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【ユーさんの73年_8】中川祐二、73年目のアウトドアノート~1974年の夏、ユーさんユーコンを下る。

2021.04.30 Fri

中川祐二 物書き・フォトグラファー

 四谷にあった欧州山荘(*1)、その店主、大倉大八(*2)さんは登山家、クライマーなのだが商売人としては決して上手な方ではなかった。最初の店からいくつか変わって、最後は新宿でカヌーの店をやっていた。
(*1)欧州山荘=四谷にあった登山用具専門店。看板に「大倉大八の店 欧州山荘」と書いてあり、当時このような書き方が流行っていた。(*2)大倉大八=岡山出身の登山家。日本を代表する登山家のひとり。アイガー北壁を試登した。新田次郎の『栄光の岩壁』に登場する主人公のザイルパートナーは大倉をモデルとしている。故人。

 四ツ谷に店があったころ、店に遊びに行くと、

「ユーさん、ちょっと、行きましょう」

 と言ってとなりの喫茶店に誘ってくれた。僕のニックネーム”ユーさん"は大倉さんが名付け親。このとき以来数十年ずっと使っている。
 
 ふたりでコーヒーを飲みに行くといってもそんなに話題に共通性はないし、なんか暇な学生が時間つぶしに喫茶店へ行ったという感じだった。そのとき大倉さんが、

「ユーさん、カヌーって知ってます?」

 知っていると言っても、アメリカのネイティブが乗っているとか、イヌイット(エスキモー)が乗っている、という程度しか知らなかった。

 大倉さんはちょっと前からドイツ製のファルトボート(*3)、「クレッパー」に乗っていた。ファルトボートがどんなものなのか僕はわからなかった。日本製のものができてくるのでいっしょにカヌーをやらないかと誘われた。
(*3)ファルトボート=Faltboat/船体の骨組みに防水の布を張った折りたたみ式のカヤックのこと。カヌーの一種。

 大倉さんがいう日本製のファルトボートは、ビクター工芸(*4)という会社が作ったもの。その会社の名前から音響関係の会社なのか、すると、スピーカーの端材かなんか使って、カヌーを作ってるのかと想像した。
(*4)ビクター工芸=フジタカヌーの前身。この時代、音響関係のビクターがカヤックを作っていた。

 大学生の頃、体育会ヨット部の友人にヨットに乗せてもらった経験がある。そのときのあこがれなのか、いくら小さくても船のオーナーになってみたかった。

 すぐにOKして船のオーナーとなった。4mそこそこの船だがオーナーには違いない。「Sandpiper」と名付けた。きっとその直前に『いそしぎ』(*5)という映画を見たばかりだったからだろう。
(*5)『いそしぎ』=映画『いそしぎ』(The Sandpiper)。エリザベス・テイラーとリチャード・バートンのメロドラマ。主題歌は『The shadow of your smile』。

 このカヌー、正確にはファルトボートと呼ばれるもので、折りたたみ式のボート。ドイツ語でファルトボート、英語ではフォールディングカヤック(*6)。袋状の船体布に組み立て式のフレームを入れ、最後にチューブに空気を入れ完成する。馴れれば20分ほどで組み上がる。
(*6)フォールディングカヤック=folding kayak/前出のFaltboatと同じく、船体の枠組みと防水布で組み上げる折りたたみ式のカヤック。Faltboatはドイツ語源で、folding kayakは英語。

 大倉さんのまわりの10人くらいがこれを買ったと記憶している。そのグループで練習が始まった。場所は秩父・長瀞。ここには小滝という瀬があり、水量にもよるがドキドキするような練習ができた。もともとは長瀞の川下りコースでもあり、かなり水しぶきがかかる瀬で、みなキャーキャー叫ぶところ。ここへ毎週のように練習に通った。

 練習とはいえ、当時日本にカヌーの教則本がある訳ではないし、先生がいた訳でもなかった。まずやってみてうまく行けばそれでよし、ほかの人たちの技術もよく見て教え合った。

