• 山と雪

【短期連載】高桑信一の「径 ━━ その光芒」万世大路 其の参

2018.11.05 Mon

目的によって拓かれる径は、それを失うことで野に還ってゆく。消えゆく古道にかすかに漂う、かつての幕らしや文化、よすがに触れてみたい。草に埋もれ、忘れ去られた径をたどる旅。苔生す径は福島側へと続いてゆく。

二ツ小屋トンネルの福島側に遺る石垣。すでに木の根に取り込まれようとしていて、野生の復元力の凄さを知らされる。

 テント場から小一時間ほどで大平橋に着いた。橋のたもとに荷を置いてトンネルをめざす。春の日がおだやかに注ぎ、せせらぎとともに草生す古道を歩むと、やがて杭甲坂の向こうに福島側の坑口が見えた。

 こちらは県境付近の崩壊地点まで進めるはずだが、坑口から見える範囲が完全に水没して、私たちの侵入を阻んでいた。

 米沢側も福島側もトンネルまで上り坂になるのはトンネル掘削地点の制約によるもので、標高を上げれぱトンネル自体は短くできるが、そこに至るまでの積雪が増える。逆に標高を下げれば積雪量は減るものの、そのぶんトンネルを長く掘らざるを得ない。その折衷の結果として栗子トンネルは標高890メートルの山中に貫かれたが、雪国の、それもトンネル工事そのものに不慣れな明治初期の設計者にとっては難題だったにちがいあるまい。

 米沢側からはじめられた掘削を追うように、福島側からも掘り進められた栗子トンネルは、工事開始4年後の明治13年10月19日に貫通を迎える。三島通庸の遺した『三島文書』によれば、貫通点は――上下左右、双方の鑿の 切っ先を交えるごとく一致した――(筆者要約)とあるから、当時の測量技術の高さに驚かされる。

 しかし、その一方で杜撰な計画の結果も伝えられている。米沢側に遺されたふたつの坑口の謎がそれだ。『万世大路読本』筆者の鹿摩貞男氏によれば、正式な測量が行なわれる前に米沢側から掘削が開始され、60メートル掘り進んだ段階で方向の間違いに気づき、南に23度折れて福島側と結ばれている。その折れ曲がったトンネルを昭和の改修で直線に整備したため明治と昭和の坑口がふたつ並んで遺されることになったのだという。世にもめずらしい明治期の遺構は、廃道マニアの聖地として現存し、万世大路全体が平成24(2012)年、「土木学会選奨土木遺産」のひとつに選ばれている。

 トンネルから引き返し、ふたたび荷を背負って福島側の万世大路を歩き出す。道の一部は崩落し、屈折を繰り返してニツ小屋トンネルにつづいている。しかし、私たちが歩いているのは明治期の径ではなく、昭和初期に行なわれた山間部の改修の径だ。

 明治14年に開通し、米沢と福島を結ぶ主要な交通路として繁栄を極めた万世大路も明治32年の奥羽南線(現奥羽本線)の開通によって急速に衰退していく。

 しかし、当時はまだ少なかった白動車が、昭和に入って生産力を増し、やがて白動車交通に適合する道路の要望が高まっていく。万世大路もまたその対象であった。

 荷馬車の通行を目的とした明治期の規格を、自動車の通行に合わせて有効幅員6メートルに広げ、トンネルも高さ5.1メー トルに合わせて2メートル掘り下げたのだ。

 だが、荒廃して通行すら難しくてなっていた万世大路の改修は困難を極めたらしい。

トンネル近くの「鳳駕駐蹕蹟」への石段。

 昭和8年奥羽本報の板谷駅から現在の西栗子トンネルの坑口付近を経て、地形図に記された鎌沢に沿って標高を上げ、明通山の鞍部を越え、烏川を下って烏川橋に至 り、さらに福島側の象徴でもあったニツ小屋トンネルまで、11.2キロに及ぶ資材運般用の軌道が敷説されたのである。

