤクの乳で作ったバターを流し込み、綿を撚って作った芯を立てたものだ。若い僧侶が長いマッチのようなものでひとつひとつ火を灯していた。バターランプはほんの少しの風でも消えてしまう。僧侶は口元を僧衣の袖で塞ぎ、息がかからないように慎重に点灯していた。そのときだ。僧衣の懐でスマホのバイブがブーブーっと鳴った。

「オン・マ・ホン・ベンザ・グル・ベマ・シディ・ホン……」

 若僧は熱心にマントラを繰り返し、ひたすらバターランプと向きあっていた。僕はその横顔を見て、なんだか少しホッとしたのである。
 

ヤクザの顔のボスが見せた
優しい心づかい
 その夜はダムジン村のキャンプサイトに戻った。キャンプサイトにはソナムさんが手配したコックとアシスタントが来ていて、キッチンテントが用意されていた。コックのボス(……名前を聞いたけど忘れてしまった)はヤクザ映画に出てくる極悪非道な殺し屋のような顔をしていたが、じつは敬虔な仏教徒で肉も魚も食べないビーガンだと聞き驚いた。

 ボスはテントサイトに大きな焚き火を熾すと、そこに河原で摘んできた薬草を投げ込んでモウモウと煙を焚いた。右側がボス。キャンプサイトにはキッチンテントが設けられ、現地の料理クルーによって朝晩の食事が作られた。ブータンのトレッキングでは通常全食がこうしてサーブされる。

「あれは虫除けのための煙幕です」とソナムさん。

「すごい煙ですね……。前にモンゴルを旅した時は遊牧民たち乾燥した牛の糞を燃やして虫除けにしてました」

「ああ、そうですか! ブータンでも山岳民族はヤクの糞を使いますよ」

 ボスの焚き火があまりに煙かったので、虫除けの薬を持ってるからそんなに煙幕張らなくても大丈夫だと伝えた。僕は雨季のアジア各国でさんざんひどい目に遭った経験から(▶香港編)今回も強力なディートを持ってきていたのだ。

「でもあれが彼のスタイルなんですよ」とソナムさんはいう。 ボスは殺生を嫌うので、もし自分の蚊が身体にとまっても叩きつぶさない。でもゲストは蚊を殺すし、いくら注意していても寝ている時などは反射的に手で払ってしまう。だから蚊や虫たちが(極悪非道な)人間に近づかないようにああやって煙幕を張っているのだという。人はみかけによらないものだ。


ちょっと箸休め
Photo Library of Bhutan
ジグメ・ドルジ国立公園はブータン北西部の急峻な山岳地帯にあり、いたるところに滝が流れていた。日本では観光名所になるほどの立派な滝だ。

標高2,000mを超えてもこのような密林地帯が続く。ブータンの森林限界は4,000m付近だそうだ。

キャンプサイトの北側にそびえるバリーラ山。鋭利な山容がカッコいい。この向こうにはカンチェンダ山(5,245m)やガンチェン・タグ山(6,784m)などヒマラヤ山脈の高山がある。

17世紀から続くガサ・トレイルを歩く。雨期を迎えたブータンは低く雲がたれ込んで眺望はあまりよくない。

こんな山奥にも棚田が作られていた。標高2,500m。稲作の限界高度だ。ブータンの農家では主に赤米を作る。

野山にはたくさんの花が咲いていた。

ダムジ村の寄宿舎で僧侶学校の生徒たちが夏合宿(?)をしていた。近所の空き地で《クレ》を楽しむ。クレというのは遠投のダーツ。20mも先にある的に向けて巨大なダーツをぶん投げるかなりワイルドな遊びだ。

ガサ・ゾン僧院学校の少年僧たち。6歳で入学し共同生活を送る。みんな素直でくったくのない笑顔を見せてくれた。

トレイルサイドには17世紀に作られた城壁が残されていた。ヒマラヤを越えて攻め込むチベット軍との戦いが繰り広げられた。

ガサ村の商店街。ブータン奥地のラヤの山岳民族が馬を引いて買い出しに来ていた。ここに来るまでに3,900mの峠を越え、丸2日かかる。

商店の内部。驚くほど品揃えが豊か。ほとんどの物資は遙かインドから持ち込まれたものだ。

今回は僕が開発したオリジナルテントを使用した。インナー一体式の2人用ダブルウォールテントで、独自の3ポール設計によってわずか2分で設営が完了する。この秋から『HOBO WORKS』ブランドで発売予定。どうぞお楽しみに!