 ある日、僕たちのものとは違うカヤックで練習している人を見つけた。それはグラスファイバー製のものだった。僕たちは図々しくもその人のところへ行き、教えてくれと頼み込んだ。ざっとしたことだけだが、細かな注意を教わった。彼は自衛隊に所属するカヌー選手だった。

 僕たちのカヌー仲間は「ビーバーカヌークラブ」というチームを作り、都内でミーティングを開き、週末は長瀞へ通った。ある日、そのミーティングでみんなでユーコン川へ行かないかという話しが持ち上がった。リーダー格の小宮山哲夫(*7)氏の発案だった。彼は登山家で大倉さんとも古くから付き合いのある人だ。
(*7)小宮山哲夫=登山家。アイガー北壁冬季日本人初登頂のメンバー。

 即答する人はいなかった。当時海外へ行くこと自体大変なこと、1ドル360円の時代だった。
 
 僕は当時アメリカ資本の出版社に勤めていた。労働問題で組合と会社側の意見が対立、組合側はロックアウトをした。僕はどっちとも付かないスタンスでいた。そんなことしているより、やりたいことがたくさんあった。
  
 ロックアウトしていた1年数ヶ月、僕はある映画社でスライドの製作なんていうアルバイトをしていた。まだビデオが一般的ではない時代で、商品販売のため店頭で流していたのはスライドだった。
  
 僕はこの期間、会社がロックアウトで自宅勤務。とはいえ、自宅でやることなんてなにもない。月に一度のミーティングのためどこかの会議室へ行くくらい。もちろん給料はそのまま出た。したがって夜の飲み代は不自由なく使えた。
  
 ロックアウトが解除され会社は始まったが、当初の計画通りの出版はできそうになかった。この間にユーコン川へ行ってみようと会社のトップに話しをした。すると、

「休暇を取るのはあなたの権利です。どうぞ存分に私の国を楽しんできてください」

 2週間の休暇を取るのにドキドキしていたのに、さすがアメリカ人経営者だ。入社数年の若造に2週間の休暇をくれた。
  
 いっしょに行こうとしていた友人は、休暇を取るのに大騒ぎだったらしい。前例がない、休暇が長過ぎる、海外へ行くというのはどうしたものかと。そう、彼は地方公務員だった。それでも"権利"を主張し参加した。
  
 みな、始めてまだ1年ほどのカヌーイスト7人が集まった。女性ふたりを含む遠征隊ができあがった。

 僕は海外へ行くなんて考えたこともなかった。パスポートをとるため書類をそろえ何度も役所へ通った。問題はビザだ。ビザを入手するためにはアメリカ大使館へ行き申請しなければならない。英語で質問されたらなんと答えればいいのだろう。びくびくしながら行ったのを覚えている。
  
 当時、渡米するにはお金がなくてはいけない。そりゃ当たり前だが、銀行口座に残金がきちんとあるという証明が必要だった。つまりアメリカで仕事をして住み着いてしまうことを防止するためだろう。
初めてとったパスポート、その最終ページに書かれていた銀行の名前と残金。きっとこの記帳するときだけお金を入れてすぐに下ろしちゃったんだと思う。このパスポート、数次旅券だがこの時のアメリカとカナダのスタンプしかなかった。このあと5年間海外には出ていない。 
 その古いパスポートを見ると、最後のページに銀行の印が押され、「$542」という記載がある。542ドル掛ける360円、195,120円が残金としてあるという証明である。このほかにツアーの参加費が170,000円くらい。僕の給料は55,000円、合計したものを給料の額で割ると半年分以上である。当時、ラーメン1杯90円の時代だった。
  
 今の価格に換算してみると恐ろしいほどかかった探検隊だった。実はこれには裏がある。せっかくアラスカまで行くのだから、ぜひアメリカ本土まで行ってみたいと思い、カヌーツアーが終わったら僕ひとり、西海岸へ行こうと密かに計画を立てていた。

