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【タヒチ紀行2】 ポリネシアの歴史と文化のつながりを未来へ伝えるフアヒネ島のボビーとドロシー

2020.06.29 Mon

藍野裕之

藍野裕之 ライター、編集者

エア・タヒチの小型機がフアヒネ島に着陸したのは夕方の5時ごろだった。タヒチは熱帯海洋性気候だが、日本の夏のような気の遠くなるほどの気温と湿度になることはまずない。どの月も最高気温27度C前後。まるで日本の初夏だ。タヒチ=ソサエティ諸島は2つの群島に分かれている。東から西に吹く貿易風の風上がウインドワード群島。その主島であるタヒチ島から北西に約170km離れた風下にリーワード群島が広がる。フアヒネ島はリーワード群島の東端に位置する。面積は伊豆大島ほどの小さな島である。

タラップを降り、小さな平屋のターミナルに入っていくと、先に着いていたハワイの友人たちが待ってくれていた。エリック・コモリとエレーン・ロジャース=ジョーダン、そしてトニ・ハンの3人だ。彼らは70年代前半の学生時代、篠遠喜彦博士に学び、その後、助手を勤めてきた考古学者たちである。わたしよりひとまわり近く年上だが、知り合ってしばらくするうちにファースト・ネームで呼び合うようになった。

エリックは日系3世。女性ふたりには数%だがハワイアンの血が流れ、エレーンはマフェットというあだ名で呼ぶことが多い。トニの母親は日本人だが、あまり日本語を話さない。聞けば、篠遠喜彦博士の最後の秘書だったショウコ・ヒサヤマさんも来ているという。彼女は日本生まれで80年代にハワイへ渡った。ハワイの日系人社会では、彼女のような近年の移住者を「新1世」と呼んでいるのだそうだ。

彼らに接していると、人種、民族、国籍といったものが曖昧になってくる。人類はアフリカで生まれ出て、南極大陸以外のすべての大陸へ住み着き、最後に太平洋を渡り、ポリネシアへの移住を果たした。それが人類学、考古学が教える人類史だが、じつは、まだまだ人類は移動の只中にある。そして、再定住地を探し求め、移動の果てに恋に落ちれば、クレール=混血が生まれる。彼らがつくりだす文化は、既存の人種、民族という小さなカテゴリーには属さない、現在進行形の文化なのではないか、とさえ思えてくる。ときに、人間がつくりだしたカテゴリーと、それにもとづくアイデンディティ理論に縛られているのは息苦しく、ときに悲劇を生む。そんな世界とは別世界がある。それを教えてくれるのもポリネシアだ。
エリック・コモリ氏から博士の功績についての紹介があり、それを側で聞くOpu Nuiのドロシー・レヴィさん(写真=飯田裕子)

わたしたちは篠遠博士の記念碑の除幕式に参加するため、フアヒネ島に集まった。博士も移住者であり旅人だった。日本に生まれながら1954年にハワイに渡り定住し、じつに60年以上もビショップ博物館に籍を置いてポリネシア考古学に身を捧げた。ハワイに移住してから10数年の間にタヒチの島々も含め、東ポリネシアの多くの島々で最初期の遺跡を探し回った。そうして、ハワイ、ニュージーランド、イースター島を結ぶポリネシア・トライアングル内における人の移動、各島への移住の始まりを世界で初めて図式化した。後に「オーソドックス・シナリオ」と呼ばれるようになるポリネシア考古学の金字塔だ。ここまでを篠遠博士の長い活動の第1章だとすれば、60年代から第2章が始まった。その主な舞台が、ここフアヒネ島だったのである。
記念碑はファレ・ポテと呼ばれる水上集会場の前に建立された。ファレ・ポテも篠遠博士が復元した(写真=飯田裕子)