山あいの温泉に浸かり
美しい歌声に酔う

 食事のあとは、みんなで近くにあるガサ温泉に行った。ブータンには3つの天然温泉があり、このガサ温泉は西部エリアでは最も大きな施設だそうだ。河原には5つの湯殿があり、それぞれが屋根と壁で仕切られていた。

「大昔からある温泉ですが、2009年に川の氾濫で源泉も建物もすべて流されてしまい、いまの建物は最近建て直されたものです」

 温泉の入り口にはチョルテン(仏塔)があり、宿泊施設や湯上がりに涼むための東屋などもあった。いまは湯治客はまったくいないが、冬の農閑期になると全国から農民が訪れたいへんな賑わいになるらしい。農民たちは家財道具や布団を持ち込み、テント暮らしをしながら一週間以上滞在する。いま僕らがテントを張っている周辺がフェス並みのテント村になるそうだ。

「私は小学校3年生の時にお母さんに連れられて初めて来ました。当時はまだ自動車が通れる道がなくて、プナカから3日かけて山道を歩いてここまで来ました。暗い山道で私はずっとお母さんの手を握っていた。でもお母さんはここに来ることを人生で一番楽しみにしていたので、すごく機嫌がよかった」とソナムさんが言う。

 まるで江戸時代のお伊勢参りのような話だが、ほんの最近、1986年のことだ。日本はバブル時代が到来し、ディスコとドラクエとダイアナカットが大ブームになり、MTVではマドンナの『パパ・ドント・プリーチ』がエンドレスで流れていた。ビートたけしがフライデー編集部を襲撃し、僕はレーサーレプリカのバイクで峠道を攻めていた。それを思うと僕はまたもや激しいタイムスリップ感とテーマパーク感に苛まれる。やっぱりブータンは時空が歪んでいるのだ。

 ブルーシートのかけられた簡易的な脱衣所で服を脱いだ。ブータンの温泉では水着着用がマナーで、全裸や下着での入浴は禁止されている。浴槽にはミネラルウオーターは持ち込めるが、食べ物やアルコール、瓶入りの飲料は禁止だ。
 ソナムさんのあとに続いて、中央にある大きめの湯殿へ入った。ここには広さ3畳ぐらいの湯船がふたつ並んでいた。つま先からゆっくりと湯に浸かる。熱くもなくヌルくもない。39℃くらいだろうか。座るとちょうど首まで浸かる深さだった。

「はああああ~」

 思わず声が出る。硫黄臭は強くないが少し茶色がかっていて鉄っぽい匂いがする。肌への刺激はなく、まろやかでとてもいいお湯だった。「フウ~」「ハア~」「ホオ~」

 ソナムさんやセリングさんやボスも目を閉じて長い息を吐く。その様子は日本の温泉にいるオジサンたちとなんら変わらない。

 隣の湯船には恰幅のいい男が5人と女の人が3人入っていた。女の人は湯浴み用の薄いシャツを羽織っている。彼らはこの近くの村に住む農民で、今日は午後の早い時間に仕事をあがって身体を癒やしに来たそうだ。みんな40歳前後だったが、男も女も肌がやけに若々しかった。本当は若いのに肉体労働のせいで老けて見えるのか、それとも中年だが温泉のおかげで肌がツルツルなのか、そのあたりはナゾだ。全員が穏やかで満ち足りた顔をしていた。まあ、温泉に浸かってイライラする人は少ないだろうけど。

