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【ユーさんの72年_12】中川祐二、72年目のアウトドアノート〜5回も行った北欧の旅のこと

2021.12.16 Thu

中川祐二

中川祐二 物書き・フォトグラファー

 その国に留学しているとか、結婚してその国に住んでいるとかの事情があれば何度もその国へ行くことはあるだろうが、同じ国、地域に5回も行くということはなかなかない。

 その地域とは北欧、スカンジナビアである。
 
 きっかけはスキーの取材で会った女性から始まった。彼女は蔵王のペンションでXCスキー(*1)の教師として日本で冬を過ごしていた。そこへ取材に行き、わからなかったXCスキーのシステムについて教わったことだった。
(*1)XCスキー=“cross-country skiing”のこと。略称として“XC”がよく用いられる。おもにはスキー競技の一種として知られるが、北欧などではより生活にも密着し、積雪期の移動手段としても用いられる。野山を駆け巡るバックカントリーでの「遊び」にも最適。

 彼女の名前はエリザベット・ランベリー、スウェーデンの人だ。小柄な体つきだがパワフルな走行・滑走、優雅なテレマークスキー(*2)を見せてくれた。
(*2)テレマークスキー=“Telemark skiing”のこと。踵をフリーにした状態での「滑り」や「歩き」が自在にできるスキースタイルの一種で、足を前後にずらして滑り降りる独特のポーズは特徴的。ジャンプ競技の着地時の「テレマーク姿勢」もここから。ノルウェーのテレマルク地方で生まれたとされる。また、このスキースタイルで滑る人たちをテレマーカーとも呼ぶ。
XCスキーの姉妹。左は姉のエリザベット、右は妹のカーリン。エリザベット=リサと知り合ったことでスウェーデン好きとなり、何度も訪れることとなった。おかげで僕はアルペンスキーはやめ、XCスキー一辺倒になった。カーリンにもスキー技術を随分教わった。彼女はスウェーデンナショナルチームのXCスキーの選手だ。
 当時、僕はXCスキーの用具は持っていたものの、周りにはワクシングの方法、滑走技術など教えてくれる人はいなかった。彼女“リサ”を連れて僕のホームグラウンド、長野県の戸隠へ行って走る技術や、滑り方を教わった。

 もうひとつのきっかけは神田にあった「タマキスポーツ(*3)」の玉木正之さんの影響もあった。当時タマキスポーツはスキーをメインにしていたが、XCスキーや、ツアースキーに力を入れていた。正之さんは朴訥な人で、XCスキー、とくにワクシングや道具のことには詳しかった。僕が出入りするようになった数年前、彼はスウェーデンを旅しており、北欧のスキー事情に詳しかった。また写真学校を出ていたためカメラのことにも造詣が深く、スウェーデン製のカメラ、ハッセルブラッド(*4)を愛用していた。
(*3)タマキスポーツ=昭和20年から神田駅の西口に店を構えていたアウトドアスポーツの専門店。とくにXCやバックカントリースキー関係の用具に力を入れていた。残念ながら、2021年6月末にて閉店に。
(*4)ハッセルブラッド=1841年に誕生したスウェーデン生まれの老舗カメラメーカー。レンズ交換のできる6×6cm判の一眼レフを世界で初めて生み出した。

 リサからの情報、玉木さんからの知識、これらをまとめ出版社に北欧取材の企画を出してみた。企画はすんなりと通ってしまった。これはある大手の新聞社がスキー特集のムックを出すというものだった。これからは健康的で誰でも楽しめるクロスカントリースキー、そして北欧のスポーティなライフスタイルを紹介するということでスウェーデン、ノルウェーへ行くことになった。

 スウェーデンではヴァーサロペ(*5)というXCスキーレースの取材がメインとなった。これはスウェーデン独立の歴史を物語るレース。僕たちは細かい情報もなく、なにしろそのレースの日にモーラ(*6)という街へ行けばわかるだろうと出かけた。そのモーラでホテルを探したがどこも満員、けんもほろろに断られた。どのホテルも同じだった。仕方なく車の中で一夜をあかそうと覚悟し、せめて夕食だけでもとレストランの扉を開けた。するとどうだろう、中にはタイツとシャツだけの男たちがゴロゴロしているではないか。場違いなところに入ってしまったなと思ったが、彼らも寝ようとしたら見慣れぬ外人が入ってきてびっくりしたことだっただろう。
(*5)ヴァーサロペ=“Vasaloppet”。ヴァーサロペットとも。1922年に始まった世界最古のXCスキーの大会。毎年3月の第一日曜日に開催される。数多くのスキーヤーが集まり、90kmの過酷なレースに挑む。
(*6)モーラ=“Mora”はスウェーデンの中南部エリアにあるダーラナ県の都市。あのモーラナイフの生まれた地でもある。

