• 山と雪

夏のシャモニと山岳ガイド。遥かに遠き白き峰〜モンブラン未登頂の記

2020.02.28 Fri

宮川 哲 編集者

人はなぜ山に登るのか。かのマロリーは「そこに山があるから」と答えたようだが、そんなものに意味なんてないと言う人もいるだろう。さて、なぜ人は山に登るのだろう……。
 なんであれ、夢が持てることは幸せである。
 
 夢の値は人それぞれ。大きい夢、小さい夢。夢のサイズにかかわらず、自身で完結できることもあれば他力を借りて成し遂げられることもある。

 ほんの少し、背伸びをすれば届く夢。そこに導いてくれる人に言葉を借り、教えを請い、学ぶ。それは夢を叶えるためのプロセスであり、そのスタンスは夢を持つ側の責任でもある。それが分かっていれば、おそらく夢は叶う。

 あの山に登りたいと思う。山に登りたい理由はいくらもある。

 憧れ。
 自己実現。
 見栄。
 誇り。
 精神の安定。
 達成感。
 夢の途中。
 他とは違う自分。
 ……。

 人による理由はなんであれ「モンブランに登る夢」を持った4人は、夢の手助けを生業とするガイドとともに、その頂をめざすことになる。



 ほぼ垂直に天を突く花崗岩の壁を、首が痛くなるほどに見上げていた。青い空に荒々しいスカイラインを刻みながら、いくつものピナクルが頭をもたげている。そのひとつにへばりついていた。足元は氷と石塊。いわゆるミックス状の岩場でスパッと切れ落ち、氷河の底まではかなりの距離がある。ていねいな足運びを心掛けつつ、アイゼンの爪を窪みに引っ掛ける。腕を伸ばした先のでっぱりを掴み取り、バランスを整えながら身体を引き上げていく。緩慢ではあるが、ひとつひとつの動作に意識を集中させ、確実に手を足を動かし続けていた。
天を突くピナクルが、憎らしいほどの青空に映える。ここはモンブラン山塊の岩の山稜、コスミック。雪の谷の向こう側にあるのがモンブラン・デュ・タキュルだ。
 コスミック山陵。3,700mを越えるこの高みでも、酷く暑い。遮るもののない太陽からの光は容赦なく降り注ぎ、氷雪の反射で目も開けていられないほどだ。正直、この暑さは恨めしくもある。振り向けば、コル・ドゥ・ミディから駆け上がる雪壁が視界一杯に広がっている。いちばん手前の左手、東側のピークがモンブラン・デュ・タキュルである。昨日は、あの岩峰のてっぺんに攀じ登っていた。タキュルの後ろに見えているのは、モン・モディの丸い稜線。ここからは見えないが、その先にはモンブランの山頂がある。本来ならば、ぼくらはその頂をめざしていたはずなのだけど……。

 4人、の職業はさまざまだ。鉄道、輸送、看護、編集。モンブランに登る、登ろうか、登ってみたい。思いの強弱はともかくも、この4人を結びつけたのは「ヨーロッパアルプスの最高峰に登る」という行為だった。それぞれが自分たちの山に励み、ここにたどり着いた。とはいえ、モンブランに単独で登れるほどの力量はない。勇気もない。自分の足だけで登れるのなら、ここに集まるはずもない。相手は4,810mの頂である。日本にはない広大な氷河を歩き、富士山よりも高い場所で岩場を乗越し、夏でもなお厚い雪稜を登り詰めていく。以前ここに来たことがないのなら、だれにとっても未知の領域となる。だからこそ、その一歩を踏み出してみたくもなる。

 大丈夫。登れるよ、モンブラン。

 国際山岳ガイドの近藤謙司さんは、いつも事もなげに言う。これが、南米であろうとヒマラヤであろうと、近藤さんは大丈夫というだろう。ただし、それは登りたいと願う人の日々の努力や鍛錬があっての話。トレーニングを積み重ね、ひとつずつ技術を身に付けて次の段階へその次の高みへと上っていくことで、いつしか目標の山にたどり着く。それでも足りない技術や体験、心の部分を補い、山へと導いて行くのがガイドの仕事である。