 今回の7人のメンバーのうち海外遠征の経験者は小宮山氏だけ。さらに英語を話せるのはひとり。ほかは単にユーコンをカヌーで下りたいと思っている隊員が5人。

 今みたいに情報があふれている時代ではなく、どんな川なのかまったく情報がなかった。唯一あったのは、日大探検部が僕たちの数年前にトライしたときの報告書があっただけだ。

 みな、海外遠征の準備に入った。カヌーはもちろん、テント、シュラフなどの生活用具、調理用具、着替えなどですごい量になった。
  
 僕は今回の遠征のことを家族に話した。父も母もその当時海外なんて行ったこともない。うちで海外に出たのは僕が初めてだ。家族と水杯(*8)を交わして家を出た。
(*8)水杯=二度と会えないと思う別れのとき、杯に酒ではなく水を入れて飲み交わすこと。

 折り畳み、パックに入ったカヌーを背中に背負い、ザックを前に掛け、カメラバッグと小物バッグを手に提げ羽田へ集合した。もう遠征を中止したくなるほどの荷物だった。
  
 初めての飛行機では興奮しっぱなしでほとんど寝れなかった。機内ではビールもイヤフォンも有料で1ドル取られた。入管をすませ、大きな荷物を持って歩いていると肩章の付いた白い制服を着た、いかにもアメリカンな男が僕に近づいてきた。なんで僕に……、なにを聞かれるんだろう、困った。

「東京からですね。あなたはカップヌードルを持っていますか?」

 きれいな日本語だ。

「いいえ持っていません」

「カップヌードルには豚肉が入っています。アメリカには持ち込めません。あなたの友だちにカップヌードルではなく、シーフードヌードルを持ってくるように教えてください」

 アンカレッジで7、8人乗りのステーションワゴンを借りた。3列の座席を2列だけ使い、後は荷室にした。小柄な日本人でも7人、カヌー7艇、うち1艇は荷物運搬を兼ねた2人乗り艇。キャンプ用品、食料を積むとさすが巨大なアメ車ワゴンは心もとない格好となった。

 ここから1,130km、カナダのユーコン準州、ホワイトホースまでのキャラバンが始まった。アンカレッジ市街地を出てやがてグレンハイウェイになるリチャードソンハイウェイを北上、トックからはアラスカハイウェイをただひたすら東へ走る。

 アラスカハイウェイなんて聞こえのいい名前だが、その当時この道は砂利道。それでもカーブのところにはバンクが付けられていた。交通量は少ないものの対向車の飛ばす石でフロントガラスにひびが入った車が多かった。

 今回この項を書くにあたり、グーグルマップでアンカレッジからホワイトホースまで画面上で走ってみた。するとどうだろう、ほとんどがアスファルト舗装がされているではないか。まあ、あれから47年もたっているのだから整備していない方がおかしいのだが。

 真っ赤に燃え立つようなファイアーウィード(*9)のなかを延々ガタガタと走った。途中キャンプ場で一泊した。さすが本場アラスカのキャンプ場はきれいに整備され、びっくりした。
(*9)ファイアーウィード=ヤナギランのこと。アカバナ科の多年草。ユーコン準州の州花。

 各テントサイトは生け垣で区切られ、たき火ができるスペースが作られていた。

 遠くでこのキャンプ場のスタッフが薪割りをしていた。見ていると割った薪がきれいに飛んでいく。よく見ると変わった割り方をしていた。

 それはこうだ。まず、第一刀目で丸太の真ん中にナタの刃をしっかりと食い込ませる。食い込ませた刃で丸太を持ち上げ、空中で反転させナタの刃の背中から落とす。すると丸太はふたつに割れきれいな円弧を書き飛んでいった。僕もやらせてもらった。きれいに割れて飛んでいった。ほー、こんな方法があるのかと感心した。しかし、日本に帰り友人にこの話しをして、やってみせるのだが成功したためしがなかった。木の種類もナタも違っていたのだろう。

