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【ユーさんの72年_4】中川祐二、72年目のアウトドアノート~戸隠でアルペンスキーにはまり、アルペンスキーをやめる。
2020.06.30 Tue
中川祐二 物書き・フォトグラファー
この項を書いている時点では、やっとコロナ禍の自粛が解除されたものの、遠出はできず、東京アラートの赤いライティングは出たままだった。今回はスキーの話。
なんでこの暑い季節にスキーなのと思っている人も多いかと。そう僕は冬、スキーへ行ったらヨットの話を、夏、海へ行ったらスキーの話をすることにしている。なぜなら、「じゃあ、ユーさんやって見せてよ」って言われなくてすむから。
自分で道具を買い、自分でお金を払ってスキーに行ったのはサラリーマンになってからのことだった。そして自分のサラリーで初めて行ったのは長野県の戸隠スキー場だった。
高校時代の友人、細田 充(*1)くんが大学生のころから「欧州山荘」という山道具店でアルバイトをしていた。僕もその店にちょこちょこ遊びに行くようになり、そこでスキーをそろえた。
(*1)細田 充=『山と溪谷』や『ホットドッグプレス』、『カヌーイングマガジン』で活躍したカメラマン・ライター。故人。
この「欧州山荘」は登山家・大倉大八(*2)さんの店。アイガー北壁を二度にわたり挑戦するも敗退、三度目に成功した有名なクライマーだ。その大倉さんに誘われて行ったのが戸隠スキー場だった。当時の戸隠スキー場はリフトが三基、コースも3、4本の小さなスキー場だった。
(*2)大倉大八=日本を代表する登山家のひとり。新田次郎の『栄光の岩壁』に登場する主人公のザイルパートナーは大倉をモデルとしている。四谷にあった登山用具専門店「欧州山荘」のオーナー。故人。戸隠小舎は佐々木徳雄さんによって、1958年に戸隠の越水ヶ原に建てられた。写真はいまから50年ほど前のもので、これが初期の佇まい(写真は『戸隠小舎創立20周年記念誌』より)。
標高1,500mの高原にあるこのスキー場は気温が低く、とくに1、2月はまるで片栗粉のような粉雪が楽しめる。そのスキー場から林の中を10分ほど滑ったところに小さな小屋があった。戸隠小舎だ。初めて見たとき、そこは雪に埋もれ一階建てだと思った。しかし中は二階建て。二階はすべて二段ベッドの部屋で、天井の低い典型的な山小屋のつくりだった。
一階にはロビー、食堂があり大きなストーブが赤々と燃えていた。そのストーブを囲むようにテーブルがつくられていた。造りは山小屋なのだが、夕食は洋風な料理が出た。ときには鯉の丸揚げが、また、注文すればチーズフォンデュウもあった。食事の前にはワインが、デザートにはアイスクリームが付いたのにはビックリした。
この小屋の主人、佐々木徳雄(*3)さんは登山家であり、スキー学校の校長であり、たびたび登山やスキー技術研鑽のため渡欧していた。のちにカモシカ同人(*4)のヒマラヤ遠征でダウラギリⅣ峰へ参加した。僕たちは佐々木さんを「大将」と呼んでいた。
(*3)佐々木徳雄=登山家・スキー学校校長。1958年に戸隠で初めての営業小屋を建て、シーハイル戸隠スキースクールを創設。故人。(*4)カモシカ同人=「カモシカスポーツ」の創業者ダンプさんこと高橋和之、医師・登山家の今井通子など、カモシカスポーツの繋がりでつくった山岳クラブ。ダウラギリ峰の縦走など数々の活動で名を馳せる。
翌日から僕たちはそのスキー学校「シーハイル戸隠スキースクール」に入った。教師は地元の人ばかりだった。同年代だった彼らとすぐに意気投合した。このスクール、数少ないフランススキーを教える学校なのだが、生徒の能力の問題もあり、そのちがいをすぐには判断できなかった。それ以来この学校ばかりに通ったので、知らず知らずのうちに僕はフランススキーメソッドで滑っていたのだろう。