 近藤さんの主宰するガイドカンパニー・アドベンチャーガイズ(AG)では「AG流ステップアップ登山」と題し、登山者たちの夢を叶える登山ツアーを商品化している。今回参加したのもそのひとつで、ヨーロッパアルプスの名峰「モンブラン登頂ツアー」と銘打たれていた。成田を出発したのは昨年の6月末。一路、ヘルシンキへ飛び、乗り継ぎでジュネーブへと降り立った。そこから車で1時間半も揺られれば、モンブラン登山のベースとなるシャモニの街に着く。もともとのスケジュールによれば、初日は高所訓練と準備。2日目にテートルース小屋まで登り、3日目に登頂。この日はグーテ小屋に1泊し、4日目に下山となる。翌5日目は登山予備日として使い、最終日は自由行動。往復の飛行機を入れて、9日から10日間のパッケージとなっている。
4,810m。ヨーロッパアルプスの主峰は、地図の中でさえ堂々としている。条件さえそろえば山中1泊で登れるはずが、その山頂は遥かに遠く。いちばんメジャーなルートは、フランス側のドーム・デュ・グーテを経由する。
 モンブランは健脚であれば山中1泊でも登れる山ではあるが、AGの山行ではあえて山中2泊を選んでいる。これは、登頂のチャンスを少しでも多く得るためだ。天候の具合や参加者たちの力量を勘案しつつ、山行中の行動を組み合わせ、組み換えていくことで可能性が広がっていく。山行2日目にテートルース小屋から一気に山頂を踏むこともできるし、3日目にグーテ小屋から登頂を果たし、その日に下山なんてこともできる。ただ、ツアーの料金はけっして安くはない。日程や飛行機の選択次第ではあるが、ひとり60〜70くらいの覚悟は必要だ。いわゆる一般の社会生活を営んできた山好きの大人たちが、あたため続けた夢を叶えるのである。各人、時間もお金も体調も、しっかりと整えてここに臨んで来るのだ。だから、登頂機会は多ければ多いほどいい。AGは、そこまでも思いを寄せている。

 とはいえ、必ず登れるとは限らない。「山」なのだから当たり前なのである。それは覚悟の上なのだ。でも正直なところ、まさかに登れないとは考えてもいなかった。……そう。結論を言ってしまえば、モンブランには登れなかった。今回は、縁がなかったとしか思えない。

 なぜなら、布陣は完璧と言えるものだったから。モンブランでガイドをするには、相応の資格が必要となる。フランスでのガイド業は国家資格となっており、日本人であれば、国際山岳ガイドの免許がなくては活動もままならない。しかも、現地のガイドレシオとして、ガイドひとりに対して参加者は2名までというルールがある。今回は参加が4人のメンバーだったので、ガイドは2名以上。
モンブランをガイドするには国際山岳ガイド連盟のライセンスが必要だ。近藤さん(右)が着ているジャケットの胸に張り込まれているワッペン(左)がその証。IFMGA(英語)、UIAGM(フランス語)、IVBV(ドイツ語)は「国際山岳ガイド連盟」を表記した各国語の略称。本部はスイスにあり、日本国内では日本山岳ガイド協会がライセンス認定の実務を負っている。
 そして、われらがモンブランチームを導いてくれたのは、近藤謙司さんと山岸慎英さん、加藤直之さんの3名だ。知る人ぞ知る、山のスーパースターたちである。近藤さんと山岸さんは日本山岳ガイド協会認定の国際山岳ガイド。加藤さんは、国際アスピラントガイド(2020年現在は国際山岳ガイドに)である。ヨーロッパアルプスはもちろん、ヒマラヤ、北米、南米に南極と世界を股に懸けて活躍するメンバーで、モンブラン登山を考えれば、いわば絶対的な布陣なのである。それなのに登れなかった。だから、縁がなかったと思うより仕方がない。
左から山岸慎英さん、近藤謙司さん、加藤直之さん。山岸さんは白馬育ちのヨーロッパ仕込み。若くしてシャモニでクライミングを学んできた新進気鋭の国際山岳ガイド。近藤さんは、いまでもチョモランマ冬季北壁最高地点到達の記録を持つ登山家。アドベンチャーガイズの代表、そして国際山岳ガイドとして、多くの登山者を世界の最高峰へと導いている。加藤さんは、東京生まれのアラスカ仕込み。デナリをはじめさまざまな困難な山に挑み続けてきた。現在は、国際山岳ガイドの資格を持つ。パタゴニアのスノーアンバサダー、国立登山研修所の講師などさまざまな立場で活躍中。
 なぜ登れなかったのか。理由は簡単。天候不順である。