 2日間のキャラバンでカナダ・ユーコン準州の州都ホワイトホースに到着した。ユーコン川の畔のキャンプ場にテントを張った。初めて見るユーコンは考えていた川とはまったく違う川だった。広く、真っ平らで、ただただ早い流れの川だった。岩がある訳ではなく、河原がある訳ではなく、瀬がある訳でもない。流量が多く、秒速数メーターの見たこともない偉大なる川ユーコンの流れだった。
   
 その晩はホワイトホースのキャンプ場に泊まり、朝、テントひと張りだけ荷物保管用に残し、キャンプ道具をカヌーに積み込んだ。僕は長袖長ズボンのウエットスーツを着た。ユーコンの水は恐ろしく冷たかった。
  
 今回このホワイトホースからカーマックスまで360kmを下る予定だ。ユーコン川はカナダ・ユーコン準州からアメリカ・アラスカ州、ベーリング海へ注ぐ3,700kmの大河。そのうちの十分の一ほどを下る訳だが、日本の一番長い川は信濃川で367km、それを考えると大した旅だ。
数時間漕ぐと緊張はほぐれてくる。お互いのパドルを持って艇と艇をつなげイカダ状にして休憩。このままでラーメンを作ったり、コーヒーを作ったり。風景の針葉樹だけがアラスカを感じる。  
 ゆっくりと漕ぎ出すと、秒速数メーターの流れは気持ちよくカヌーを運んでくれた。流れに負けじとパドリングしてみたものの、すぐにあまり意味がないと悟った。なぜなら、なににもしなくてもかなりのスピードでカヌーは流されるからだ。周りを見るとみな一生懸命パドルを動かし漕いでいた。まあ、流れに任せるばかりでは飽きてしまう。一日中、カヌーの中に座っているだけになってしまう。
   
 遠くにちょっとした白波が立っている流れを見つけると、わざわざ漕いでいき、ちょっとだけ流れの変化を楽しんだ。 
  
 川の両側の風景は、針葉樹の森か川が浸食した崖が見えるだけ。ただただ広い川が音もなく流れていくばかりだ。長瀞で練習したような流れはまったくなかった。ちょっと拍子抜けしたが、この流れであんな急な瀬が出現したら怖くて下ることはできなかっただろう。

 しばらくすると流れが弱くなった。そして川幅はさらに広くなった。ユーコンはいつの間にかラバージ湖に入っていた。こうなるとカヌーはいっこうに進まない。しっかりと漕がなくてはならない。

 夏のアラスカの日差しは強い。着ていたウエットスーツがきつく腕の動きを邪魔をした。ナイフで切り半袖にした。それでも静水に近い湖を漕ぐのは辛かった。風の影響もずいぶん受けた。流れのあるところはなにもしなくても流れるというか、流されて行くのだが、湖に入ると漕がないと前に進まない。みな、離ればなれになってはいても、マイペースで漕いでいた。

 カヌーツアーで困るのはトイレだ。もちろんツアー中にトイレはない。落語の『三人旅』(*10)の中に”しょんべん一丁くそ八丁”という話しが出てくる。つまり仲間で旅をしているとき、ひとりが小便をすると仲間は一丁先に行ってしまう。くそならば……、あとは推して知るべしだろう。
(*10)落語の演目のひとつ。十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』で名高い、弥治さん喜多さんの道中記を素材元とした旅の噺で、江戸っ子の3人が京までの旅を続ける。

 カヌーだとこの差は歴然、一丁や八丁の差ではない。それでも“出もの腫れ物所構わず”でひとりグループから離れ、接岸し薮を探すことになる。藪の中にすっぽりと草のない空間を見つけ、「ここだここだ」と穴を掘り無事にことをすませた。目の前の砂が馬鹿に平らだなと思いながらスボンを上げると、それは直径40cmくらいの踏み跡のような形。ん?