博士は68年、フレンチ・ポリネシアの観光庁から遺跡復元の依頼を受けた。大きな予算をつけるという話だったそうだ。かつて博士から聞いたことがある。「考古学者の主な仕事は発掘です。発掘を行なえば、少なからず地中の遺構を壊してしまいます。これは心の痛むことでもあるんですね」と。ただ、多くの考古学者は発掘場所から必要な遺物を採取すれば、あとは埋めて終わりだ。遺跡を地上に復元再構築するのは、別種の事業。それにあえて突き進むことを博士は決断したのである。
「南太平洋の真珠」とも評される隣のボラボラ島には何軒もリゾートホテルがある。しかし、フアヒネ島にホテルは1軒しかない。あとは小さなペンションやゲストハウだ。わたしたちは、空港に近いペンションを予約していた。オーナーの母屋に隣接してプールを囲んで4棟の客棟を持つ中くらいのペンションだ。提供された1棟は2LDK。3人で自炊して過ごすのには十分快適そうだった。年季は入っているが、ゲスト用のレンタカーもあり、ガソリンを満タンにして返せば滞在中はいつでも使えて、料金はいらないという。わたしたちは、荷物を置いてフアヒネ島唯一の町、ファレに買い出しに出かけ、エリックたちが滞在しているペンションに向かった。

彼らの宿は海辺の瀟洒なバンガローで、ラグーンに突き出した屋根付きの水上ウッド・デッキが設えてあった。夜の帳が降りるなか、桟橋からデッキには篝火のようにオレンジ色の電灯が点り、すでに手づくり料理によるウェルカム・パーティが始まっていた。メイン・ディッシュはポワソン・クリュ。「生の魚」というフランス語の名前がついたこの料理は、タヒチで生まれたものだ。刺身と野菜を和えただけの料理だがうまい。味つけはおもにタヒチ風、中国風、ギリシア風の3種類。ココナッツミルクで和えたものがタヒチ風、醤油やオイスターソースを使うと「シノワ」、香草とオリーブオイルで和えたのは「グレック」という。用意されていたのは、もちろんタヒチ風だ。わたしたちも含め「日系」のためか、大皿の脇にトッピング用の醤油が置かれていた。乾杯はシャンパンだ。

やがて、ドロシー・レヴィさんがやって来た。わたしは21年ぶりの再会だった。彼女はフアヒネ島の住人。エリックたちと同世代で、彼らと同様に篠遠博士と縁が深い。タヒチの共用語はフランス語とタヒチ語の2言語だが、離島ほどタヒチ語が健全に生きている。英語を話さない島民は少なくない。だが、ドロシーは英語も堪能だ。父親はハリウッド俳優でもあった白人だが、フアヒネに移住し、ドロシーは生まれた。そして成長すると彼女はカリフォルニアの大学に進んだ。わたしは彼女の英語に活動家のそれを感じる。60年代後半から70年代初めの学生運動の最中にアメリカの大学に通っていたからなのかもしれない。

実際、そもそも彼女は活動家でもある。90年代にわたしが初めて会ったときは、フアヒネ空港のターミナルにあるコーヒーショップで働きつつ、遺跡の保護管理をしていた。篠遠博士は68年以降、毎年フアヒネ島にやって来たが、長くても滞在は1ヶ月。博士の留守中、遺跡を守っていたのである。いまでは美しく復元された遺跡群保全のためOpu NuiというNGOを立ち上げ、島の自然環境保護と遺跡の保存という持続的な保全活動を精力的に行なっている。Opu Nuiとはタヒチ語で「大きなお腹」の意味だ。タヒチの島々では、伝統的に年齢を重ねてお腹が大きくなってこそ、知恵のある年配者と認められてきた。いま、ドロシーも大きなお腹になった。そんな彼女が生まれた島でこうした活動を生涯のミッションとするようになるきっかけが、じつは篠遠博士、そしてボビー・ホルカムとの出会いだった。ドロシーは、43歳で早逝した伝説のミュージシャンを看取った最後のパートナーでもある。