 それも、ただの天候不順ではない。ここ数年、地球環境の悪化は目に見えて酷くなっている。冬の暖冬、夏の酷暑。台風に高潮、豪雨に竜巻。水は溢れ堤防は決壊するし、極度の乾燥で山は燃える。かと思えば、一方では極寒と記録的な豪雪……世界中どこに行っても、もはや逃げ場はないといった様相である。もちろん、ヨーロッパも例外ではなかった。このときのフランスも記録的な暑さに見舞われており、地中海沿岸各地では40度近い高温の日々が続いていた。標高1,000mを超えているシャモニでも30度オーバーである。

 これだけ暑い日が続くと何が起こるのか。太陽光に照らされ続ければ、雪は溶ける氷は溶ける。たとえ麓は天気がよくとも雲は湧き上がり、山上には雷が落ち、風も吹き荒れる。4,000mともなれば当然、吹雪となる。氷河は後退してズタズタとなり、新たなクレバスが走り、落石は頻々。とくに、モンブランの一般ルートでは難所とされているグラン・クーロワールの通過には困難が付きまとう。そもそも天候不順でなくとも、気温が低く雪が締まった午前中の通過が望ましいとされている場所である。落石の危険度は計り知れない。
LUNDI APRÉS-MIDI(月曜日の午後)もLUNDI NUIT(月曜日の夜)もご覧の通りの大嵐。まるでモンブランの山上でゴジラとガメラが争いを始めたかのごとき凄まじき雷と雲。表現法に、しばし唖然となる。これ、ホテルのフロントに掲げられる毎日の天気予報で、フランス気象局の情報を元にしている。それにしても、これでは望みの欠片もありはしない。なんと無慈悲な……涙。
 シャモニから見上げるモンブランは、午後にもなると山頂付近に厚い雲を纏うことが多かった。毎朝、ホテルのフロントに掲げられるフランス気象局の山の天気予報を見ても、この先もはや希望はなさそうだ。しかも、気分のよくないことに、街はさほど天気が悪いわけではない。「なぜ登れないんだ!」という思いだけが募っていく。精神衛生上、最悪の事態と言えよう。

 そんな空気は伝染する。キリキリと胃の腑が痛んでいるのは、おそらくぼくら参加者よりもガイド陣なんじゃないか、とも思う。そう思いはするものの、近藤さんたちにとっては何も特別なことではない。日本から来た参加者たちを山頂へと誘うのが仕事なのだから、その安全確保は登頂よりも大事な最優先事項である。ガイドが山に登れないと言ったら、登れないのだ。ただやはり、そこは人。いくら精鋭揃いのガイドたちとはいえ、参加者たちの到着早々に登れないとは言えるわけもなく……。いや、まだこのときは登れないと決まっていたわけではないのだ。
入山初日はこの晴天。このあと、山上に嵐が吹き荒れるとは想像もできないくらい。右に尖っているのがダン・デュ・ジュアン=巨人の歯。その左手の少し先で稜線がスパッと切れ落ちているところが、グランド・ジョラスだ。
 現地到着から初日の行動は、山上の氷河で高所訓練。エギューュ・デュ・ミデュからエルブロネへ、氷河上をロープウェイで空中散歩。ジュアン氷河の一角で、フランスからイタリアへと国境を越える。目の前には、巨人の歯(ダン・デュ・ジュアン)とも呼ばれるエギューユ・デュ・ジュアンの岩峰が大きく立ちはだかり、その奥にはあのグランド・ジョラスが見え隠れしている。振り向けば、モンブランの丸い稜線がすぐそこにある。いままで空想の中で思い描いてきた情景だけに、ここに身を置いているだけでもしぜんと口元が緩んでくる。