 なんだこの形、この大きさ。これは動物、それもきっとクマだ。この足跡の大きさから想像すると……。慌てて穴に土をかけカヌーに飛び乗った。案の定、仲間たちは遠くに行ってしまっていた。
 
 夏、アラスカ、ここユーコン準州あたりは北緯60度。完全に陽が沈むのは11時頃、そして数時間後には太陽が顔を出す。正確に言うと完全に暗くなることはない。夕焼けが終わり空がだんだん暗くなると、朝焼けが始まる。どこまでが夕焼けで、どこからが朝焼けかその境がない(*11)
(*11)どこまでが夕焼けで、どこからが朝焼けかその境がない=白夜のこと。つまり夏のアラスカでは完全に暗くなることはない。さらに高緯度の地域では太陽はまったく沈まず高くなったり低くなったりしながら照り続けている。

 したがってカヌーを漕いでいると、なるべく距離を稼ごうと思うのだろう、ついつい漕ぎすぎてしまう。夜8時でも太陽は日本での夏の午後4時くらいの高さか。あわててキャンプ地を探し上陸する。

 そんなキャンプを繰り返していたある日、僕たちのキャンプサイトになにやら白くうごめく獣が現れた。なんだなんだ! びっくりして逃げようとするヤツ、パドルを持って戦おうとするヤツ、ただただ目を丸くするヤツ。まあ、これは半分冗談だが、なにしろびっくりした。よく見るとそれは数頭のヤギだった。ヤギだけではなくおじさんも現れた。話しをすると、なんとヤギを散歩させているという。そばに人家があったのだ。

 僕は未開の北極圏へ行く、どんなことが起こるかわからない。クマと戦うか、ものすごい川の流れで死んでしまうのか、そのくらいの覚悟できていた。それが証拠にうちを出る前の晩、父親と母親と水杯を交わしてきた。

 それがどうだ、このヤギだ。遅い時間だったが、なんだこの牧歌的な風景は。人っ子ひとり住んでいない極北の地をカヌーで下るという、僕の心の中にあった冒険気分、エクスペディションな気持ちは終わってしまった。

 しかし、リーダー小宮山はなかなかすごいリクエストを出した。そのヤギ飼いのおじさんに、「ヤギの乳をくれないか?」とコッヘルを差し出した。おじさんは嫌な顔ひとつせず、そこへしゃがみ込み乳を搾ってくれた。初めて飲んだヤギの乳だったがおいしかった。
今回この遠征をするにあたり、出版社から取材の依頼が来ていた。『ボート アンド ヨット』マリンブックス(休刊)という月刊紙だった。1974年10月号に簡単な原稿とともに掲載された。その後、雑誌関係の仕事をこんなにたくさんするなんて夢にも思っていなかった。  
 毎日天気はよかった。乾いた風、気温は低いものの日差しは気持ちがよかった。昨日ヤギと現地人に合ったせいでなにか気が楽になった。僕は小さなトランジスタラジオを持ってきていた。ザックの中からこれを取り出しビニール袋に入れ、カヌーの前のゴムベルトに固定した。のんびりとしたカントリーを聞きながらのパドリングとなった。
  
 曲の途中で何やら話しが入るのだが、そんな英語はまったくわからなかった。何度かその放送のうち断片的にいくつかの単語が耳に入ってきた。それは「セブン」、「ジャパニーズ」、「カヤック」、「ユーコンリバー」と。

 ん、ん、ん。なんだ、俺たちのことか? 曲と曲の間の埋め草程度の話題に“今日、日本人7名がユーコンリバーをカヤックで下っているようです。あの遠いアジアの小さな国日本からですよ。物好きはいるもんですね、では次の曲は……”。きっとアラスカのウルフマン・ジャック(*12)はそんなことを言っているのだろうと勝手に想像していた。
(*12)ウルフマン・ジャック=アメリカのラジオ放送で活躍したディスクジョッキー。映画『アメリカングラフィティー』では本人役でラジオDJとして出演している。
 途中、テスリン川と合流しうねうねとした流れは変化がなく、ただただ漕ぐだけ。テスリン川は氷河の川なのか茶色く濁っていた。ユーコンは澄んだ水、それが何キロも混ざり合わずずうっと境界線を作っていた。僕はおもしろがってその境界線をまたいでパドリングした。そんなことでもしないと飽きて寝てしまうほどのどかな川下りだ。
   