夭折した奇才ボビー・ホルカムの存在と生涯

ボビーは1947年、ホノルルに生まれた。父親はネイティヴ・アメリカンとアフリカ系アメリカ人の混血で、母親はポルトガル移民人とネイティブ・ハワイアンの混血だ。家族は貧しく苦労し、ボビーが10歳のとき、家族はロサンゼルスに移住し、黒人街に住んでいた。
「彼は父を語ることも、ファミリー・ネームを名乗ることもなかったわ。単にボビー。ただそれだけ」とドロシーはいう。

これだけ多くの血が混じり合って生まれたら、アイデンディティなど持ちにくい。しかも多くはマイノリティーの血だ。父親とどのような確執があったのかまではドロシーは語らなかったが、家族内での問題とともに、若きボビーは、日本人には起こりにくいアイデンディティ・クライシスに見舞われたのは間違いない。クレオール文化とは、そんな危機を乗り越えた果てにあるものだ。

「頭にシダの葉のヘイ(ヘッド・バンド)をつけ、上半身はだかといういでたちで、パニエとよばれる買いもの籠をハンドルに引っかけて、自転車でファレの町まで買い出しに来る。帰りには彼の好きなワインの大瓶がパニエをふくらませていた。英語は母国語だがフランス語も実に達者に使いこなして、彼はいつの間にか島民の中に融和し、受け入れられていった」

と、76年にフアヒネ島に移住した時からボビーを知る篠遠博士は書き残している。ボビーは、残っている映像でもとても陽気な姿である。しかし、その魅力的な笑顔が、泣いて、泣いて、泣き疲れた末のものだったと思えるほど、祈りとも言っていい楽曲も残している。

日本では知られていないボビーについて、しっかり調べた日本人がひとりだけいる。編集者の高橋道彦さんだ。わたしは同い歳の彼と97年に初めて会った。篠遠博士の紹介だった。今では音楽評論家として活躍しているが、当時の彼は『ミュージック・マガジン』の編集長で、タヒチに何度も行って、現地の音楽を調べていた。きっかけは91年に新婚旅行でタヒチを旅したことだったそうだが、そのときパペーテの町はボビー一色だったという。たった15年のタヒチでの活動を経て、短い生涯を閉じたボビーを追悼する雑誌やポスターが町にあふれていたのである。この謎のミュージシャンは何者だ--------。そう思った高橋さんはタヒチの現代音楽にのめり込んだ。

やがて98年になって、彼は「タヒチアン・クレオール」と題した8枚のシリーズのCDをプロデュースし、エイベックスからリリースした。同時に自身の雑誌でボビーの小伝、タヒチ現代音楽の解説を連載した。これらがわたしの貴重な資料となった。
シリーズCDの第1作はボビーの『King Street』。そこに篠遠博士も寄稿している。先の引用はその一部。高橋さんの小伝を頼りにしながら、もう少しボビーの歩みを追ってみよう。

ロサンゼルスの黒人街で育ったボビーは、大学をわずか1年で中退してアメリカ全土を旅した。ときは60年代後半で、ヒッピー・ムーブメント、黒人公民権運動、そしてベトナム戦争と、アメリカ社会は大きく揺れ動き、新しい生き方を模索する放浪者の一群にボビーも加わったのだろう。放浪暮らしは5年にもおよび、西海岸に帰った。ここで、ボビーのジェンダーを超越した声質、驚異的な声量、既存の人種や民族にあてはまらないルックスに注目し、自身のバンドのリード・ボーカルに引き入れた天才ミュージシャンがいた。フランク・ザッパだ。しかし、このBTO’sというバンドは1枚もアルバムを残さず解散。ボビーはフランスに渡っていった。

