ホーボージュン令和元年のアジア旅! 「ヒマラヤの果て、雲の手前。〜幸せの国ブータンを旅する〜」後編

2019.09.06 Fri

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ホーボージュン 全天候型アウトドアライター

All Photo by Keiji Tajima


アウトドアライターのホーボージュンさんが
アジアバックパッキングのレポートをお届けして今年で4年目。
令和最初の旅先は、“世界一幸せな国”として知られる
ヒマラヤのブータン王国!
世界40ヶ国以上を旅してきたジュンさんが
この旅の終わりに見つけた「本当の幸せ」とは……。
ブータン前編・中編はコチラから)

3,000mの断崖絶壁にある
“タイガーズネスト”をめざして

 ブータン2度目のトレッキングは標高3,000mにあるタクツァン僧院への登山だった。タクツァン僧院はブータンで最も有名な寺院であり、チベット文化圏の聖地である。断崖絶壁に張り付くように建てられた光景は一度目にするとぜったいに忘れられない。僕が今回最も楽しみにしていた場所でもあった。

 この寺院が建てられたのは17世紀の末のことだ。ここに祭られているのはチベット密教のスーパースターであるグル・リンポチェ。彼は8世紀末にインドからチベットに仏教をもたらした人物であり、チベットやブータンでは釈迦に次ぐ「第2の仏」として民衆に崇められている。

「グル・リンポチェは8つの姿を持ち、その八変化を使って時に民衆をなだめ、時に脅しながらこの地に仏教を広めました。彼こそがヒマラヤ一帯における仏教の“開祖”なのです」

「へえ~!で、そのグルリンさんはなんでまたこんな山奥にいるの?」

「虎ですよ、虎」

 伝説によるとグル・リンポチェは虎の背中に跨がり、ヒマラヤを飛び越えてやって来た。そしてこの断崖絶壁の上に降り立つと、そこに庵を構えて修業に打ち込んだそうだ。
「この時に乗ってきた虎を岩の洞窟に入れておいたので、タクツァン僧院は“タイガーズネスト(虎の巣)”と呼ばれているんです」

「タイガーズネスト!」

 その言葉を聞いて僕の好奇心メーターが一気に振り切れた。まるでタイガーマスクに出てくる虎の穴みたいじゃないか! しかもその洞窟は今も現存していて、実際に見物もできるという。それだけで身体中がウズウズした。

 タイガーズネストへのトレッキングはパロ郊外にある森の中から始まった。標高2,500mにある登山口にはたくさんのミニバスやタクシーが駐まり、大勢の観光客で賑わっていた。入り口の参道のような場所には30軒あまりの土産物屋が並び、縁日のような賑わいを見せている。「ここから2,800mの第1展望台までだいたい1時間、そこから3,100mの第2展望台まで40分、そのあと崖の階段を下ったり上ったりして僧院まで40分くらいかかります。断崖は風が吹くとけっこう寒いのでウインドブレーカーを持って下さいね」とソナムさんに注意を受ける。3,100mといえば北アルプスの高峰と変わらない。僕は気を引き締めて準備を始めた。

 登山口を少し上がると林の中に50~60頭の馬が繋がれていた。地元のオジサンが鞍を着けたり、ブラシをかけたりしている。

「あの馬はなんですか?」
「参拝客に貸しているんですよ。第1展望台までのトレイルは馬が通れるので」

 僕はそれをきいて色めき立った。「乗りたい! 乗りたい!」

以前モンゴルの草原を旅した時には遊牧民に馬を借りて乗馬登山をした。また米国オハイオではカウボーイと一緒に大渓谷を駆け巡ったこともある。山岳域での乗馬はかなりのテクニックが必要だが、草原や平地では味わえない面白さがある。ブータンの山の中で馬に乗るなんて千載一遇のチャンスだ。是非とも乗ってみたい。

 ソナムさんに交渉して貰い、さっそく馬の品定めをする。ブータンの馬は小柄で首の短いアジア系の馬だった。老人や子どもをのせるのだろうか、ポニーのような小さな馬もいた。