 明日か明後日には、あそこに登っているんですよね。

 と、4人は上気した顔で笑い合っている。アイゼンを履き、ピッケルを手に氷河上の斜面を行ったり来たり。ハーネスをつけてロープを結び、歩きながらの呼吸法も学ぶ。空気の薄い高所では、意識してちゃんと息を吸うことが何よりも大事。この感覚を自分の身体にじっくりと覚え込ませていく。各人の持っている装備もここでチェック。実際に使っている様子を見つつ、ガイドは参加者たちの山の習熟度をはかっている。

 暗雲が立ち込めてきたのはこの日の夜だった。ベッドで眺めるTV画面には、噴水で水浴びをするフランスの人たちの姿が映し出されていた。過去にもこの国では猛暑の年があり、数多くの高齢者たちが亡くなったと伝えている。緯度の高いヨーロッパにはそもそもクーラーがない家が多い。実際、シャモニのホテルにも設置されていない。そこで、高温から身を守る手段として水浴びが奨励されているというニュースだ。天気予報では、この先もしばらくは暑さと夏の嵐が続くと言っている。ガイドチームはいま、別の場所でこの先のスケジュールをいかにすべきかを話し合っているはずだ。

 翌朝、LINEの着信音がピロリンとなった。近藤さんからグループラインに届いたメッセージだった。

 本日はメール・ド・グラスの氷河を予定しています。装備は……。

 モンブランに登るのであれば、この日はテートルース小屋へと向かうはずだ。ということは、やはり断念ということになる。けれども、という思いは消えぬままではあったが、装備を整え集合場所へと向かう。登山電車から眺めるアルプスの景色は、このわだかまりさえも奪い去るほどに圧倒的だった。複雑な思いはドリュ針峰を目にした瞬間、どこかへと吹き飛んでしまった。物の本でしか見たことのなかったドリュが、いま手の届きそうな場所にある。そして、荒々しい山裾を流れているのがメール・ド・グラスである。この氷河を上へ上へとたどった先には、あの名峰が見えるはず……あった。グランド・ジョラスだ。昨日、ジュアン氷河から遠く眺めたよりも迫力がある。それもそのはず、岩襞に見え隠れしているのは名高き北壁である。この地は約束の地。山が好きだったり、山の本が好きだったりすれば、いつかはたどり着く憧れの場所なのだ。
モンタンヴェールの駅を出ると飛び込んで来るのがこの景色。ドリュ西壁が真正面に見える。壁面が大崩落し、かつての登攀ルートは登れなくなってしまったという……写真映像でしか見たことのなかった山がいま目の前にあるというのは、やはり興奮と喜びを呼び起こす。
 メール・ド・グラスの氷河に降り立つには、地の底まで続くのかと思わせるほどの絶壁をクライムダウンしなくてはならない。この縁まで氷河があったことを示す「NIVEAU DU GLACIER 1820」と掲げられた看板から下を覗き込めば、およそ200mはありそうだ。1820は年号のことだから、2世紀のあいだにこれだけの体積分の氷河がなくなってしまったのだ。なんという現実か。なるほど、山登りの仕様も変わってこようというものだ。
メール・ド・グラスの氷河への下降ポイントへと向かう途中で見つけた看板には「NIVEAU DU GLACIER 1820」の文字。NIVEAUはLEVEL。つまり、1820年にはこの崖の縁までは氷河で覆われていたということ。シャモニで泊まっていたホテルで見つけた昔のメール・ド・グラスのポスター。いつの時代のものかはわからなかったが、ほぼ同じ場所と思われる位置から撮った写真を並べてみた。もはや一目瞭然。氷河の後退は止まることを知らないようだ。
 この日は1日、氷河を歩き回った。ところどころに大口を開けるクレバスの底には、碧く透き通った水が激しく流れ去っていく。まさに進行中の地球温暖化の凄まじさを目撃しているようなものである。氷河を渡る心地よい風も拭い去るような強烈な陽光が、この日も降り注いでいた。
氷河の底に降り立ってみると、どこもかしこも融解が進み、ズタズタの状態になっている。いちばん右の写真は、降りて来た岩壁を下から見上げたもの。その昔はここからあのスカイラインの位置まで氷河で埋まっていたのだろうが、もはや想像すらできない。融解が進む氷河には、数多くのクレバスがパクリと口を開けている。気を抜くことなく、しっかりとロープで結び慎重に歩く。正面のやや左側にあるピークがグランド・ジョラスだ。
 モンタンベールの鉄道に揺られ、シャモニの街に戻ったのは夕方前だった。夜にはまだ間があったので、下山の祝酒を飲もうということに。かの有名なENSA(フランス国立スキー登山学校)の近くを歩きつつ、アルヴェ川沿いの道に小さなバーを発見。なんと、ハッピーアワー前のパワーアワーに遭遇。ビール1杯3ユーロである。ここで、みなの思いが弾けることとなった。