 レストランも仮の宿泊所として開放していたのだった。そこにいた男たちは明日走る選手たちだったのだ。

 僕たちのメンバー4人は、車の中の荷物をすべて表に出し、寝られる空間をつくり、空きっ腹を抱えたまま寝ることになった。でも、次の日に起きる大勘違いにはまだ誰も気がついていなかった。
 
 2月の北欧、その寒さは半端ではない。マイナス20度なんて当たり前のこと。寝られない夜を過ごし、明るくなってレーススタート地点を探した。当然、選手たちが集合しているはずだからすぐにわかると思っていた。たしか川原のようなところがスタートだと聞いていた。どこにもそんなところはなかった。

 近くを歩いている人に聞いてみた。

「ヴァーサロペのスタートはどこですか?」
「ん?」

 と、けげんそうな顔をしながら遠くを指差し、

「90キロ先だよ!」
「???」

 どういうことだ、ここモーラがスタートじゃないのか。そうかゴールだと思ったセーレン(*7)がスタートだったのか、モーラはゴール地点だったのだ。
(*7)セーレン=“Sälen”もダーラナにある一都市で、マールングセーレン市のエリアのひとつ。ここにもあるように、ヴァーサロペのスタート地として知らせており、選手たちはもちろん、毎冬、多くの観光客でも賑わう街である。

 あわててセーレンへと向かった。

 ここで、このヴァーサロペのことをお話ししよう。そのむかしスウェーデンはデンマークの領地だった。貴族であったグスタフ・ヴァーサ(*8)は独立を目指し、ダーラナ地方のモーラの住人に協力を求めた。しかし協力は得られず仕方なくノルウェー国境へスキーで旅立った。直後にデンマークがスウェーデン貴族を大量虐殺をしたという情報を聞いた農民は、ヴァーサを助けようとモーラの若者二人が追いかけた。セーレンで追いつきヴァーサは戦う決心をし、農民の協力を得て2年半の戦いの末、スウェーデンは独立し、ヴァーサは初代国王になった。このとき若者が追いかけたモーラ、セーレンの距離がおよそ90キロ。これを記念して開催されているのがヴァーサロペ、つまり、ヴァーサ王のレースだ。これに世界中から数万人のファンが参加し、毎年開催されている。
(*8)グスタフ・ヴァーサ=“Gustav Eriksson Vasa”は、1523年に、デンマーク王国の支配下からスウェーデンを独立させた初代国王。グスタフ1世とも。

 僕たちはぎりぎりセーレンのスタートに間に合い、再びモーラへと向かった。もちろんスキーではなく車でである。およそ90キロを途中、取材のために写真を撮りながらモーラを目指した。およそ4時間ほどでモーラに到着したが、優勝選手のゴールに辛うじて間に合った。90キロを4時間あまり、スキーとしてはすごいスピードだ。
(左)セーレンのスタート地点。河原のようなところに参加者が集合しスタート。その河原が急に狭まり大渋滞が起こる。われ先にとスキーを脱いで走り始める人が続出。(右)モーラのゴール地点。身内の帰りを首を長くして待っていた家族がたくさんいた。
 トップアスリートは別として、一般スキーヤーもたくさん参加している。おじいちゃんも、お父さんも、子どもも参加する国民的レースなのだ。毎年、このレースで亡くなるおじいちゃんがいると言う。そんなとき、

「よかったねあのおじいちゃん、いちばん好きなスキーで亡くなるなんて」

 日本だったらそんな言葉は出てこない、なぜ年齢制限をつけないのか? 医師の診断書を提出させるべきだ、なにがあっても自己責任という誓約書を書かせるべき、こんな議論になるに決まっている。
 