 たっぷりと温泉を堪能すると、僕はボスにせっけんを借りて身体を洗うことにした。洗い場は湯殿の外にあった。高さ1メートルほどの巨大なコンクリート桶にお湯が貯められていて、そのまわりに鉄パイプの蛇口がズラッと並んでいる。蛇口にハンドルはなく、鉄パイプの先に木の栓が刺さっていた。どうやらこれを抜いてお湯を浴びるシステムらしい。

 僕は蛇口の前にあぐらをかき、石けんを泡立てて髪を洗った。こんなヒマラヤの山奥で風呂に入れるなんてこの世の奇跡だ。そう思いながら頭頂部をゴシゴシ洗った。ボスが貸してくれた石けんは若いおねーさんが使うようなフローラルな匂いがした。これもインド製なんだろうか。ボスの坊主頭とゴツイ顔を思い出して少しおかしくなった。そして蛇口の木栓を抜こうと手を伸ばして、思わず声を上げてしまったのだ

「ち、ち、ちんこ!」

 栓だと思っていたのはポーだった。

「また、ちんこかよ!」

 まったくブータン人っていうのはどれだけポー好きなんだ。神聖なお守りなのはわかるが、なにもパイプの栓までちんこにしなくてもいいだろう。

 やれやれ、と思いながら僕はちんこに手を伸ばし、手のひらを添えてギュッと握るとスポンッと抜いた。すると鉄パイプから大量のお湯がほとばしり出て、僕の顔をバンバンと叩いた。僕はそれで髪をすすぎ、顔を洗った。まったくなんちゅープレイなんだこれは。

 さっぱりした僕はほかの湯殿をのぞいてみることにした。日本の檜風呂のような板張りの湯船やプールのように大きな露天風呂もあった。泉質はみな一緒だと思うが、温度はいろいろだった。ぬるい風呂にはおばあさんたちが浸かってずっとおしゃべりをしていた。一番熱い風呂には僧侶学校の生徒なのだろうか、坊主頭の少年たちが顔を真っ赤にして我慢比べをしていた。それはなんだか懐かしく、ほっこりする光景だった。

 少年たちが入る湯殿の壁にはこんな標語が英語で掲げられていた。

《Managing the waste has equivalent merits of offering more than hundred butter lamps. So let us manage our waste to receive more merits. GASA PRIMARY SCHOOL》

《浪費をマネージすることは100基のバターランプより遙かに大きなメリットがあります。だからよりたくさんの贈り物を得るために、無駄使いはやめましょう。ガサ小学校》

 それが温泉のお湯のことを言っているのか、それとも金銭的なことを言っているのかよくわからなかったが(……といってもここには無駄使いを謳歌できるゲーセンも駄菓子屋もない)至極まっとうで、地に足の着いた標語だった。先進国が掲げるSDGs(持続可能な開発目標)なんかよりよっぽど説得力がある。恐るべし、なのだ。

 外に出ると太陽は山陰に隠れ、あたりを宵闇が包みはじめていた。適当に涼みながらみんなのいる湯殿に帰ると、中から女の歌色が聞こえてきた。

 薄暗い湯殿で、さきほどの農家の女たちが歌っていた。絹のような細くて滑らかな歌声が、美しい三重奏を奏でている。ゆったりとした哀しげなメロディだった。村の男たちは目を閉じてその歌声に耳を傾けている。ソナムさんやボスたちも熱心に聞き入っていた。

 女たちはそんな聴衆の存在を気にするでもなく、蕩々と歌い続けていた。時々手で湯をすくっては肩や胸にかけたり、長い髪を手で梳いたりしていた。長い長い歌だった。きっと田植えや籾摺りなど単調な農作業の時に歌うのだろう。

 ケイジ君が歌声を録ってくれていた。

 ゆっくりと湯に浸かり、僕はその歌声に耳を傾けた。柔らかなお湯の上を和声が踊るように流れていく。繊細な音の粒子と湯けむりが混ざり合い、まるで雲上の天国に来てしまったようだった。人の声ってこんなにも美しいのか。なんともぜいたくな時間だった。