 初日、2日目ともに存分にアルプスの日々を楽しんではいるのだけれど、モンブランチームの表情は釈然としない。日程的にはまだ登れるチャンスはあるはずだと、4人が4人とも心のどこかで思っていた。ビールが進むにつれ、会話はモンブランの頂へと導かれていく。それはそうだ、ぼくらはモンブランに登りに来たのである。登れないのなら、その理由ははっきりとさせておきたい。
シャモニのビールはとにかくうまい。下山後に遭遇したパワーアワーにつられて杯も進む、話も進む。果たしてモンブランには登れるのか登れないのか、今回の旅の転換点ともなったワンシーンだ。
 どんなときだって、こういった場はむずかしいものである。ガイドチームと参加者たち。双方の肚の内を曝け出すには、ある程度の勇気と切っ掛けが必要だ。もちろん、みんな大人なのだから自分たちが置かれている状況は理解はしている。とはいえ……。

 山の天気が悪いのは致し方なしとはいえ、なんとかして登れないものなのか!?
 判断が早すぎるのでは?
 せめて、登山口の近くまでは行くべきでは!?
 モンブランがダメなら、モンテローザとかグラン・パラディーソとか。
 …………。

 といった参加者側の思いと、

 この天候での登山は無謀。
 山小屋にも確認しているものの、やはり山の上の状況は思わしくない。
 下は天気がよくとも、上はまったくの大嵐。
 この悪天候はヨーロッパ全体のもので、スイスもイタリアも同じ状況。
 ガイド判断は守られるべき。
 …………。

 と、はっきりしたNGを受けていないと思っていた参加者たちと、すでに伝え済と思っていたガイドメンバーたちの言葉が、やっと同じ俎上に乗ることを得た。

 残念ながら、今回はモンブランには登れません。

 言葉の持つ響きや重みはやはり大切なもの。ガイド陣にここまで言わせてしまうわれらも大人気ないものの、シャモニまで持ってきた意気込みもそれほどに大きかったということだろう。