この学校は、もともとSAJ(*5)の所属だと聞いていた。その当時、東京のテレビ局がこの学校を取材し、30分のドキュメンタリー番組をつくり放映した。あとになって僕も見た記憶があるのだが、若い教師たちの楽しそうな生活ぶりが紹介されていた。山の中で雪洞を掘り、泊まるシーンもあったと記憶している。
(*5)SAJ=“Ski Association of Japan”の略称。公益財団法人全日本スキー連盟。
どうもこれが原因らしいのだが、SAJの許可を取らずに取材を受けたことでSAJを退会させられた。それ以来SIA(*6)が設立されるまで、独立した組織として活動していた、と理解している。だからその名称も「シーハイル戸隠スキースクール」としていたのだと思う(現在は「戸隠フランススキー学校」)。
(*6)SIA=“Professional Ski Instructors Association of Japan”の略称。公益社団法人日本プロスキー教師協会。
「欧州山荘」に出入りしていた仲間と、足繁くこの学校に入るため戸隠へ通った。当時スキーは人気のスポーツで、おまけにリフトは少なく、かなり長い時間リフトの順番を待たなくてはならなかった。そんなとき事件は起こった。
正月のことだった。僕たちは10人くらいでリフト待ちの列をつくっていた。あと少しで自分たちの番というところまで進んでいた。そこへ赤い野球帽にCのマークを付けた、たぶん広島カープの帽子だと思う。スキー場、それもいちばん寒い正月のシーズンにこんな帽子で来る奴がいるか、という輩が2、3人僕のすぐ前に入ってきた。僕はすぐに「みんな並んでいるから後ろについて下さい!」と注意した。
するとその広島カープは、
「俺たちさっきから並んでいたんだ」
「残念だね、あんたたちがいるところは僕たち仲間の真ん中、バカ言うんじゃないよ!」
「なにお!」
「よし、みんなこいつらを囲め。パトロールへ連れて行こう」
仲間10人でこいつらを囲みそのまま滑ってパトロール事務所へ行った。ちょうど正月で県警の巡査が来ていた。事情を説明し彼らはこっぴどく叱られていた。そのときの巡査の顔がちょっと赤かったような気がした。
10人くらいが急にいなくなったことで、後ろで待っていた奴はきっと喜んだにちがいない。
このとき、"俺はもうスキーやめた!"と言って宿に帰った。そしてこっそりと用意していたXC(クロスカントリー)スキー(*7)を出し、林の中へ遊びに行った。
(*7)XCスキー=“cross-country skiing”のこと。略称として“XC”がよく用いられる。おもにはスキー競技の一種として知られるが、北欧などではより生活にも密着し、積雪期の移動手段としても用いられる。野山を駆け巡るバックカントリーでの「遊び」にも最適。
それ以来、アルペンスキーはほとんど履くことはなかった。大枚をはたいて買ったロシニョールROC550、ルックネバダのバインディング、ノルディカの靴。コンパーデルのストック(*8)は、SKILOMのウッドのスキー、SNABBERの75mm3ピンバインディング、FINNの革靴、トンキンのストック(*9)に取って代わられた。
(*8)ロシニョール、ルックネバダ、ノルディカ、コンパーデル=どれもスキーの用具ブランド名。当時、ユーさんが持っていたアルペンスキー関連のもの。(*9)SKILOM、SNABBER、FINN、トンキン=どれもスキー関連の用具ブランド名。こちらは、当時のXCスキーに関するもの。初めて買ったXCスキー。SKILOMのXCスキーは欧州山荘で買った。しかしここではその扱いに関しては何にも知らなかった。ただ教えてくれたのは細かいことは神田の「タマキスポーツ」行ってくれだけだった。そこでこの板を持ってタマキスポーツへ行き玉木正之氏に相談し、靴はフィンランド製のFINN、それに合う75mm、3ピンのバインディングを付けてもらった。帽子と手袋はスウェーデンへ遠征したときにゲット。40年くらい前に買ったものだがまだみんな使える。