 ゴール地点には、暗くなっても家族のゴールを待っている子どもの姿があった。手にはいかにも手づくりの金メダルが握られていた。

 スウェーデンの赤ちゃんはスキーを履いて生まれてくる、と言われる国だからこそのレースだ。

 その次にこの国を訪れたのはHDPという雑誌の取材だった。有名自動車メーカーのサポートも付いたため、スウェーデンに到着するとすぐにディーラーで車を2台ピックアップし、その雑誌のステッカーを貼るという作業からはじまった。

 今回はスキーもだが、僕の中で楽しみにしていた取材先はABU(*9)というフィッシングリールのメーカー訪問だった。釣りをする人なら知らない人はいないほど有名で歴史のある会社だ。とくに当時のルアーフィッシングファンには憧れのブランドだった。この会社を訪れ、もともとはタクシーの料金メーターをつくっていた会社だと聞きびっくりした。過去の製品を見せてもらい、その夜はABUのゲストハウスに泊まることになった。
(*9)ABU=スウェーデンの釣具メーカー。現在の“ABU Garcia”のこと。当時はABU社。“ABU”は通称。

 ここで釣り好きなら、あれっ、なんだか聞いたことのある話だなと思う人もいるでしょう。そう、開高 健の『フィッシュ・オン』(*10)でも紹介されたあのABUのゲストハウスである。写真家・秋元啓一(*11)と“殿下”“閣下”と呼び合い、釣りをするシーンが書かれている。
(*10)『フィッシュ・オン』=「戦争」や「釣り」をテーマに世界をめぐり歩いた小説家の故・開高 健が、世界各地の釣り体験を綴ったエッセイ。『フィッシュ・オン』は1970年に『週刊朝日』に連載が開始され、以降に単行本となった。(*11)秋元啓一=開高 健とともにベトナム戦争への取材を敢行した朝日新聞のカメラマン。『フィッシュ・オン』でも写真を手掛けている。故人。
ABU社と同じ敷地内にあるゲストハウス。ログキャビンも北欧風。中は素朴だが快適にデザインされたダイニングルームとシッティングルームが。いくつかのベッドルームと”便利な”サウナがある。
 その晩は、ゲストハウスで副社長と会食ということになった。秘書がサーモンをサーブしてくれて、ポテトと小海老のサラダ、ワインもたっぷりいただいた。ログキャビンの建物には二段ベッドの部屋が数室。地下はサウナになっていた。もちろん十分にサウナは楽しんだが、せっかくあたためたサウナの熱をそのままにしておくのはもったいないと、洗濯をして干そうということになった。

 このとき同行していたのは、当時K大学の学生のS・Mくん。彼は将来、外務大臣になると夢を語っていた。アメリカ留学の経験もありピュアで真面目な男だったが、ちょっとおっちょこちょいが気になった。彼は外務大臣にはならなかったが、本当に政治家になり現在でも活躍している。
  
 彼の経歴書には、雑誌の特派員で海外取材経験ありと書かれているが、このときのことなのかな? と。車の運転ができ、英語での通訳をし、僕たちは大変助かったことを記しておこう。そしてさらに、政治家の卵はみんなの靴下や下着を洗い、サウナに干した。もちろん有料で数クローネずつ集めていた。

 翌朝、ABU社の敷地内のポンドにボートを出しフライフィッシングを楽しんだ。もう川は禁漁になっている寒い時期なので魚の反応はまったくなかった。でも、開高 健が楽しんだ同じポンドで、僕たちもトライできたのはすごい体験となった。

 帰り際、副社長に挨拶に伺うと、

「ゲストハウスの使い心地はいかがでしたか、楽しんでいただけましたか?」
「ありがとうございました、サウナが大きくていいですね」

 と言うと

「ええ、洗濯物を干すにも便利ですしね」

 と、冗談まじりに皮肉を言われてしまった。

 3回目はやはり雑誌の取材だった。ガチガチのアウトドア誌ではなく、アウトドアライフスタイル誌とでもいうのだろうか、その雑誌でクロスカントリースキーを取り上げようと出かけた。