 瀬はないのだが、流れに身をまかせているだけでかなりのスピードでカヌーは進んで行く。川幅は広く、ほとんど障害物はない。7艇のカヌーはお互いのパドルを持ち合い筏のような形で休憩する。ストーブを出してラーメンを作ることもあった。
  
 ビッグサーモン、リトルサーモンを通り、いくつものくねくねとしたヘアピンのような流れを漕いだ。途中、モーターボートに追い抜かれた。それを見てかなりがっかりした。今までの流れならモーターボートだって十分走れる川だったが、実際にそれを見ると、な~んだ、こんなに苦労して漕いできたのに。
とうとうと流れる冷たいユーコン川。この写真から見るとどこかの川の河口部みたいにも見えるが大陸のほぼ中央部。奥に見えるのはカーマックスの橋、今回僕たちの終了点だ。ほっとした気分と、名残惜しい気分が入り混じる。  
 遠くに街っぽい風景が見えてきた。そこが終了点のカーマックスだった。接岸しカヌーから荷物を出し、急いでカヌーをたたみ始めた。なぜそんなに急ぐかといえば、ここカーマックスからホワイトホースへ戻るには長距離バスを利用するしかない。今日の午後の便に乗らないと数日間ここで停滞しなければならないからだ。
  
 たたみ終わる頃、ひとり人の男性が近づいてきた。ユーコンプレスというローカル新聞の記者だという。どこから来た、なんの目的で、何日間かかったかと、通り一遍の質問をし、写真を撮っていった。
  
 きっと新聞に載ったのだろうが、現物を入手できず確認はできていない。
  
 その取材の中で、ホワイトホースからカーマックスまで4日半できたと言ったら、

「それは早い、モーターボートの速さだ」

 と言っていた。つくづく“俺たちは日本人なんだな”と思った。
  
 ホワイトホースへ行くバスはフロントガラスがヒビだらけ、ホコリだらけのバスだった。今は当たり前になっているが、荷室が恐ろしく広いバスだった。これならソリッド(*13)のカヌーもそのまま積めそうだった。カヌーと荷物を積み込み、座席に座るともう目を開けているのは無理だった。
(*13)ソリッド=solid/かたいこと、固体状であること。つまり、折りたたみ式ではない、ソリッドタイプのカヌーをさす。 
 4日半かけて下ってきたユーコン川を、このバスはわずか4時間ほどでホワイトホースへ連れて行ってくれた。
 
 4日前に残しておいた倉庫テントは、そのままそこにあった。僕とS君は街までウィスキーを買いに行った。いつ来るかわからないバスを待っていては間に合わない。国道を歩きながら、後ろから来る車に恐る恐る親指を立ててみた。すぐにピックアップトラックが止まってくれた。酒を買いたいというと街のバーまで連れて行ってくれた。ボトルを分けてもらい、またヒッチハイクしながらキャンプ場まで戻った。
  
 360kmを漕いだ達成感とその疲労は、ウィスキーをあまり必要としていなかった。ウィスキーの香りより汗臭いシュラフのほうが恋しかった。

——続く——

中川祐二 物書き・フォトグラファー

“ユーさん”または“O’ Kashira”の 愛称で知られるアウトドアズマン。長らくアウトドアに慣れ親しみ、古きよき時代を知る。物書きであり、フォトグラファーであり、フィッシャーマンであり、英国通であり、日本のアウトドア黎明期を牽引してきた、元祖アウトドア好き。『英国式自然の楽しみ方』、『英国式暮らしの楽しみ方』、『英国 釣りの楽 しみ』(以上求龍堂)ほか著作多数。 茨城県大洗町実施文部省「父親の家庭教育参加支援事業」講師。 NPO法人「大洗海の大学」初代代表理事。 大洗サーフ・ライフセービングクラブ 2019年から料理番ほか。似顔絵は僕の伯父、田村達馬が描いたもの。

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