じつは、ボビーは音楽とともに絵画の才能があった。渡仏はアートの武者修行と考えられるが、このままアメリカにいては徴兵され、戦地に送られる、と姿をくらまそうとでも考えたのではないか。フランスでのボビーは、シュルリアリズムの巨匠、サルヴァドール・ダリについて絵画を修行した。また、ダリが演出や舞台美術にも協力したミュージカル「ヘアー」に出演したりもした。そして、ベトナム戦争終結の翌年にフアヒネ島にやって来たのである。
ファレポテの中は資料館にもなっていて、ボビーの絵も展示されている
タヒチでもボビーは、まず絵画で知られるようになる。彼をタヒチに誘ったのは、フランスの画家、ポール・ゴーギャンの存在だろうか。限りなくシンプルにした人物描写などは、タヒチを画題にしたゴーギャンを彷彿させなくもないが、ポリネシアの神話や伝説を題材にアース・カラーを基調にしたボビーの絵はやはり独特だ。
「彼はこの発掘に興味をもったのみならず、失われようとしていた土地の文化遺産をなんとかして守り、子供達に伝えようと努力を惜しまなかった。そのためにはバスをやとって、マエヴァの集会場に子供達を集めて神話や伝説を話したり、これらをもとに脚本を書き、演技を指導したり、また、古代の踊りを教えることなどからポリネシア文化の伝統や歴史を子供達に学ばせたのである。彼は自分の絵を売ってはそのための費用にあてたのである。ごく最近までタヒチの学校ではフランスの歴史は教えられても、ポリネシア人としての自分達の歴史を学ぶ機会はなかったのである」(篠遠博士)

やがてボビーは、絵画とともに音楽活動も始め、タヒチ語の楽曲を発表するようになる。80年代のタヒチの音楽シーンはボビーを中心に回り始める。
「彼の名はライ・クーダーから聞いて知っていた。ライが注目していたんだ。彼はタヒチの音楽にも詳しいよ」

と高橋さんのインタビューに答えているのは、ヴィム・ベンダースだ。97年のことだったという。このロード・ムービーの巨匠は、84年の『パリ、テキサス』以来、ライ・クーダーと組んでいた。ライの土着のフォークソングを掘り起こし、プロデュースする地道な取り組みとヴィムのロード・ムービー制作能力は、99年のキューバの老いたミュージシャンたちにスポットを当てた『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』に結実した。そんなコンビがボビーに心を寄せていたとは……。タヒチを舞台とした、音楽ロード・ムービーができていたかもしれない、と胸をときめかすのは、わたしだけではあるまい。

ライがボビーに注目する流れは、わたしにも少し想像できる。彼は70年代になってハワイ音楽に吸い寄せられていったのだ。ハワイにギターが伝えられると、ハワイアンたちは、家ごとに独自のチューニングを編み出し、家の歴史や長老の智恵をメロディーに乗せて伝承した。弦をスラックスのようにダブつかせるのでハワイアンのチューニングは総称して「スラック・キー」と呼ばれる。その中から名曲がいくつも生まれていったが、いつの間にかアメリカ・メインランドでつくられた楽園幻想をかき立てる新時代のハワイアン・ミュージックに押されて影を潜めてしまった。それをライは自らバック奏者になって、74年に伝説のスラック・キー奏者ギャビー・パヒヌイをプロデュースし『GABBY BAND』をリリースした。このとき南太平洋に向いたライの好奇心が、タヒチのボビーに至ったと考えるのは、あながち邪推ではあるまい。

ボビーに注目したのはライ・クーダーだけではなかった。80年にヨットを仕立ててタヒチの島々を2ヶ月間も家族で旅したニール・ヤングも、フアヒネ島のラグーンに停泊させた自船でボビーと過ごした。そして翌年「Southern Pacific」という曲をリリースした。87年にわざわざフアヒネ島にボビーを訪ねたのは、敏腕プロデューサーとしても知られるクインシー・ジョーンズだった。このときクインシーは、ボビーをアメリカに連れてゆくつもりだった。「アメリカで君の絵の個展を開こうよ」と、音楽だけでなく絵画にも注目し、その誘いは熱心だった。しかし、ボビーはフアヒネ島にとどまることを選択したのである。