 ストックホルムのショップや、旧市街のガムラスタン(*12)、ノルウェーに移動し、ジャンプ競技で有名なホルメンコーレン(*13)、その付近のXCスキーの情報などを取材した。
(*12)ガムラスタン=スウェーデンの首都、ストックホルムにある旧市街の名称。スターズホルメン島につくられた街並みには、いまでも中世の雰囲気が漂う古い小径などが残されている。その発祥は1200年代とも。(*13)ホルメンコーレン=“Holmenkollbakken”は、ノルウェーの首都、オスロの郊外にある一大スキーエリア。ノルウェーの代表的なスキー競技場でもあり、ラージヒルのジャンプ台はそのシンボルともなっている。 

 ノルウェーの首都、オスロからホルメンコーレンへは地下鉄で2、30分。だからスキーを持ってスキー靴を履き、スキーウエアで首都の繁華街から地下鉄に乗る。今はもう違っているだろうが、1980年当時の車両は、車体の外側に縦につけるスキーキャリアがついていた。そこに革ベルトでスキーを固定し電車に乗る。車掌はつけ終わるまで待ってくれていた。のんびりとした時代だった。
(左)ちょうどこのときはジャンプ競技が開催されていた。ジャンプというものを初めて実際に見てそのダイナミックさにびっくりした。このジャンプ台の下にはスキー博物館があり、古いスキーなどが展示されている。その後、ジャンプのスタート地点まで登ってみたが、ジャンプが犯罪の刑罰だという話も、あながち嘘とは言い切れないと思った。(右)地下鉄ホルメンコーレン線は都市部を抜け、すぐに地上を走ることになる。この当時の車両は車体の外側にスキーキャリアが付き、革ベルトで止める。
 この地下鉄沿線にはいたるところにスキー場がある。おっと、スキー場と言っても山の上から下へ滑るだけのスキー場ことではない。北欧ではスキーとはXCスキーのことを指すことが多く、スキーショップへ行っても、アルペン用の売り場はごく一部、XC用の細板がたくさん並んでいる店の方が多い。

 地下鉄駅前にはすぐにスキーコースがありそこからツアーを始められる。コースはきちんとレーンが切ってあり、日本のようにぐちゃぐちゃになっていることはほとんどない。ツボ足で歩くにもこのレーンを壊さないようにしないとスキーヤーから怒られる。 

 コース内には色付きの案内板がつけられ、同じ色の案内板の指示に従えば迷うことはなく、雪の中の散歩を楽しむことができる。

 北欧は緯度の高い地域にある国。したがって冬は夜が長い。12月下旬の冬至の日がいちばん昼が短いが、緯度の高い北欧では24時間夜という地域もある。そこまではいかなくても、昼の明るい時間は少ない。そこでスキー場はほとんどに照明設備がついている。XCスキーコースでもしかりである。地図には「イルミネイテッド」というサインがしてあり、その数、長さに驚かされる。その地図に記された赤い線は、まるで目の毛細血管のようにも見えた。

 4回目の北欧は12月に行くことになった。なぜ12月かと言うと、本場北欧のクリスマスはどんなものなのか、そのときその場所に行って見てこよう思った。同行したのは作家の塩野米松(*14)氏。彼とは今まで雑誌やPR誌、イベントなどで一緒に仕事をしてきた。
(*14)塩野米松=作家。1947年、秋田の生まれ。『昔の地図』『ペーパーノーチラス』などで芥川賞の候補に。『失われた手仕事の思想』『木の教え』(草思社)や『最後の職人伝(手業に学べ)』(平凡社)など、伝統文化の記録に取り組んだ著作も多い。