「なるべく大きくて馬力のあるヤツを頼むよ」

 僕のリクエストに馬方のオジサンは面倒くさそうな顔をする。オマエそんな大きな登山靴履いてるくせに自分で歩かないのかよ、という感じだ。それでもソナムさんの顔を立てて、たてがみの長い牡馬を渡してくれる。美しい手織りの腹帯の上に小さな鞍が乗っていた。モンゴルのように木をくり貫いた固い鞍ではなく、革製の平べったい簡素なものだった。

 鐙の長さを調整し、ひらりと飛び乗る。視線が一気に高くなった。まるで大型トラックの運転席から見下ろしているようだ。久しぶりの騎乗は気分がいい。さあ、一路タイガーズネストへ出発だ!

 ところがどっこいぎっちょんちょん……。

 僕の馬は轡(くつわ)をしていなかった。とうぜん手綱もない。かんたんな鼻輪に1本の引き綱がつけられ、その端を馬方のオジサンが握っていた。

「えええっ? 引き馬なの?」
 てっきり馬を貸してくれると思ったが、どうやら引かれて乗るだけみたいだ。

「こいつは気性が荒いから俺が引いて行く。さあ、行くぞ」

 オジサンが荒々しく馬の尻をどつくと、牡馬はいきなり暴れ始めた。あわわわわ! 手綱を持たない僕は慌てて鞍の前橋にしがみついた。これじゃあ、まぬけな観光客みたいだ。

 予想外の展開にガッカリしたものの、馬上から眺める景色は悪くなかった。トレイルのあちこちにルンタがかけられ高原の風に揺られている。沢の脇には水車で回るマニ車があり永遠の祈りを唱えていた。ノッシノッシと坂道を登っていく馬の上で、僕はしばし瞑想にふけった。
 

四国遍路と般若心経
そして空海の教え

 僕が東洋哲学、わけても仏教思想に興味を抱いたのは2003年に巡った四国遍路がきっかけだった。ご存知のように四国遍路は四国88カ所の寺院を巡る巡礼の旅で、「歩き遍路」とよばれる徒歩巡礼では、約50日間で12,000kmもの距離を歩く。当時はそのストイックな毎日が注目され、ちょっとしたブームになっていた。

 じつはこの当時僕は大きな病気を抱えていて、かなり悲惨な毎日を送っていた。この時僕は39歳だったが、それまで病気ひとつしたことがなく、それどころかアイアンマン・トライアスロンやアドベンチャーレースに出場したり、MTBで南米大陸縦断をしたりと冒険三昧の人生を送っていた。それがある日とつぜん病気になり、人生が180度変わってしまったのだ。

 今は完治したがこの当時はまだ病気の治療方法がなく、僕は1日1日死に向かって進むことになった。とうぜんだが激しく落ち込み、精神的にもがき苦しんだ。「なんで俺が?」と天を恨む毎日だ。そして現代医学に見捨てられた僕は宗教に救いを求めた。人間が本当に絶望したとき、最後のよりどころになるのは哲学、つまり「自分はどう生きるか」なのだ。

 僕は四国遍路の巡礼に没頭し、ひたすら歩き、肉体を痛めつけた。この旅で僕は弘法大師空海と真言密教にのめり込み、帰京後には小学館から『四国お遍路バックパッキング』という歩き遍路のガイドブックまで出版することになった。僕の病気のことはまわりも担当編集者も知らなかったから「ホーボージュンはいったいどうしたんだ?」とずいぶん驚かれた。でもこうして信仰(?)を広めることも、自分に課せられた使命であり修行なのだとこの時には思っていた。
 結果から言うと、空海の神通力をもっても僕の病気は治らなかった。あたりまえだ。世の中そんなに甘くない。不治の病が治るハッピーエンドなんて安っぽい青春映画の中だけなのだ。

 だがしかし、僕の“中味”はガラッと変わった。魂のありようというか、人生の捉え方が変わった。生への執着が(なくなったとは言わないが)ずいぶん軽くなった。それこそが僕にとっての救いだった。

