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【短期連載】高桑信一の「径 ― その光芒」女川古道 其の四

(2018.08.24)

登山のTOP

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目的により拓かれた径は、それを失うことで野に還ってゆく。消えゆく古道にかすかに漂う、かつての幕らしや文化、よすがに触れてみたい。草に埋もれ、忘れ去られた径をたどる旅。遡行の先駆者であり、作家である高桑信一さんの古道をたずねる旅・女川編の最終回です。

(左)朝の斜光の射しこむ女川中流部。冷たさを感じない、秋の溯行であった。(右)沢を離れ、地元岳人により手入れされた山道を踏み、蕨峠へ。

 朝の斜光の森の流れを下る。女川古道のエピローグとして蕨峠を越える日だ。

 渓谷遡行の最大の難関は、増水による徒渉不能だが、天気が崩れる気配は微塵もなかった。すべては古道ガールの恩恵によるものだろう。いままでの男だけの古道の旅で、全日程晴れがつづくのは、過去にもあり得なかったからだ。五淵ノ平にたどりつけさえすれば、あとは急な登りが待っているだけである。

 川床から一段高い台地が五淵ノ平で、すぐ先に小沢が流入している。古道は流れの向こうから登っていて、取り付けば下りなしの急登がつづくことになる。急登の極意は「ゆっくり休まず」で、その極意に従って登りはじめると、すぐに道を塞いでいる物体に気づく。それがマイタケだというのは一目でわかった。登りはじめて間もないというのに、全員驚喜してザックを下ろし、収穫にいそしむ。

 マイタケは栗の木にも出るが、大半は老いたミズナラに寄生する。同じ木に毎年出ることもあれば、数年おきに出るなど一定しないため、探すのに苦労する極上のキノコだ。一説によれば、その確率は百本に一本の割合だという。私の知り合いに、百本のマイタケの木を知っているという人物がいるが、してみると彼は一万本のミズナラを見て歩いた計算になる。

 そんな希少なマイタケが道を塞いで群がっている。一目でマイタケと見抜いた私が判断を保留して慎重に確認したのは、あまりに話がうますぎたからだ。しかし、マイタケに間違いなかった。道沿いのミズナラの木から延びた根が道を横切っていて、その根にマイタケが付いたものと思われた。

 マイタケが栽培されるようになって久しいが、栽培物と天然物には天地の差がある。香りと歯ごたえがまったく違うのだ。そのために、見つけた人間が興奮のあまり、思わず踊ってしまうところから「舞茸」の名が付いたと言われている。

 重さにしておよそ7~8キロほどあったろうか。潰さないように苦労してそれぞれのザックに収める。山を下りたら山分けするのだ。

 ここにマイタケが出ているということは、少なくとも一週間ほどは人が歩いていない。それが誰であっても、この光景を見過ごすことはあり得ないからである。

(上)舞茸を手にして、得意満面の古道女子。(下左)女川も源流部までは、こんな穏やかな溯行がつづいた。(下右)蕨峠の登り初めで見つけたマイタケの群落。舞い上がって収穫にいそしむ。

 その快適な重さを背中に感じて急な山道を登る。この女川古道で唯一といってもいい切り開きの道は、これから下る入山や船渡の集落の人たちが手入れをしているからだと聞かされたことがある。山仕事で使うから当然だとしても、道の手入れは行政からの委託も含まれているらしく、うがった見方をすれば、県境をめぐる争いの一方の当事者が、実効支配を主張するために毎年手入れをしているのではないかと疑うこともできるわけである。

 さすがに五淵ノ平付近になると道は細いが、蕨峠に近づくにつれて、次第に明瞭で広くなる。標高差550メートルを一気に登るのだから、古道探訪四日目の私にはつらい登りであった。そのつらさによって、女川古道を象徴する重要な切り付けを見逃すことになる。

 探して歩いてはいたのである。しかし、ブナに刻まれた切り付けの正確な位置を覚えていなかった私は、おそらくブナが朽ちて倒れたのだろうと、後日古道に詳しい亀山東剛さんに告げたのだが、話を聞いた彼に、そんなはずはないと一蹴された。

 翌年、すなわち今年の春、新潟での山小屋会議の帰途、私は亀山さんたちと連れ立って蕨峠を再訪した。切り付けの確認のためである。舟渡からの林道は残雪に埋もれ、4時間のアルバイトで峠に立った私たちを、二つの切り付けは悠揚迫らざる態度で迎えてくれたのであった。

 古道が蕨峠の手前で水平になる直前に、そのブナはあった。

「八十路ワラビ峠ニ来テミレバ、三途ノ川ワ山裾オ流ルル」

 いつ刻まれたのかはわからないが、ここまでようやくたどり着いた古老の諦観と、深い情念を感じさせた。

 いまひとつは、水平道の中間付近で、私も未見だったのだが、「海オミル 忠」とあった。さわやかな風が吹き抜けていくような切り付けである。古道が塩の道であることの証明のようにも思えた。切り付けのあるブナから海が見えたわけではあるまい。すぐ上の蕨峠山頂からの眺めであろうが、そこには切りつけるべきブナはなく、少し下った水平道のブナに刻んだものだろう。いずれも、女川古道の風格を物語るような切り付けであった。