9月3日、存命であれば95歳の誕生日を迎えるはずだった篠遠博士のセレモニーは、快晴の下で行なわれた。式の終盤、地元のミュージシャンによる「Taote Sinoto」の演奏があった。88年にボビーが篠遠博士に贈った曲である。この曲は前出の高橋さんがプロデュースしたCDにも収録されているが、歌詞の日本語訳が充分ではなく、わたしはタヒチ語の歌詞のわからずにいたが、今回の式典のためにエリックが英訳をつくってきていたので、ようやく全貌を知ることができた。非常にシンプルで、70年代から80年代の篠遠博士の活動を伝え、讃えている。もう少し時が経つと、未来の人は神話のようにこの曲をきくことだろう。

「タオテ・シノトがやって来る/慎重な調査と発掘に/シノトは再び連れて来る/カメハメハ校とプナホウ校の子どもたちを」という歌い出しだ。
「カメハメハ校とプナホウ校の子どもたち」というのは、じつはエリック、マフェット、そして、トニのことである。彼らが篠遠博士に連れられてフアヒネ島を訪ね、ボビーと出会ったときは子どもではない。カメハメハ校とプナホウ校は、ともにハワイにある幼稚園から高校までの私立名門校だ。この2校は屈指のエリート校で、その出身者は公立出身者から冷やかされたりする。ハワイ生まれのボビーらしい言い回しなのである。マフェットとトニはカメハメハ校だ。ここはハワイアンの血が少しでも流れていなければ進めない。エリックはプナホウ校である。こちらは学力さえあれば出自は問わない。この3人の考古学者にとって、この曲は深い思い出が刻まれたものだろう。

文化は、新しい血が入らなければ停滞し、硬直する。フアヒネ島は、この地に再定住したボビー、島では珍しくアメリカ留学を経験したドロシー、そして篠遠博士とその教え子たちにより、古い過去と現代がつなげられていった。18世紀末から19世紀にポリネシアンの王国が成立したにもかかわらず、欧米列強の植民地と化したハワイとタヒチなのだ。そこで古代と近代が分断された。グローバル化への必然の流れなか、ポリネシアンが自ら古代とのつながりを放棄したところもある。しかし、圧倒的な軍事力を背景とした力の差はどうしようもなかった。祖先とのつながりを失ったときの不安定さを、身をもって知っていたのがクレオールのボビーたちであり、移動を繰り返してきた篠遠博士だったのだろう。文化復興は政治的な決着以上に彼らに力を与えるのだ。
ボビーの話になると、とたんに目を細めるドロシーさん。(写真=飯田裕子)

ドロシーは言う。「文化というのは独立や自立といった事柄と大変強いつながりがあると思います。文化を勉強すればするほど自分自身のこの国に責任を一層感じるようになります」
20世紀の第2次世界大戦以降は、ハワイを軍事拠点にしたアメリカが太平洋の覇権を握った。それでもフランスはタヒチをはじめとした東ポリネシアの島々を植民地として持ち続けた。アフリカの植民地を失ったため、新たな核実験場をポリネシアに求めたのだ。

ドロシーは、いまもボビーの死に不信感を抱いている。
「ガンの原因は他にも考えられますので、核実験の影響かどうか判断するのは難しいようです。ただ昔は、だれもガンなどにはかからなかったんです。それと死亡原因を判断するフランス人の医者、とくに軍医が『心臓麻痺』と書いてしまえばそれまで。ボビーは亡くなったときも、医者は『心臓麻痺』と書いたのです。だから、わたしは『ガンに書き換えてくれ』と言ったの。ボビーは確かにガンでした。ガンの死亡者は、核実験の影響を調べる統計にカウントされるの」(文・藍野裕之)

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