 四国遍路では『般若心経』というお経を何百回も唱える。般若心経(プラユニャーパーラミター・フリダヤ)は大乗仏教の“空”思想を説いた経典で、わずか300文字あまりの短い文言の中に魂の正体が説かれているとされ、時代や宗派を問わず世界中で唱えられている。たとえば次の文言は仏教徒でなくても知っているだろう。

 色即是空 (色はすなわち空である)
 空即是色 (空はすなわち色である)

 色というのは「肉体」とか「物質」などのことだ。空というのは「なにもないこと」や「まぼろし」のことだ。つまり現世の喜怒哀楽などは幻想で、この肉体も気持ちの揺れもすべてただの思い込みに過ぎないということだ。

 般若心経の解説をするのはここではやめよう。あまりに深すぎて僕の手にはとても負えない。でもせっかくなので遍路で僕が得た“真理”をひとつ書いておこう。

 迷故三界城 (迷うが故に三界は城)
 悟故十方空 (悟るが故に十方は空)
 本来東西無 (本来東西なく)
 何処有南北 (何処にか南北あらん)

 僕ら歩き遍路が頭にかぶる笠には空海の言葉が書いてあるのだが、あるとき、道連れになった外国人にこう聞かれた。「君が被っている笠に書いてあるその不思議な呪文は何を表しているんだい?」と。それまであまり深く考えたことがなかったけど、英語でも判るように意訳しながら彼にその内容を伝えた。こんな感じだ。

 欲望や常識にとらわれているといつのまにか
 自分のまわりを分厚い壁が蔽ってしまうけど、
 悟ってしまえば世界はすべて“空”で、
 自分はなにからも自由なことに気づくんだ。

 もともとこの世に東も西もない。
 それは人間が名付けたただの言葉だ。
 それなのにどうして南や北に、
 君はこだわっているんだい?

 自分でそう話しながら、僕は鳥肌が立っていた。すごい、これって真実じゃん。その空海の言葉は僕の身体の中にストンと音を立てて入ってきた。こういうのを“腑に落ちる”というんだろう。この瞬間に僕は大乗仏教の“空”の思想を深く自分の人生に取り込むようになったのである。

 グル・リンポチェがインドからチベットに入り最初の仏教僧院を建設したのが771年。虎に乗ってここブータンに飛んできたのはそのしばらくあとだ。そして空海が唐に渡り、真言密教を日本に持ち帰ったのは806年。このへんの時代は仏教界のスーパースターが乱れ飛んでいてすごい。僕ははためくルンタを眺めながらいにしえに思いを馳せ、この世界の成り立ちについて考え続けた。

信仰の力って本当にすごい
人間の底力を思い知らされた
 第1展望台で馬を返すと、僕は狭い山道を歩き始めた。トレイルは良く整備されていて歩きやすかった。そこら中でインド人がセルフィーを撮っている。彼らの自撮り好きは日本人の比じゃない。とくに男たちの自意識過剰ぶりがすごい。まるで映画スターがグラビアを撮る時のようなポージングをするのだが、狭い山道でいちいちそれをされるとうんざりする。何十人ものインド人を抜き去り、40分ほど歩くと第2展望台に到着。そこからはタクツァン寺院が眼下に見下ろせた。「!」

 その光景を見たときには言葉にならなかった。あまりに神々しく奇跡的で、脳みそがうまく認識できないのだ。あんな断崖絶壁の上にどうやって登ったのか、どうやって寺を建てたのか、そして今もなお、僧侶たちはどうやってあそこで暮らしているのか、僕にはちょっと想像がつかなかった。やっぱりグルリンさんは虎に乗って飛んで来たに違いない。じゃなきゃあそこには立たないだろう。ブータン、恐るべし……。

「なんてことだ」

 茫然としたまま僕は一時間近く僧院を眺めていた。信仰の力というのは本当にすごい。人間の底力をまざまざと見せつけられる。これはインカ帝国のマチュピチュ遺跡でも、サハラ砂漠のトンブクトゥ・モスクでも、フランスのモン・サンミッシェルでも感じたことだが、“人の想い”というのはどんな困難な自然環境も乗り越えてしまう。そしてそうやって作りあげられた建造物は時代を超えて見る者の心を揺さぶるのだ。「早くしないと拝観時間が終わってしまいますよ」