 実は天候不順に関連して、モンブランに登れなかった理由がもうひとつある。それは、山小屋の予約システムだった。モンブランが世界的に人気の山であるのは当たり前で、シーズン中ともなると稜線上では渋滞が起きることもしばしば。それはときに生命の危険も伴うことで、モンブラン山中の山小屋の予約は数ヶ月前には全日程が埋まってしまう。おいそれと変更ができるようなルールにはなっていないのだ。だからこそ、AGではテートルース小屋とグーテ小屋の連泊プランを立てていたのだが、今回の天候はその余裕すらも許さなかったのである。
 
 さすがに納得せざるを得ない。これがまさに現実である。となれば、この後はどう行動すべきなのか。登れないのなら、残された日数をいかにして充実させるかを考えるしかない。

 モンブランに登りに来た人たちにとって、モンブランに代わるものなどない。

 もしも参加者たちがそんなことを考えていたとすれば、現場はもっと面倒なことにもなりかねなかった。今回は事なきを得たものの、過去にはそんなこともあっただろうと想像するだけでもこの仕事の大変さが見て取れる。天候が悪くて山に登れないのはガイドの責任ではない。ガイドの仕事は顧客に山の魅力を伝え、安全に導くことだ。安全と直結しているということはつまり、「登れないと伝えること」がもっとも大切な仕事となる。

 その困難を乗り越えて、その先にある楽しさをいかにして伝えるべきか。ガイド陣の頭を悩ませていたのは、このことである。幸いにして、ぼくらがいまいるのはシャモニだ。世界有数の山岳都市である。山の楽しみが凝縮された街だといっても過言ではない。モンブランの山頂にとらわれなければ、やれることやりたいことはたくさんあった。残された時間はまだ5日もある。
登頂という呪縛を外してしまえば、山好きにとってこの地は天国。ありとあらゆる山の楽しみがあり、ヨーロッパの歴史が刻まれ、フランスの食に満ち、心豊かな人々に囲まれる。シャモニ、シャモニ、シャモニ!!AGガイドチームのシャモニ宿舎に潜入。部屋の窓からはエギューユ・ドュ・ミディの針峰群が一望に。夏の登山シーズン中は、日本からも数多くの登山客がAGのツアーを頼って、ヨーロッパの山々に登りに来る。国際山岳ガイドの近藤さんや山岸さんは、モンブランだけでなく、マッターホルンやアイガーといったヨーロッパの山々に行ったり来たり。その数ヶ月間はガイドたちが集まって、このような共同生活を送っている。シャモニのほかツェルマットやグリンデルワルトなど、登山のベースとなる街々に同様の宿舎を借り受けることもあるという。ガイドチームの仕事は多岐にわたり、空港への送迎から高所順応のためのハイキング、そして本番の登山と忙しい日々を送っている。もちろん、今回のように心労が重なることもあり……これを何度も繰り返すのだから、本当に大変な仕事である。
 アルヴェ川沿いのバーでの熱い議論を経て、チームに流れていた違和感がなくなっていた。翌7月3日はシャモニ郊外にある天然のクライミングゲレンデ、ガイアン(les Gaillands)で岩登り三昧。4日は「休日」として近藤さんたちと別れ、4人でイタリアの古都アオスタへと日帰りの旅に出掛けた。そして5日はモンブラン三山のひとつ、モンブラン・ドゥ・タキュルの山頂に立つ。エギューユ・ドゥ・ミディの山頂駅からヴァレー・ブランシュの氷河に降り立ち、標高4,248mの山頂までの登り返しで7時間半という行程だった。モンブランには登れずに、タキュルには登れた。それは、ルート上の落石リスクの差であり、行程の短さにあった。ガイアンの岩場はシャモニの街からバスに揺られて15分ほど。バス停を降りたすぐ先に、あつらえ向きのゲレンデがどどんと現れる。あまりにもでき過ぎの岩場に、ヨーロッパアルプスの山岳環境の奥深さを見た気がした。平日だというのに、子どもたちもたくさん。なるほど、本場のアルピニストはこうやって育てられるようだ。7月4日の木曜日は「休日」ということに。ならば、いざイタリアへ。シャモニからモンブラントンネルを抜け、クールマイヨールでバスを乗り継いでヴァッレ・ダオスタ州の州都アオスタへと向かった。ここは古代ローマ帝国の軍事都市があった場所。街のあちこちにローマの遺跡があり、歴史好きにはたまらない1日に。山を割り切ってしまうとこんな楽しみもある。ヨーロッパは奥深い。エギューユ・デュ・ミデュの山頂駅から先、外の氷河世界へと続くALPINIST ONLYの氷のトンネル。ここを抜けた先は、アイゼンとピッケル、ハーネスにロープの世界。4,248mのモンブラン・デュ・タキュルに登ったのは7月5日。山頂で自撮りをしてみたものの、顔半分。真ん中の写真は山頂直下。この先の岩場を攀じれば登頂となる。太陽がやけに大きく見えた。喜びの瞬間。山頂にあった十字架のオブジェを手に。おそらく風で倒れたものと思われる。
 シャモニでの最終日を迎えた。この日は朝から中天に刷毛で掃いたような青空が広がっている。ハーネスにロープを結びつけ、コスミック山陵の垂直に近い壁をじりじりと登っていく。クラックあり、チムニーあり、垂直下降も織り交ぜて、エギューユ・ドゥ・ミデュの展望台へと続くリッジをめざした。アルプスでのミックスクライミングの入門ルートとも言われているが、いやはや中々である。振り向けば、人を拒むかのようなタキュルの雪壁が見える。でも、そこには微かにトレースが刻まれていた。それはぼくらが昨日、雪面に残してきた足跡だった。
4,000mの空の色は濃く深い。赤茶けた花崗岩に日差しが痛いくらいに跳ね返り、岩のエッジを際立たせていた。コスミックの山稜から見たモンブラン・ドュ・タキュル。写真をよく見ると、雪壁の中程に縦に続くトレースがある。昨日、われらがモンブランチームがたどってきた道だ。
 最後のリッジを乗越し、展望台の手摺りに架けられた鉄梯子をアイゼンのまま登っていく。見上げれば、多くの観光客たちが驚きと羨望の眼差しを向けて、声援を送ってくれている。フランス語に英語、ドイツ語、日本語も混じっている。近藤さんが山の中で話していた言葉を思い出す。