戸隠高原は、急峻なまるでエギーユ・デュ・ミディ(*10)のような戸隠連峰と、スキー場のある毛無山、瑪瑙山に囲まれた地帯にある。ここはアルペンスキーでは人気のスキー場だったが、XCスキーは、当時まったく人気がなかった。というより誰もしている人がいなかった。
(*10)エギーユ・デュ・ミディ=モンブラン山塊にある岩峰で、ミディ針峰群として知られている。シャモニーからロープウェイで山頂まで行くことができ、世界的に有名な観光地にもなっている。左はエギューユ・デュ・ミディ(ミディ針峰群)。シャモニーからロープウェイを2本乗り継ぎ頂上へ。2本目はノースパンで岸壁が目の前に迫る大迫力。標高3,777mの頂上駅まで一気に上るため高山病の危険がある。僕はちょっと頭がくらっと来たので、感じなくなるようにワインを飲みごまかした。なにせ富士山より高いところへ2、30分で行けちゃうんだから頭がクラクラして当たり前だ。右は戸隠連峰と僕。規模は違うけど似てるでしょ。麓にある牧場はXCスキーに最適なエリア。本当はあまり教えたくない僕のサンクチュアリー。
僕はスキー場に背を向けて鏡池、小鳥ヶ池、植物園、奥社参道から戸隠牧場へ続くハイキングコースをXCスキーで歩き回った。広々とした雪原には冬山装備で戸隠山へ入る人たちの足跡以外、踏み跡はまったくなかった。
ストーブを持って、ワインを持って、フランスパンを持って、ランチを楽しむツアーに出かけた。新しいコースを幾つもつくった。というより、毎回歩いたコースが新しいルートになった。
雪を掘って椅子とテーブルをつくり、みんなで囲んでランチを楽しんだ。スキーとストックを使ってデッキチェアーにして、ひなたぼっこをした。ついには雪のブロックでイグルー(*11)をつくって泊まってみた。意外に寒くなかった。
(*11)イグルー=イヌイットの言葉で「家」を表す。雪のブロックを積み上げてつくる簡易シェルターのようなもの。
地元の人に、XCスキーのコースをつくったらどうかと提案したことがあった。答えはNOだった。その理由は、XCスキーヤーはまずリフトに乗らない、お昼を食堂で食べない、おまけにキャンプをするようになると宿舎を利用しない。つまり地域にお金を落とさないスキーだという。
確かにそうなのだが、スキーを高いところから低いところへ移動する遊びとしか考えていないことに寂しくなった。スキー場だけで十分利益が出ていた時代、何もそんなことをしなくてもいいと思っていたのだろう。
その後、僕は何度か冬の北欧に出かけるようになり、つくづく歴史が違うことを思い知らされた。長短コース別にサインプレートが付いたXCスキーコース、夜でも楽しめる照明設備付きのコース、車体の外側に革ベルトのスキーキャリアが付いた地下鉄、ほとんどXCスキーしか置いていないスキーショップ。戸隠は針葉樹の森、雑木林、夏は牛が放牧される牧場、全面凍結する湖、雪のため閉鎖された道路。これらを組み合わせたいくつものコースがある。春は雪が消えた木の根元でランチを楽しみ、昼寝を楽しみ、日光浴を楽しんだ。
北欧の赤ちゃんはスキーを履いて生まれてくるとさえ言われ、スキーで亡くなったおじいちゃんには、いちばん好きなことをして旅立った、よかったね、うらやましいという国と比べること自体が間違っていた。