 ソナムさんに急かされて、このあと僧院内部を拝観した。残念ながら院内の撮影は禁止されているので素晴らしい仏像も仏画も見せられないが、ここは十数年前までは外国人の立ち入りも許されていなかった聖地中の聖地である。ありがたくお参りさせて貰った。

 噂の“タイガーズネスト”にも入った。真っ暗な洞窟を垂直に降りていくようなリアルケービングで、自分の手のひらも見えないほどの暗闇に僕はビビった。洞窟は無音でとても寒かった。いまにも暗闇から巨大な虎が襲いかかってきそうで、早々に退散した。僕はタイガーマスクにはなれそうにない。

 僧院にはたくさんの小僧がいた。ガサ・ゾンにいたような子どもたちだ。ここでもキラキラと澄んだ瞳が印象的だった。大聖人グル・リンポチェの仏像の裏でバターランプを作っていた子が、お経を唱えながらこっそりクッキーを食べていたのがおかしかった。
 

一夫多妻に多夫一婦
ブータンのユニークな結婚事情
 今回の旅ではほんとうにたくさんの仏教寺院を訪ねた。首都ティンプーのメモリアルチョルテン、ティンプー大仏、キチュラカン、パロ・ゾン、プナカ・ゾン、そして国王や大僧正の座所でもあるタシチョ・ゾン。どこも荘厳で、静謐で、心が洗われるような場所だった。ソナムさんはすべての仏閣と仏像の前で五体投地の祈りを捧げ、長い長いマントラを唱えた。僕は日本式に手を合わせ頭を垂れた。

 参拝と参拝のあいだにソナムさんはブータンの古い言い伝えや伝統文化について教えてくれた。僕は初めて知ったのだけど、ブータンは性や結婚に対してはオープンな国で、夜這いや浮気はよくある話だそうだ。ちょっと前までは一夫多妻が当たり前で「ブータンの田舎では女姉妹をまとめて嫁に貰うのがしきたりだったんですよ」とのこと。じっさいに前国王は4姉妹を一度に王妃にめとり、そのあいだに5男5女をもうけた。現国王は第3王妃の長男だ。 またその逆にチベットやブータン北部では一妻多夫の家族が多く、強い女性は男兄弟を全員まとめて夫にしているそうだ。これには結婚と分家による財産の散逸を防ぎ、ひとつの家族の中に家畜やお金をまとめておけるという経済的側面もあったらしい。

「でも今の国王は10歳年下の美しい王妃を心から愛していて、自分は生涯他に妻はめとらないと宣言したのです。これをきっかけに若い人たちのあいだでは複婚の習慣がなくなろうとしています」

 ソナムさんはなぜか残念そうだ。

「ソナムさんは奥さんはひとりなの?」
「はい。でもガールフレンドはいますけどね。えへへ」

 さすがはちんこの国。みんな絶倫なのだ。
 
 
農家にホームステイし
シアワセについて語り合った
 ブータン7日目には、パロ郊外の農家にホームステイさせて貰った。古くて大きな豪農で、納屋にはインド製ジープとトヨタの小型車が収まっていた。かなり成功している一家らしい。
「この村に電気が通じたのは1962年でしたが、裸電球以外なにもありませんでした。炊飯器を買ったのは90年くらい、テレビが映ったのは2000年代に入ってからです」と農家のお母さんが教えてくれた。彼女が初めてテレビを見たのは35歳の時だったそうだ。

 ブータンでは1999年までテレビが禁止されていた。西洋的な価値観の無軌道な流入を国が制限していたのだ。ところがスマホの普及によって状況は激変した。お堅い国営放送など見なくても手元のスマホで最新の(そして俗悪な)映像がいくらでも見られる。いつでもどこでも歯止めのない欲望に身を委ねることができるのだ。 数日前に訪ねた首都ティンプーではその傾向が見て取れた。ティーンエイジャーたちは歩道に座り込み、ずっとスマホをいじっていた。民族衣装を着用せずにギャング風の洋服を着ている子もいた。学校を出たのに就職がでず、裏通りでくすぶっている子も増えている。ナイトクラブでは違法ドラッグが流行っているという噂も聞いた。いつまでも“おとぎの国”ではいられないのかもしれない。

