• 山と雪

【短期連載】高桑信一の「径 ― その光芒」女川古道 其の参

2018.07.10 Tue

目的によって拓かれた径は、それを失うことで野に還ってゆく。消えゆく古道に漂うかつての暮らしや文化、よすがに触れてみたい。草に埋もれ、忘れ去られた径をたどる旅━━。源流遡行や日本古来の風物に触れる著作を多くもつ高桑信一さん。そんな高桑さんが、日本各地に遺された古道を訪ね歩きます。


 流れのかたわらの夜は快適であった。雨の降る様子は微塵もなく、耳元には女川のせせらぎが絶え間なく聴こえていた。少し離れて張ったタープも雨さえなければ用はなく、晴れているかぎり焚き火のそばで眠るのが私たちのスタイルである。夜通し火を絶やさなかったおかげで、秋だというのに寒さも感じなかった。

 荒川と女川の合流点にある小和田から、中流部の険しさを避けて湯蔵山を越え、平穏になった女川に降りるまで2日をかけた。もちろん古道を探し、道なき道を踏破するのに時間を費やしたからだ。

 しかし、上流にある五淵ノ平からは山道が使え、標高差550メートルを登って蕨峠に立ちさえすれば、小国町の入山集落は眼下に見える。朝ここを発てば、夕刻には達する行程である。

 だが、せっかく渓に降りたのだから、せめてもう一日、渓を楽しみたかった。まして女川は岩魚の豊富な渓だ。禁漁になるまで、まだ一週間はある。五淵ノ平の上流で分かれる二俣を、左の白沢に入り、今宵食べる分だけの岩魚を釣って、ゆっくりと泊まる計画を組んでいた。難関の古道の前半をたどり終えたご褒美のつもりであった。

朝の女川の流れに、森の緑が映えてきらめく。

 核心部を越えたとはいえ、いまだ古道の半ばで、このまま山麓に降りたとしても、古道の踏破には、たっぷり3日はかかることになる。その古道を昔の旅人は1日で越えたのだ。

 新潟県関川村の小和田集落から、山形県小国町の入山集落までの古道の全長は、直線距離で20キロあまり。平地なら5時間といいうところだが、標高差のある山道なら、倍としても10時間以上はかかるだろう。それでも早朝に起点の集落を発てば、その日のうちには終点にたどり着けるはずだ。

 道は現在とは比べ物にならないほど歩きやすかったろうし、なにより泊りの荷を背負わずに済む。道の恩恵は、道を見失って初めて思い知らされるほど偉大なのである。

 むろん、足腰の弱いものや、商いのために重荷を背負った旅人もいただろう。そんな人々のためのお助け小屋があったに違いないと私は考えている。横松の番所、清水の渡り場、五淵ノ平、蕨峠と、思いつく場所はいくつもあるが、そのような記録は一切残されていない。しかし、いかに間道とはいえ、旅人の難儀を救う施設がなかったと考えるほうに無理がある。少なくとも常駐の役人がいる番所の近くに、粗末でもいいから旅人を泊めるための小屋があったとして不思議はない。

行く手の右が本流の牛殿沢。左が白沢。写真ではわかりにくいが、右端の薄茶色の流れがタンニンを含んだ水だ。

 天気は申し分なく、先も読めている。数年前、五淵ノ平から一本下流のチョウナ沢に入り、蕨峠に抜けているから、そこから先の本流は既知である。きょうは早めに白沢に着いて、岩魚の顔を見るだけだと、のんびりとテント場を後にする。

 しかし、思ったように進まないのが古道探しの常だ。下流から、左右の河岸に沿って延びているはずのゼンマイ道が、ときに藪に埋もれ、ときに危うい岩壁の高巻きに導かれて苦難を強いられた。

 ようやく流れに降りて、思い知らされる。一の渡りから五淵ノ平までは、さらに数カ所の渡し場があったはずだ。だとすれば、古道は歩きやすい河岸段丘が主体なのではなく、あくまで流れが淵などで遮られたときにだけ、左右の段丘を高巻いたのではないかと。

 それからは古道にこだわることを止め、泳ぎを厭わず水線沿いの遡行に専念する。

 チョウナ沢を確認すれば、五淵ノ平は近い。懐かしい五淵ノ平に着いたのは、すでに午後をまわっていた。末端から延びる山道を登れば蕨峠だ。その急峻な登りを明日の楽しみにして、1キロほど先の二俣をめざす。