その後、僕はガンとしてアルペンスキーは履かず、XCスキーだけで戸隠へ通った。じつは仕事で何度かほかのスキー場でアルペンスキーを履いたが、これは仕事だと割り切った。
そんな仕事のなかでスウェーデンから来ているスキーのインストラクターと知り合った。場所は当時の蔵王坊平スキー場。彼女の名前はエリザベット・ランベーリ、通称リサ。僕は本来の仕事を早めに切りあげ、勝手に企画を立て撮影を始めた。帰ったら写真と原稿を出してこっちにしましょうというつもりだった。そんな勝手企画がうまくいったかどうか忘れたが、彼女とは仲良くなった。
リサは何カ所かのスキー場でレッスンをするという。僕はその最後のスキー場に彼女を迎えに行き、東京へ連れてきた。そして戸隠へ向かった。春の戸隠はXCには最適のシーズンだ。雑木林の中、凍った湖の上、神社参道の杉並木、真っ平らな牧場、どこも誰もいないコースを歩き回った。
「こんないい平らな地域が日本にあるなんて」と、リサ。
彼女が日本で歩いてきたのはみなアルペンスキーのスキー場ばかり。当然山岳地帯でXCスキーに向いたところではなかった。
翌日、滑りを教わるためスキー場へ行った。彼女の履いていたスキーはツーリング用のワクシングタイプ(*12)。もちろん滑走面に金属エッジは付いていない。僕はここで初めて本格テレマークターンを目の前で見た。優雅に蝶が舞うように彼女は滑った。カメラを持った人が「写真を撮らせてくれ」と飛んできたが、注目した人はその人ひとりだけ。地元長野で情報誌をつくっている人だという。ほかの人は自分たちの滑りとの差もわからなかったのだろう、誰も振り向かなかった。
(*12)ワクシングタイプ=waxing type”のこと。雪質によってワックス掛けの調整をして、板の滑り具合を自分でコントロールできる。レーシングスキーはワックスでその勝敗が決まると言われるほど大切なテクニック。ワックスを塗ることは楽しいのだが、日本の遊びの世界ではちょっとむずかしく無理だったようだ。したがって日本のXCスキーは鱗状か波状の刻みを入れたステップタイプが主流。
その後、雑誌の仕事をするようになり、リサのスウェーデンの自宅を訪ねた。リサの地元スキークラブのコースを一緒に滑り、クラブで食事の歓迎を受けた。彼女の妹カーリンはスウェーデンナショナルチームの選手で、彼女ともレーンを切ったレースコースを走らせてもらった。
秋11月、僕は雪が来る前の山が見たくて戸隠小舎で泊まった。帰ろうと思ったら横殴りの雪が降ってきた。初雪だった。ゆうべ、この小屋の奥さんから、スキー学校のいちばん若手の高橋君が小屋を建てる話を聞いた。このシーズンから営業をするという。どんな場所なのか帰りに見て行こうと小舎を出た。
越後道を歩きバス道に出た。ここから山へ向かったほうだという。しばらく行くと。遠くにたき火の煙が見えた。近づくとふたりの男が働いていた。高橋君と先輩スキー教師で建設業のHさんだった。ふたりで大きな岩を割っていた。
初雪が降り始めているのに、こんな状態で今シーズンから営業できるのかと疑問に思った。
「おいユウスケ!、おめーな、こういうところに来るときには1本ぶら下げてくるもんだぁ」
と言いながら岩の後ろから白いかたまりを持ち上げて見せた。罠にかかったウサギだった。
「これで一杯やるだ」
僕はこの村ではユウスケと呼ばれていた。
そうか、確かに。手ぶらで来たことに後悔した。
僕は高橋君に、大学生のとき湯沢のスキー場の急ごしらえの民宿で、調理のアルバイトをしたことがある。この小屋ができたら俺を料理番に使わないかと売り込んだ。
ちょうど、今勤めていた会社がごたごたして、キリを付けたいと心の隅で思っていたので、とっさに口から出た。そりゃあ丁度いい。年内にはできるから来いと。ひとシーズン、この小屋で居候することが決まった。