ブナの木に残された、古の記憶。

 蕨峠を再訪したのは、取材時に水平道をエスケープしてしまったためで、貂戻し岩からの写真を抑えそこなったからである。

 貂戻し岩から直線に延びた行政裁判所裁定線の県境は、蕨峠から南西の尾根につづくが、わずか1.5キロほどの距離の723メートルのピークで突然途切れ、地形図上の採鉱地マークをまたいだ下方の上ノ沢の長石橋で復活するまで、県境が消える(直線距離で約2キロ)。これを県境未定地域という。

 県境未定地域は全国にも数多く存在するが、いずれも行政裁判所裁定線などより複雑な問題を孕んでいるということだ。問題はもちろん、県境未定地域の真下にある採鉱地マークで、昭和22年に観世音鉱山として拓かれ、同じ年に越後金丸駅まで索道が設置されて鉱物を運んだ。

 採鉱地マークのかたわらには「ちょうせき」とあり、それが長石を産する一般的な鉱山の呼称なのか、単なる鉱山名なのかは不明だが、そもそも昭和12年にこの地でタングステンの鉱床が発見され、坑道を掘っているのであり、その鉱山が、昭和22年に観世音鉱山として稼働するまで10年を要している事実を見逃してはならない。その10年のあいだには、国を挙げて戦争に突き進んだ不幸な歳月があるからだ。

 戦後の復興とともに採掘の設備を整え、索道を延ばし、ようやく稼働した採掘権の所有をめぐって、いったんは蕨峠までの暫定県境に納まるかに見えた県境争いが再燃したのである。

 直近の県境未定の山腹に宝の山が出たとなれば、税収がどちらの県に入るかは重大な関心事だったはずだ。

 この鉱山からは、それからもさまざまな鉱物が産出され、鉱物の価値観に左右されながら所有者が変わり、最終的には長石を産出する金丸鉱山として平成20(2008)年に操業を終えている。操業終了時点まで、税はもちろん、関係書類はすべて両県に提出したらしいのである。

 蕨峠から勘倉峰までの道すがら、長石鉱山の切羽が見えた。数年前、雨に煙った鉱山跡を訪ねた日が懐かしく思い起こされた。県境の消える723メートルピークを「不老峰」というのは、鉱山で働いた人々が名付けてものらしく、鉱山が枯渇せず、さらには無事故で働けるようにとの願いを込めたものであろう。そのためか、この峰は三省堂の山名辞典にも載っていない秘峰なのだ。

(上)正面のスラブが貂戻し岩。この岩から蕨峠まで、地形を無視した直線の県境が延びている。(下)右の尾根上の段々が長石鉱山。ここにいたると、県境が存在しない「県境未確定区間」となっている。この鉱山をめぐって、新潟と山形両県が争った結果。

 勘倉峰の中腹で、古道は林道と合流する。以前はこのまま越沢に沿って入山まで通じた道だが、途中で崩壊があり、使用不能になって現在に至っている。その道を下ってみたが、やはり藪に消えてしまっていた。となれば、あとは長い林道を歩くほかないと、だらだら歩いていたら、軽トラのおじさんが通りかかって乗せてくれた。わたりに船であった。

 彼は佐藤 健さんといい、地元の舟渡の住人で名人猟師であった。うちで休んで行けというので、図々しく上がりこんでお茶を頂く。もちろん、古道の話を聞く好機と思ったからでもある。案の定、彼は女川古道に詳しく、私たちが見つけたマイタケの場所も知っていた。さすがに、ザックにマイタケが入っているとはいえず、狩猟の話を伺って時を過ごしたのだが、長い古道の旅を締めくくるに相応しい、地元住人との触れ合いであった。

(上)林道で軽トラに乗せてくれた地元の猟師、佐藤健さん。捨てる神あれば拾う神あり。(下左)佐藤さん宅に招かれて、お茶を戴く。左は佐藤ご夫妻。(下右)最後の林道をのんびり歩いていたら、山ブドウの実を見つけて、思わず手が伸びる。
 

【取材協力:亀山東剛】

 
地図製作:オゾングラフィックス


高桑信一 たかくわ・しんいち
1949年、秋田県生まれ。作家、写真家。「浦和浪漫山岳会」の代表を務め、奥利根や下田・川内山塊などの渓を明らかにした、遡行の先駆者。最小限の道具で山を自在に渡り、風物を記録する。近著に『山と渓に遊んで』(みすず書房)、『山小屋の主人を訪ねて』(東京新聞)、『タープの張り方、火の熾し方 私の道具と野外生活術』『源流テンカラ』(山と溪谷社)など。

 

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ライター
Akimama編集部
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