• 山と雪

【短期連載】高桑信一の「径 ― その光芒」女川古道 其の壱

2018.06.26 Tue

目的によって拓かれた径は、それを失うことで野に還ってゆく。
消えゆく古道に漂うかつての暮らしや文化、よすがに触れてみたい。草に埋もれ、忘れ去られた径をたどる旅━━。源流遡行や日本古来の風物に触れる著作を多くもつ高桑信一さん。そんな高桑さんが、日本各地に遺された古道を訪ね歩きます。


 

 荒川と呼ばれる河川は各地にあるが、その多くは「荒れる」が語源で、荒れ川からきている。よく知られているのは、越後平野の北部に縦断して日本海にそそぐ荒川の水害で、昭和42(1967)年8月28日起きた羽越豪雨(羽越水害)は、山形・新潟両県の流域に壊滅的な被害をもたらした。

 羽越豪雨は一例にすぎない。全国のいたるところで、川は流域に多大な被害をもたらしたが、その一方で、かけがえのない幸を運ぶ存在でもあった。

 どんな山奥に住んでいても、人間は塩がなければ生きていけない。

 山の人々は、山から切り出した木材を川に流し、受け取った海辺の人々が塩を煮出して、半分を木材の対価として山の住人に返した。その流路が川であり、流した木材を「塩木」と呼んだ。

 川は悠久の昔から塩の道として使われたのである。塩をめぐる山と海の人々の物々交換のやりとりは、交易のはじまりでもあった。

 さまざまな物資が川を通って海辺と山間を行き来するようになると、川の道はやがて陸に転じる。流れの激しい難所は陸に上がって峠を越え、流れの緩やかなところに「渡し場」を設けて人々を通した。越後の荒川に沿って点々と残る十三峠の古道は、そうした米沢街道の繁栄の軌跡である。

 その渡し場に目を付けたのが流域の領主で、渡し場を通る商人たちから通行料を取るようになった。川の関所のようなものだから、払わなければ先に進めない。

 これではやっていけないと苦慮した商人たちが、対抗手段として活路を見いだしたのが、支流に沿って山を越える間道の利用であった。渡し場さえ通らなければ通行料を払う必要もない。まして氾濫の多い荒川よりも流れの少ない支流のほうが安定して通行できたはずだ。

小和田集落の裏手に佇む石仏が、旅を見守る。

 朝日連峰の大朝日岳に源を発し、山形の小国盆地を潤して西に向かい、飯豊連峰から流れ出る玉川を合わせ、越後平野の北部を貫いて日本海に注ぐ荒川にも、越後と羽前を結ぶ複数の間道の痕跡がある。

 なかでも知られているのが女川街道(別名・蕨峠越)で、通行人が絶えて以降は女川古道と呼ばれる。

 新潟県関川村で荒川に注ぎ、荒川に比べて穏やかな流れゆえに女川と名付けられた支流だが、その道の起源は平安時代にまで遡る。

 女川に沿って奥山の県境を越えると、そこは山形の小国盆地だ。戦国時代は上杉景勝が会津120万石を領有したものの、関ケ原で西軍に与したため、米沢藩30万石に減封された歴史の舞台の一角である。

小和田集落から延びる細い山道の石段が、女川道の証のようで、古道に分け入る情熱をかき立ててくれた。

 小国町や関川村など、地元の行政が古文書からまとめた文献のなかに、女川古道に関する資料がいくつかある。

 本来なら地元に足を運んで文献に目を通すべきなのだが、その余裕もない。やむなくネットで検索した女川古道の情報を、原典となった文献を示したうえで無作為に紹介するが、信頼性において疑義を生じた場合は、引用者である私の責任に帰すことを断っておく。

 小国町発行の『小国町の交通』によると、平安中期の永承年間、陸奥の豪族、安倍頼義に敗れた出羽城介(中央から派遺された官僚を介という)の城繁成が、女川街道を逆にたどって関川村の小和田に定着し、女川下流の奥山庄の開発に伴って女川街道を整備したとされる。つまり敗走に用いた時点で、街道の原型はあったことになる。