 今回はクリスマスの本を作ろうということになり、ならば12月、クリスマスのときに現地へ行こうと決めた。1988年12月18日に日本を出た。

 スウェーデン、ストックホルムの街はすでに雪に覆われていた。北の国は夜が長い。夕方、ホテルから食事に出かけたが、すでに街は真っ暗。

 この時期この街の日の出は9時頃、日没は3時だ。だからこの街の人は、暗いうちに出勤し暗くなって帰宅、僕だったら暗い気持ちになってしまいそうだが、そのぶん、この街の人は光の使い方がうまい。ショップのウィンドウはもちろんだが、家庭のウィンドウ、会社や事務所のウィンドウでさえ、みなろうそくが飾られ、明かりがついている。これはほとんどが電気のろうそくなのだが、家の中を照らすためではなく、表から見えるように置かれている。点滅する電飾ではなく白というか炎の色一色である。
北欧の家のほとんどは外壁がこのベンガラに似た色で統一されている。屋根の色にも規制があるようだ。だから街が落ち着いて見える。こんな森の中の家でも本物のもみの木をライティングし楽しんでいる。また、玄関には氷で作ったランプシェードを飾り、サンタクロースが迷わないようにしている。
 これが暗い街を小さな光で明るくし、ホッとさせてくれる。外国へ行くといつも思うのだが、街の中に店の看板がない。おまけに街路灯がオレンジ一色。とくに旧市街ガムラスタンは建物の煉瓦とオレンジの灯りでクリスマスムードは満点だった。

 今回、この時期にスウェーデン取材の合言葉は“サンタクロースを探しに行こう”だった。だからうちでも今年はクリスマスにサンタクロースを探しに行ってくると話していた。そのせいか、当時小学3年生の僕の娘はサンタクロースの存在に疑いを持たず、毎年サンタクロースに手紙を書いていた。薄々おかしいと感じながらも、6年生くらいまでは信じていたようだった。 
  
 また僕が出かけている最中、山形のスキー仲間Yさんから電話があったという。

「ユーさんいますか?」

 妻はいつもうちで話している通り、

「主人は今、スウェーデンへサンタクロースを探しに行ってます」

 と、答えた。するとYさんは詳しいことを聞かず電話を切った。そして地元山形の仲間に、ユーさんの奥さん、ちょっと頭がおかしくなったと伝えたという。

 翌日、郊外の山の中へ雪景色の写真を撮りに行った。冬至に向かってますます昼間の時間は少なくなった。空がやや明るくなり茜色になる。やがて太陽が顔を出し、半分も出たところでまた沈んでしまう。そこからは夕焼けだ。その間1時間ほど。この明るいうちに写真を撮らなくてはならない。大忙しで雪の原を駆け回った。

 積雪は膝くらいまでだから4、50センチというところか。ところが日本の雪とはちがいさらさらの粉雪が積もったもの。雪が降るというより空中の水分が凍って落ちてきたと言ったほうがいい、きれいな片栗粉のような雪だった。

 スウェーデンからフィンランドへ移動した。ここにはサンタクロース村があるという。今は世界各国にサンタ村ができ、北海道にもサンタランドがあるというが、あまりありがたみがないような気がする。

 ヘルシンキから北へ700キロほど、ロヴァニエミ(*15)という町がある。北極圏とは北緯66度33分以北であるが、このロヴァニエミはまさに66度33分、北極圏の入り口にある。
(*15)ロヴァニエミ=“Rovaniemi”はフィンランドの北部にある都市。北極圏のすぐ近くに位置し、ラップランドの中心都市のひとつ。ケミ川のほとりに栄えた街で、郊外には「サンタクロース村」がある。

 この町にサンタクロース村がある。広大な敷地にまるでお伽話に出てくるような家が点在し、おまけにこのシーズン、白い綿帽子を被り、大の大人でさえドキドキとしてしまうほど。

 小屋の中では小人たちがプレゼントの包装をしたり、長い白髭のサンタクロースが子どもたちを迎えてくれる。地球儀と各国の地図、みんなの家のドアを開ける鍵の束、あれれ? 煙突から入ってくるんじゃなかったかな。トナカイとソリもいつでも出かけられるようにスタンバイしていた。 

 僕たちはクリスマスの前日から、このロヴァニエミに入った。もうクリスマス休暇に入った街は閑散としていた。予約していたレンタカーの事務所でさえ開いていないほどだ。レストランもクローズ。開いていたのはガソリンスタンドとホテルくらい。仕方なくそこで売っていた冷たいサンドイッチを頬張った。寒い雪の中で冷たいサンドイッチ、悲しくなるような味だった。

 僕たちのホテルにはほとんど客がいなかった。だいいちホテルのスタッフもお掃除兼、キッチン兼、フロント係のおばさんがひとりいるだけ。

「あなたたち、よほど悲しい人たちなのね、なんでよりによってこのクリスマスに泊まりに来るのかしら」

 おばさんもこの時期は休みたいのだろう、23日から25日まで食事はまったく同じもの。あたたかいものはコーヒーくらい。大きなチーズがドデンと置かれ、それを薄くスライスし、薄く切ったソーセージと一緒にクラッカーのようなものに乗せて食べる。これが朝晩一緒である。