下の集落まで歩き、酒屋へ寄り、酒2本を高橋君の建築現場に届けてもらうように頼んで山を後にした。
その年の暮れも押し迫った12月29日、雪の中、僕は裸電球だけが赤々とともる山小屋へ到着した。小屋はできてはいたが中はまだ鉋屑だらけ。なのにもうお客さんがその日から泊まるという。僕のはじめの仕事は小屋の中を掃除することだった。調理場の什器の梱包をほどくと段ボールの山ができた。
「その段ボール、窓からベチャって!」
と言ったのは高橋君の婚約者のミッちゃんだった。ベチャるというのは捨てると言う長野弁らしい。いわれる通り大量の段ボールを窓から捨てた。捨てるそばから雪に覆われゴミは見えなくなった。現在のロッヂアルム。当時はこれよりも小さく外壁も木のままだった。塗ったばかりの繊維壁がまだ乾かずずり落ちてきたり、てんやわんやのオープンだった。僕たち居候の泊まる部屋は畳もなく段ボールを何枚か重ね、その上に布団を敷いた。もちろんそんな部屋に暖房はなく、朝起きると枕の周りはうっすら雪で白くなっていた。ひげが凍っていたこともあった。
そのシーズンはその小屋、「ロッヂアルム」で働いた。夕ご飯を作り、雪かきをし、買い物に行き、生活をしたことがなかった雪国の生活を楽しんだ。時々はスキーもしたが、少しの時間をつくってスキー場よりも雪の風景や山を見に出かけた。集落にあった喫茶店へ行き、持ち込んだレコードをかけてもらいコーヒーと雪景色を楽しんだこともたびたびあった。
朝早く道路の除雪車が来た。あいつらは血も涙もない奴だと思った。それは、圧接した重い雪を小屋の前に押し付けていったからだ。その雪をスコップで車が入れるようにするのに数時間かかった。寒いのに大汗をかいた。
バスも登ってこられないような大雪が降ると、小屋の雪かきをしたあと下の集落にある高橋君の実家の雪かきに出かけた。一日中雪かきをして、お昼にいただいた戸隠そばのうまかったこと、忘れられない。
この年、シーハイル戸隠スキー学校は、フランスENSA(*13)のスキー教師、ピエール・ブラン氏を招いて特別講習会を開いた。僕は小屋の仕事を早めに切り上げこのレッスンに参加した。すべてフランス語での講習で言葉はサッパリわからない。通訳としてスキー学校の佐々木校長が付いているのだが、意訳が多すぎてあまりありがたみがなかった。
(*13)ENSA=“Ecole Nationale de Ski et D’Alpinisme”の略。フランス国立スキー登山学校のこと。登山およびスキーガイドを養成する世界的な教育機関。のちに戸隠小舎の"大将"佐々木徳雄氏の長女亜津美氏はENSAの資格を取りガイドとして活躍している。
数年後、僕が雑誌の取材でシャモニーへ行ったとき、ENSAのピエール・ブラン氏を表敬訪問した。突然の訪問だったが、僕の顔を見ると、「Oh! Takahashi cook」と。僕の名前は覚えていなかったが、僕のことは覚えてくれていたようだった。
スキー場のリフト運行が終わるころ、小屋のまわりは建設時のゴミがたくさん出てきた。雪がかたまって舗装道路のようになった道が解け始め、小さな流れができていた。山の木々は芽が動き始め、山全体が一瞬赤くなっていた。そんな冬の終わりを感じながら山を下った。戸隠スキー場はその後開発が進み、リフトが増え長いコースも楽しめるようになった。むかし、スキー学校の先生たちと滑ったコース以外の林の中でこっそりワインを飲んだり、とんでもない巨木の間を滑ったり、今では考えられないレッスンだった。現在はコース以外は滑走禁止、ちょっと寂しいが仕方がない。XCスキーからテレマークスキーに履き替えたユーさんはエッジは付いているものの、細板、革靴で今でも山やゲレンデを楽しんでいる。テレマークスキーに関しては、また別項でお話をしましょう。