 この専用軌道の敷設こそ昭和の大改修を成功に導いた一大プロジェクトであった。その事実を、私は迂闊にも『万世大路読本』を目にするまで知らなかった。

 ニツ小屋トンネルから下方に500メートルはど下った烏川橋周辺は、摺上川流域への入渓地としてなんども通い、知悉しているが、いかにおだやかな流域とはいえ、明通山を越えたこの地まで鉄路を拓いた当時の土木技術と発想の豊かさに驚嘆する。

 昭和8年に着工した大改改修は4年後の12年春に完成。まだスイッチパッグのままだった福島米沢間の鉄道よりも、改修された万世大路のほうが30分早かったという。

 ふたたび隆盛を迎えた万世大路は、以後30年の長きにわたって利用され、一時は東京と山形を結ぶ定期バスまで運行されたが(『わが大滝の記録』より)、積雪によって冬季の5カ月問が通行不能とあっては大量輸送時代の要請に迫いつけるはずもなく、ついに昭和41年5月、トンネルを多用して通年通行を可能とした現国道13号線に、その地位を明けわたしたのであった。

現在工事中の東北中央道。すでに万世大路の直下を貫通しているトンネルは、4代目の万世大路である。

 烏川橋に至って一息いれる。板谷から鉄路が結ばれた場所だ。すでにぼろぼろのコンクリート橋で、いつ崩壊してもおかしくない状態だが、ここも昭和の改修前までは木造の橋だったのである。当時、山中に千人を超える作業員が働いていた面影など残されているはずもない。

 ゆるく登ると、すぐに二ツ小屋のトンネルになる。内部の天井が崩壊して水が流れ出し、水に苛まれた改修当時の困難を彷彿とさせるのである。

 ヘッドランプを灯してトンネルを抜けると、左手の階段の上に、明治天皇が休んだ場所を示す「鳳駕駐蹕の蹟」を見る。

 やがて国道の喧騒が近づくと、旅の終わりは近い。行く手につづく万世大路を割愛して、国道への連絡路を下る。目前の国道のそばに、東北中央道のトンネル工事現場がある。初代の万世大路が一代で、昭和の改修後の道を二代とすれば、現国道の13号線が三代で、すでに貫通している直下の高速道路は四代目の万世大路ということになる。代を重ねるほど、古道は忘れ去られていくのであろうか。

大瀧集落の廃屋。万世大路とともに百年の歴史を刻む。

 帰路、国道の福島寄りにある大滝集落跡に立ち寄った。国道の開通によって、旧街道筋に取り残された集落である。万世大路の山問部には、街道の便宜と宿場を兼ねた集落があった。米沢側の刈安と福島側の大平、大滝で、いずれも万世大路の開通にともなって移住した集落だった。

 刈安は知らず、大平集落は旧米沢藩士20戸が移住したもので、当初はにぎわったものの、鉄道の開通によって衰退し、昭和7年に6軒25名が大滝集落に移住して廃村になった(『わが大滝の記録』より)。

 しかし、その大滝集落も同様の経緯をたどり、昭和54年には無柱となって、百年の歴史を終えるのである。

 大平も大滝も、万世大路の歴史とともに歩んだ集落だった。径の繁栄によってにぎわい、径の衰退によって苦難を余儀なくされた。それは、移住という形態のもつ宿命かもしれない。希望の径が生んだ集落は、径の消失によって滅んだのだ。苦難に耐えて暮らしたあげく、集落を去らねばならなかった人々の思いが大滝会を結成し、いまでも時折故郷の集落を訪ねていると聞く。

【資料提供:鹿摩貞男『万世大路読本』、参考文献:大滝会『わが大滝の記録』】

 


 

高桑信一 たかくわ・しんいち
1949年、秋田県生まれ。作家、写真家。「浦和浪漫山岳会」の代表を務め、奥利根や下田・川内山塊などの渓を明らかにした、遡行の先駆者。最小限の道具で山を自在に渡り、風物を記録する。近著に『山と渓に遊んで』(みすず書房)、『山小屋の主人を訪ねて』(東京新聞)、『タープの張り方、火の熾し方 私の道具と野外生活術』『源流テンカラ』(山と溪谷社)など。

 
出典:好日山荘『GUDDÉI research』2016冬号
 
 
 

 
【短期連載】高桑信一の「径 ― その光芒」万世大路 其の壱
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