(これが本当の生活だよな……)

 太陽とともに目覚め、空の下で働く。汗をかき、手を汚して土を耕す。自分の手と肉体で食べ物を育てる。そして仕事が終わったらこうして温泉に浸かり、身体を休める。仲間と笑いあい、家族とゆっくり話をする。歌に耳を傾け、気持ちをほぐす。目を閉じて、天に感謝をする。(しあわせって、きっとこういうものなんだよな)

 僕は日本の社会と自分の暮らしをふり返った。息つく間もない毎日。多すぎる人。過剰な刺激。乗車率200%の満員電車。フェイクだらけのネットニュース。イジメと差別。年間2万人の自殺者。ぬぐえない不安。見えない未来……。毎日毎日立っているだけで精一杯だ。いったいなんのために生きているのだろう。ときどきそう思う。 でも今夜は満ち足りていた。何の不安も不満もなかった。徐々に身体と心がこの国のペースに馴染んできていた。心の軸が少し変わったような気がする。

「あと1時間くらい入ってます」

 そう言うソナムさんたちを置いて先に帰路についた。ブータン人はみんな長風呂だ。2時間も3時間も入っているのだ。

 夜道をゆっくりと歩いて帰った。谷を渡る風は涼しかった。じっくりと風呂に浸かったおかげで筋肉の痛みもない。気分は満ち足りていた。僕は手ぶらで、なにも持っていなかった。だけどこの坂の上にはテントが張ってあり、寝袋が敷かれている。これ以上のしあわせはこの世界のどこを探しても見つかりそうにない。

 今日の昼にセリングさんがこのあたりでターキンを見たという。ターキンは深い森の中や4,000m以上の高所に棲息するカモシカの仲間で、風狂僧ドゥクパ・キンレイが作り出したという伝説があり、ブータンの国獣になっている。そして絶滅危惧種で極端に数が減っているため、野生のターキンを見た人はしあわせになれるという。

 ガサガサガサ……。

 近くの藪から音がした。もしかしたらターキンかも知れない。そう思って目を凝らしてみたが、どうやら風が通っただけみたいだ。

(まあいいや。すでにオレはシアワセだ)

 そう思ったらなんだかまたシアワセになった。
 月は明るく、風は涼しかった。 最終回は3,000mの垂直の壁に建つ伝説の寺院を訪ねる!
 雷龍の国・ブータン旅 後編へ続く
 

ここからは、ブータン王国の基礎知識や旅の情報をお届けします!

 

ブータンMap

旅の手配をお願いしたアルパインツアーサービスが
ブータンツアーの参加者を募集してるぞ

 ブータンが外国人の自由旅行を禁止していることは前編でも触れたが、そんなときに心強いのが旅のアレンジを一手に担うプロ。この旅の手続きを代行してくれたアルパインツアーが現在ブータンツアーの参加者を募集している。
“雷龍の国” ブータン・ヒマラヤ・ハイキングとプナカ 7日間
■2019年11/09(土)〜11/15(金) 7日間
■2020年4/17(金)〜4/23(木) 7日間
ともに¥416,000(東京・大阪・名古屋・福岡発)

旅の相棒
グレゴリー/バルトロ65
■価格39,000円+税
■重量:S2.399kg、M2.490kg、L2.580kg
■容量:S61L、M65L、L69L
■最大積載重量:22.7kg
■カラー:ダスクブルー、オニクスブラック
 正面の大型ポケットがストレッチメッシュになったことは前回触れたが、もう一点今期のリニューアルでアップデートされたのが、背面のパッド。大胆に肉抜きされ通気性が大幅に向上した。またハーネスのパッドも通気性の高い素材に変わり、熱気の抜けが劇的に向上した。今回のブータンは湿気と暑さにやられたが、背中などのムレを開放してくれるので重い荷物を背負って長時間歩き続けても快適だった。また肉抜きの結果して100gの軽量化を達成。重量はMサイズで2.49kgとなっている。
 

(文=ホーボージュン、写真=田島継二)


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