 それでも僕ら西側の人間からみたら、ブータンは無垢で、純朴で、高い志と希望に満ちた国だ。1972年のGNH宣言以来もう半世紀になろうとしているが「国民総幸福量」への国民の信念は揺るがず、いまも全員が目標にしている。そして実際に幸せそうな毎日を送っている。僕はもう30年間も世界各国を旅しているが、こんな国はブータン以外に見たことがない。 この日はソナムさん、セリングさん、そしてお母さんのディッキーさんと夜遅くまで話し込んだ。テーマは「幸せ」だ。なぜって、それを探しに僕はこの国へやってきたのだから。

 これはこの夜にソナムさんが話してくれた言葉だ。引用しよう。

「見てのとおりブータンは小さい国です。人も少ない。経済力もない。工場もない。近代的なモノはなにもない。でもブータンには世界中からたくさんの旅行者がやって来ます。高い公定料金を払って遠い国からわざわざやってくる。なぜでしょう? それは私たちの文化、伝統、そして自然を見たいからです。つまり文化、伝統、自然はそれだけで大きな価値がある。どんな産業も上回る宝物なのです。まずはそこに気づかなければなりません」

「また旅行者は私たちがどうやって生きているか、どうやって幸せに生きているかを知りたがります。でもこれは少し難しい。幸福とは内面的なものであってパッと見てわかるものではない。仏教的な人生観を理解する必要もあります」「たとえば私がなにか善い行い------困った人を助けるとか、老人に手を貸すとか、野良犬に骨を放ってやるとか------をする時、見返りやお金を求めません。なぜならそれは自分のためにしていることだからです。現世でいいことをすると、来世にそれが返ってくる。だからこれは施しではなく、自分への贈り物なのです。銀行預金みたいなものです。これはブータン人にとってはごく当たり前の感覚です」

「仏教の原則(原理、教条)は、あなたが誰かを幸福にすれば、あなたは幸福だ、ということです。そしてもしあなたが誰かを傷つけるとき、あなたは自分自身を傷つけていることになるのです。これが“因果応報”というものです」

「最も重要なこと、今夜みなさんに伝えたいことは、不幸というのは“欲望”だということです。仏教の言葉に“知足”という言葉がありますよね? 自分がすでに満ち足りていることを知るということです。もし自分が満足していたら、残りを満足していない人に渡せる。だけど世界の多くの人がそれをできないでいる。欲望に取り憑かれていつまでも満足できないからです。そこには幸せに通じる道はない」 僕はここで聞いてみた。

「アメリカナイズされはじめた最近の若者はどう思いますか? アメリカニズムというのは“欲望”そのものです。たとえば中国はこの十数年でとてつもない成長を遂げました。でもみんなが金のことばかり考えているように僕には見えます。もっとたくさんモノがほしい、もっといい暮らしがしたい。隣の人より大きなクルマ、大きな家、豊かな暮らしを……。まさに国全体が欲望に駆られているようです」

「億万長者になりたいのは判ります。あなた自身が決めればいい。もちろんあなたはそれをめざせる。上手くいけばお金を儲けることもできるでしょう。でも、けっして幸せにはなれない(笑)。なぜならお金と同時にたくさんの心配事や緊張が心に棲み着いてしまうからです。そして心の中に心配や緊張があると病気になります。そして病気になると幸せではなくなります。欲望に駆られている時、人は誰かに幸せを与えることを考えません。幸せを与えられない人はけっして幸せにはなれないのです」
「私は地球の未来に向かって最も大切なことは“教育”だと思っています。私は自分の子どもたちにできる限りの教育を施してあげたい。私はこれまで彼らに家を残そうとかクルマを買い与えようとか思ったことはありません。きっと子ども達もそれを期待したことなどないでしょう。でももし彼たち彼女たちがもっと学びたいというなら、PhDを取りたいたいとか、Masterをとりたいとか、海外留学をしたいというなら、私は全力でそれに応えます。私にはもうなにもいりません。なぜなら私は幸せだからです」