 北極圏、冬のサンタクロース村、トホホな旅なのである。

 そもそもクリスマスとは、キリストの誕生日かもしれないが、サンタクロースとはまったく関係がない。とくにここフィンランドでは日本のお盆のようなもの。みな、花とろうそくを持って墓参りに行く、そして教会のミサに参列し帰っていく。

 教会の墓守は大変だ。雪に埋もれた墓を掘り出さなくてはならないからだ。僕たちも教会へ行ってみた。ひとり大きなブラシを持ったおじさんが墓の雪を払っていた。おじさんはシャツ一枚、体から湯気が出るほど汗をかいていた。僕を見つけると

「おい若いの、ちょっとやってみるかい?」

 と言ったんだろうと思う。僕にそのブラシを手渡した。おじさんは少し休みたかったのかもしれない。おじさんがやったのと同じように墓の雪を掃除した。いくつかやって気がついたが、墓に書かれた命日がほとんど同じ時期なのである。第二次大戦でこの街はドイツ軍により90%の家が破壊されたという。そのときの若者たちが眠っていたのである。

 冬に旅した北欧の旅を夏にもう一度行ってみようと、初めから考えていた。今度はノルウェーのオスロから車での旅が始まった。しかし、最初からこの旅はケチがついた。今回も相棒は塩野米松氏だが、オスロの空港で荷物が出てこないのである。今回はキャンプをしながら北上し、ぐるっと回って冬に行ったロヴァニエミまで行くことにしていた。

 キャンプ道具や着替えが入った大きなザックが何処かへ消えてしまったらしい。
 
 カウンターで話しを聞いたがどこに行ってしまったかわからないと言う。荷物が出てくるまでオスロにいるのは時間もお金ももったいない。解決策として、われわれは予定通り車で北へ向かう。そして北にあるローカルの飛行場へ行くのでそこで受け取るということにした。

 ホテルに泊まり次の飛行場に行き、カウンターで事情を説明し、荷物が届いているかを確認した。否である。荷物は届いていない。予定もわからないと言う。腹が立ってきた。一体いつになったら僕たちの荷物は到着するのかと大きな声を出した。カウンターで怒り狂った日本人を見て周りの人はけげんそうな顔をしていた。

「明日までに次の飛行場に届けろ!」

 と怒鳴りまた旅を続けることになった。

 こういう交渉ごとは、僕がするということになっていた。塩野さんは僕の言っていることを聞きながら、辞書でこれだこれだとばかりに字を指し示す役だ。だから僕は言葉に詰まると振り返り塩野さんの応援を頼む。

 いったいに塩野さんはあまり英語を喋りたがらない。文字としての英語は理解する人だと思っているが、宿の交渉、レンタカーの受け渡し、パブやレストランでの注文、みな僕の役目だ。
 
 ついでに車の運転もほとんど僕がする。塩野さんは助手席に乗ってナビである。細かなロードマップがなくても国全体が1枚に載っているような大雑把な地図でもだいたい見当がつくようだ。

 三つ目の飛行場へ出掛けた。もう頭の中では怒鳴るフレーズを考えていた。しかし、ここでは怒鳴る必要がなかった。懐かしい僕のザック、と塩野さんのザックがカウンターの奥に並べられていた。

 さあ、本当の旅が始まった。ノルウェーの西側はフィヨルドで深い湾が連続している。ここが海かと思うほど静かで、滝が高いところから直接海に落ち込んでいる。雪解けの水だから恐ろしく冷たい。

「塩野さん、この水でソーメンを茹でて食べようか?」

 キャンプの旅はこういうことができるからいい。見晴らしのいい滝の脇で湯を沸かしソーメンを作った。冷水でしまった麺はなんとも喉越し爽やか、行方不明事件がなければもっと早くこれが味わえたのに。こんなこともあるかと買っておいたスプリングオニオンをイヤっというほど入れて麺をすすった。