 ヨーロッパではガイドたちは、尊敬される存在なんだよ。ガイドだけでなく、山を登る人たちはみんな一目を置かれている。ドイツ語で山岳ガイドはベルクフューラー(Bergführer)。そして山に登る人のことを、ベルクスタイガー(Bergsteiger)という。ちょっとかっこいいよね。上まで行けば、みんなもベルクスタイガーだ。

 こうして、ぼくらはベルクスタイガーになった。
こうして、ぼくらはベルクスタイガーに。やっぱり、モンブランには登ってみたいとは思うものの、登っていたらできなかったこともたくさんあった。山三昧のシャモニの休日は、さらなる山の楽しみを教えてくれたようだ。



 東京に帰ってきて、すでに半年以上が過ぎている。それでも、シャモニでの日々を思い出すだに笑みがこぼれる。山に登る意味もスタンスも、あれ以降、少しは変わったのかなとも思う。なにも、登頂ばかりが山ではないと。それよりも……。
 
 自分の変容はともかく、やはり気になるのは山の変容のほうだ。ぼくらがモンブランに登れなかった理由は、温暖化に伴う地球環境の劇的な変化にある。つい先日、フランス政府はモンブランへの入山規制の発表をした。山小屋の予約なしでは入山ができなかったものを、さらに強化していく方針だという。目的は登山客の集中によるリスクの軽減にあるが、その背景にはやはり温暖化の影響が見え隠れする。今回のようにトップシーズンでさえも、山に入れるとは限らないのである。今後、山に登れる機会はどんどん狭まっていくのではないか。5年先、10年先の山登りを考えたとき、漠然とした不安を拭い去ることができずにいる。

 

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