 二俣は、左右の水の色がくっきりと二分されていた。透明な流れの白沢と薄い茶色の本流が、ほぼ同量で出合っているのだった。本流の牛股沢は、上部でタンニンが混入していて、薄茶色の流れが常態である。だからいつも、澄みわたった白沢に入るとほっとする。白沢の語源は、濁った本流と対比して付されたものである。

 白沢に入るとすぐ左手に快適なテント場がある。そこに荷を下ろし、タープを張って薪を集めておいてから、竿を片手に、遅い釣りを楽しむべく、ふらりと白沢にさまよい出る。

 さほど歩いたわけではないが、それでも数尾の岩魚を手にすることができた。

 その夜は、岩魚寿司にした。森の枯れ木で焚き火を熾し、山の恵みを食べて夜を過ごすそのたびに、私たちは渓の子になり、こころと身体が純化され、研ぎ澄まされていく。

左)焚き火と酒で夜は更けてゆく。中、右)いち早く岩魚を釣りあげた高橋郁子さんと尺物を手にする小澤由紀子さん。

 白沢と本流を分ける尾根の上部には、貂戻し岩と呼ばれる一枚岩の岩壁がある。名前からして、山の獣の貂でさえ登れない岩という意味だろうが、地形図を見ると、貂戻し岩から蕨峠にかけて、直線の県境が引かれている。この不可思議な直線の県境を「行政裁判所裁定線」と呼ぶ。その県境にほど近い新潟県側の流れの一角に、私たちは3日目の夜を過ごしていることになる。

 いまでは新潟県と山形県だが、藩政時代から女川街道一帯は、双方の藩の利害の不一致がもたらす係争が絶えなかった。江戸時代には、ときの幕府が双方を呼んで言い分を聞き、解決を図ろうとしたのが蕨峠であった。しかし、互いに納得しないまま時代は流れ、昭和15年になって行政裁判所が裁決を下した。それが行政裁判所裁定線だ。納得するか否かにかかわらず、有無を言わさず直線によって県境を定めたのである。

 平安時代に起源をもつ女川街道は、時代に応じてさまざまな政治体制を有してきた。藩政から廃藩置県を経て市町村制に移行されても、双方が同じ行政に統合されないかぎり、境界をめぐる利害は継承されてきた。その代表的な紛争を藩政に求めれば、女川郷を領する村上藩と、舟渡郷を領する米沢藩の苛烈な争いであった。

 ちなみに行政裁判所は、行政裁判法によって裁かれる一審制で、控訴は認められていない。しかも行政裁判所は、戦後の日本国憲法の制定に伴って廃止されたから、話を蒸し返そうとすれば、現在の司法による、行政訴訟に持ちこむほかはない。したがって、よほどの利害が新たに発生しないかぎり、一帯の県境は、未来永劫、変わることはないのである。

 そもそも、双方の藩の利害がなんであったかは明らかではない。街道を往来する旅人の荷が交易の品であれ、私用の品であれ、番所によって検められるのであれば、藩境がどこであっても差し支えないはずである。通行税が課せられるのだとしても、それは藩境の位置には左右されない。

 となれば、利害の発生場所は土地しか考えられない。おそらくは、女川街道の周辺に点在したはずの鉱山の存在だ。開発時期も採鉱された鉱物も不明だが、五淵ノ平の下流左岸には大黒鉱山があった。鉱山をめぐる利害得失は、時代を問わず膨大なものだろう。

 もっと言えば、いついかなるときに、街道一帯のどこから有望な鉱山が見つかるかもわからない。そのときのためにも、藩境(県境)の拡大の主張は、藩(県)の命運と浮沈をかけた生命線だったのではあるまいか。

 資料の乏しい古道の楽しみ。それが、自由な想像をもたらす領域の存在である。
 
 
【取材協力:亀山東剛】 

 
地図製作:オゾングラフィックス


高桑信一 たかくわ・しんいち
1949年、秋田県生まれ。作家、写真家。「浦和浪漫山岳会」の代表を務め、奥利根や下田・川内山塊などの渓を明らかにした、遡行の先駆者。最小限の道具で山を自在に渡り、風物を記録する。近著に『山と渓に遊んで』(みすず書房)、『山小屋の主人を訪ねて』(東京新聞)、『タープの張り方、火の熾し方 私の道具と野外生活術』『源流テンカラ』(山と溪谷社)など。

 

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