 その日1日はフィヨルドを見ながらのドライブとなった。夕方、ひと休みしようと車を止め、表へ出た。しばらく海を眺めていたらどちらからともなく、

「あそこに見える滝、あれって昼にソーメン食べた滝じゃない?」
「まさか、これだけ走ってあそこの対岸までしか来てないの?」

 それからはフィヨルドを走るのはやめにした。内陸を走ってフィンランドのロヴァニエミを目指した。
12月22日、冬至。この日この地点ではこれが南中。だから太陽の左半分が朝焼け、右半分が夕焼け。世界各国で冬至を祝う祭りがあるが、とくに北半球では、この日から日が長くなり春に向かう。太陽の光の暖かさを待ち焦がれる気持ちはよくわかる。
 キャンプをしながらの北極圏の旅は風景はすばらしく、人もいず快適な旅だったが、すぐに飽きてしまう。キャンプ場に着き、テントを張り、途中で買った鮭の切り身などで一杯やり、まだ日の射している、といっても11時頃に寝る。僕たちは日本のメーカーのテントを持ってきていた。居住性がよく値段もまずまず、愛用のテントだ。

 しかし、このテントは明るいところで寝ることを考えてはいなかった。現地のテントはフライシートの内側に遮光のコーティングがされ、暗くして寝られるようになっていた。
  
 この国は緯度が高い。ということは冬は昼間がなく、夏は夜がない。地球の軸が傾いていることでこうなるのだろうが、1年中白夜だと思っている人がいたことにはびっくりさせられた。でもわれわれはいい国に生まれたものだと、このときつくづく思った。
   
ちなみに僕愛用のテントメーカーは、北欧には進出しなかったようである。

 キャンプをしながらフィンランドに入った。旅の先が見えてきた。多少ゆとりができたので、キャンプ場の近くの川でフライを振ってみた。流れは早すぎず深さは十分にあった。何投目かの毛ばりにポチョンという吸い込むような感じで毛針が消えた、ん~、これはマス類の出方ではない、なんだろう。さらにキャスティングをして次のポチョンを待った。すぐにそれはきた。ロッドを煽るとなかなかの手応え。しばらくすると水面にカジキのようなセールが見えた。グレイリング(*16)だ。カワヒメマスとも呼ばれるが見た目は口が小さくウグイのようでもある。しかし、マスファミリーの特徴である油びれが付いているので、分類から言えばマスの仲間なのだろうか。日本には生息していないので初めてこの魚を見た。
(*16)グレイリング=“Grayling”はカワヒメマスの英語名。サケ科の淡水魚で、おもにヨーロッパに生息。

 夏のロヴァニエミはそれほど観光客も少なく静かな街のままだった。墓掃除のおじおさんがいた教会へ行ってみた。それぞれの墓には赤い花が備えられていた。
冬のあの日、雪に覆われていた墓は今は緑の中で花が備えられ整然と並んでいた。整然と並んでるが故に戦争の恐ろしさを感じる。街の建物がみな新しいのも戦争のためだ。
 もうこの5回の旅をしてから随分と時間が経ってしまった。僕は、ついこの間のことだと思っていたのだが。最後に行った夏のロヴァニエミでさえ1989年6月だ。32年も経ってしまった。初めて行った北欧は1979年のこと、42年も前だ。あの頃は携帯電話もない、カーナヴィゲーションもない、パソコンもない。今回、あのときのことを思い出しながらよくこんな旅をしたもんだと懐かしく書きすすめた。

以上

中川祐二

中川祐二 物書き・フォトグラファー

“ユーさん”または“O’ Kashira”の 愛称で知られるアウトドアズマン。長らくアウトドアに慣れ親しみ、古きよき時代を知る。物書きであり、フォトグラファーであり、フィッシャーマンであり、英国通であり、日本のアウトドア黎明期を牽引してきた、元祖アウトドア好き。『英国式自然の楽しみ方』、『英国式暮らしの楽しみ方』、『英国 釣りの楽 しみ』(以上求龍堂)ほか著作多数。 茨城県大洗町実施文部省「父親の家庭教育参加支援事業」講師。 NPO法人「大洗海の大学」初代代表理事。 大洗サーフ・ライフセービングクラブ 2019年から料理番ほか。似顔絵は僕の伯父、田村達馬が描いたもの。

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