 そういってソナムさんは大きく手を広げた。それは何かを手放す時のジェスチャーに似ていた。まるで目の前の川に魚を放流するように、手の中の“欲望”をスルリと解き放った。僕の中でまた何かがストンと落ちた。


ちょっと箸休め
Photo Library of Bhutan's Temple


誰もがそれぞれの役割を抱え
この世界に降り立つのだ

 この夜、ひとりで散歩に出ると水田のうえに大きな月がかかっていた。月はもうパンパンで明日は満月だ。ということは海は大潮だ。日本との時差は3時間だから、家の前の海はそろそろ夜中の干潮時間を超え、明け方に向けて徐々に満ちていくころだろう……。歩きながらそんなことを考えた。ヒマラヤの山中で海の満ち引きを考えるなんてずいぶんへんな話だった。そろそろ家が恋しいのだろうか。

 頬に当たる風が心地良かった。今夜は食事の後にディッキー母さんが手作りの《アラ》を出してくれた。アラは麦や蕎麦から作る焼酎だ。竹筒に入ったそれを最初は恐る恐る口に運んだが、口に含んでみるとこれがうまいのなんの。調子に乗ってすっかり飲み過ぎた。シャツのボタンを外し、胸元に風を入れる。

 田んぼ沿いの防風林にルンタがかけられ、夜風にはためいていた。“風の馬”は今夜も風に乗って天空を駆け、遠くのひとに幸せを届けるのだろう。風の行く方を目で追いながら、僕は幼い息子のことを考えた。風生はもう寝ているだろうか。それとも夜中に目を覚まし泣き出しているのだろうか。

 去年の正月に男の子が生まれた。
 風と生まれ、風と生きる。
 僕は息子を「風生」と名付けた。

 一歳になる前はよく夜泣きをした。いくらあやしても泣き止まないときは、ベランダに出して月を見せ、波の音を聞かせた。月光を浴び、海風に晒されると風生は不思議と泣き止んだ。それが自分のことだとわかるのだろうか。それとも風に乗って運ばれてくる誰かの魂が聞こえるのだろうか。

 風生が生まれたとき、不思議と自分の子どもとは思えなかった。男親ならではの無責任さではない。命は父親と母親から受け取るものではなく、もっともっと遠くからやってくるものだと感じていたからだ。時空の彼方から飛んできて、ヒュッと誰かの肉体に入る。そんな気がしてならなかった。だから保育器越しに初めてかけた言葉は「この世界へようこそ」だった。 この国に来てから、自分の中でその感覚がどんどん強まっている。輪廻転生とかリ・インカーネーションとかの簡単な言葉で言い切る気はないけれど、それは形而上学の言葉遊びから、体温を伴った確信にかわりつつあった。僕らは時空を超えてやってくる。そしてなにかの理由があってこの世界に降り立つ。誰もが自分にしかできない役割を抱いてこの世に転生する。グル・リンポチェもダライ・ラマも野良犬もサカナも僕もそして風生も。そして僕らがこの世でできるただひとつのことは、生きることだ。自分の生命を燃やし、よりよく生きることだけなのだ。

 月は明るく、風は涼しかった。ゆっくり風呂に浸かったおかげで登山の疲れもない。気分は満ち足りていた。僕は手ぶらで、なにも持っていなかった。だけど身も心も健康で、こうして旅の空から遠くにいる人のことを想っている。それ以上の幸せはこの世界のどこを探しても見つかりそうにない。

 もう旅は終わりだ。
 さあうちに帰ろう。
 

エピローグ  ブータン航空B3-700便はパロ空港を飛び立ち、タイのバンコクへ向かっていた。途中インドのカルカッタで給油と清掃を行い、ほとんどの乗客が入れ替わった。ブータンから乗っている旅行者はもう僕たちしかいない。僕の隣の席ではドルチェ&ガッバーナの狂ったように派手なジャケットを着た白人が忙しそうに電話をしていた。後では中国人の若いカップルが激しくののしり合っている。まるでこの10日間が幻だったかのように。

 僕はヘッドフォンをすると、目を閉じた。そして昔、旅仲間に言われた言葉をゆっくりと反芻していた。

「旅になんか出ないですむなら、それがいちばん幸せだ」

 あの当時、僕らにとって旅は「欲望」そのものだった。もっと見たい、もっと知りたい。もっと多く、もっとたくさん。見たことない場所へ、見たこともない景色の中へ。食欲よりも睡眠欲よりも旅への欲望のほうが強かった。奥田民生が歌っていたように、眠らない体とすべて欲しがる欲望を武器に、僕らは世界中をさすらっていた。

 音信不通が当たり前だった。行方知れずでいたかった。誰にもトレースできない旅。誰にも目撃できない旅。旅先のセルフィーをインスタに上げるような旅はさすらいではなかった。それはもっと切実で、真剣で、飢餓感に満ちたものだった。そしてそれは間違いなく「欲望」だった。

『イージュー☆ライダー』から24年が経ち、心の底から渇望するような旅はもうし尽くしてしまった。歳を取って好奇心が枯れたせいもあるだろう。だって、あの民生ちゃんがもう54歳になるのだ。子どもが生まれてそばにいたい気持ちが湧いたのも確かだ。昔の僕にいわせれば「焼きが回っちまった」のだ。

「知足」という言葉をソナムさんは使った。足るを知る。いまの僕にはその言葉の大切さがよくわかる。ブータンを歩いて旅し、貧しいけれど満ち足りた表情で生きている人たちをみてつくづく思った。幸せというのはいまその手の中にあるものなのだ、と。まるで『青い鳥』のように陳腐だが、それはほんとうのことだった。

「ほんとうに幸せな人は、旅になんか出ないんだよ」

 あいつが言ったことはほんとうかもしれない。べつに旅なんかしなくてもいい。毎日が楽しく充実しているなら、そこに留まり生きればいい。旅より大切なことはいくらでもある。それでも……。

 B3-700便は南下を続け、やがてベンガル湾の上空に出た。油で汚れたウインドウの向こうにバングラデシュのデルタ地帯が見える。ヒマラヤ山脈を駆け下った幾千の流れは西でガンジス川となり、東でジャムナ川となり、合流して緑の大地を駆け抜け、ここで海に還る。太陽はこの海を照らし、海は空に登り、雲となり、雨となり、ふたたびヒマラヤの山々に注ぐ。こうして永遠に回り続けるのだ。僕らの魂と同じように。

 旅もこうして輪廻する。
 だからきっとまた僕もどこかに降り立つだろう。

 やがて飛行機は高度を上げ、僕は雲の上に登っていった。
 光る雲の向こうに、風の馬がいるような気がした。

 

ここからは、ブータン王国の旅の情報をお届けします。

ブータンMap

旅の手配をお願いしたアルパインツアーサービスが
ブータンツアーの参加者を募集してるぞ

 ブータンが外国人の自由旅行を禁止していることは前編でも触れたが、そんなときに心強いのが旅のアレンジを一手に担うプロ。この旅の手続きを代行してくれたアルパインツアーが現在ブータンツアーの参加者を募集している。
“雷龍の国” ブータン・ヒマラヤ・ハイキングとプナカ 7日間
■2019年11/09(土)〜11/15(金) 7日間
■2020年4/17(金)〜4/23(木) 7日間
ともに¥416,000(東京・大阪・名古屋・福岡発)

旅の相棒
グレゴリー/バルトロ65
■価格39,000円+税
■重量:S2.399kg、M2.490kg、L2.580kg
■容量:S61L、M65L、L69L
■最大積載重量:22.7kg
■カラー:ダスクブルー、オニクスブラック
 バルトロはグレゴリーを代表する大型モデル。長年に渡る同社のパック作りのノウハウが惜しげもなく込められていて、テント泊の縦走や今回のような長期バックパッキングでは絶大な人気を誇る。独自のピポット構造によりユーザーの動きに合わせてショルダーハーネスが動き、行動時も身体の動きに追従。容量65ℓ、75ℓ、85ℓの3モデルがあり、それぞれに3サイズが用意されている。冒険的な長旅を計画している人には自信を持っておすすめできるモデルだ。
 

(文=ホーボージュン、写真=田島継二)


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