 江戸時代初期の慶安2(1649)年、山上 の要衝だった横松に塩の密輸を防ぐために番所が設けられ、さらに関川村発行の『米沢街道』では、慶安3年に起点の小和田にも番所が置かれ、幕末まで存続したという。

 明治に入り、鉄道や車道の発達で女川街道は見るも無残に寂れるが、それは全国を網羅した街道の衰退の歴史と軌を一にする。

 しかし前述した昭和42年の羽越豪雨の際、橋が流失した国道113号の迂回路として、女川街道は劇的な復活を遂げる(『小国町の交通』)。

 茫々の薮に埋もれ、すでに存在さえ忘れられていたであろう古道が、途絶した交通の危機を救ったのだ。

 それは記憶を蘇らせた村の古老の知恵かもしれず、古い文献を漁って探し当てた窮余の一策だったかもしれない。

 女川街道は一瞬の光芒の末に、ふたたび忘れ去られてしまった。しかし、その鮮烈な復活の事実を知った私は、いつの日か女川古道を忠実に踏破することによって、人々の記憶に沈みゆく街道の全貌を浮かび上がらせ、光を当ててみたいと考えたのである。

ナンバン越えの上手で見つけたブナの切り付け。

 女川を知らなかったわけではない。渓流釣りの名渓として親しみ、沢登りの優れた対象として、いくども足を運んでいる。

 古道の片鱗は随所にあったが、全貌は定かではなかった。ほかの山越えの街道と違って女川街道が特異なのは、川と山を継続するところにある。

 穏やかな女川といえども中流の流れは速く、両岸は険しい。その中流部を避けて湯蔵山を越えた後、上流に降りて徒渉を繰り返し、県境の蕨峠を越えて、小国町の入山集落に至る。

 そのラインを関川村からたどると、小和田集落→湯蔵山→横松→清水渡り場→五淵ノ平→蕨峠→勘倉峰→入山集落となるが、女川中流を避ける小和田から五淵ノ平の下流までが、まったくの未知であった。

 困り果てた私は越後の岳人、亀山東剛氏に助けを求めた。年長の友人である亀山さんは、周辺の山を知り尽くしている。湯蔵山から四方に延びる間道にも精通し、女川街道をたどるうえで、彼の存在は欠かせない。困ったときの神(亀)頼みでお願いしたら、さっそく湯蔵山越えの詳細な地図を送ってくれたのだった。

ナンバン越えの尾根道は崩壊していた。傾斜の強い迂回路を登ると、穏やかなブナの森になった。ここで泊まれと森がささやくが、さすがにまだ早く、後ろ髪を引かれながら先を急いだ。

 9月下旬の晴れた朝、小和田集落の裏手に延びる古道らしき山道を登る。径が錯綜して迷わされるが、いまだに古道が仕事道として使われていると思えば親しみも増す。

 関川村発行の『山岳渓流地図』によれば、おそらくヨシガ沢に沿う径で、明瞭な道型をたどって339mのピークに立つ。

 吹き出す汗と重荷に端ぎ、径はいくども消えては現れ、そのたびに径を探す名目で荷物を放りだすから、いつまで経っても進まない。

 ナンバン越えという尾根道を登り、三角点ピークの分岐を過ぎて、水がとれてタープの張れるブナの平地を見いだしたのは、午後2時であった。予定の湯蔵山には届かないがはるか平安の昔からつづく千年の古道に泊まる安静は、たしかにあった。

【取材協カ:亀山東剛】

地図製作:オゾングラフィックス


高桑信一 たかくわ・しんいち
1949年、秋田県生まれ。作家、写真家。「浦和浪漫山岳会」の代表を務め、奥利根や下田・川内山塊などの渓を明らかにした、遡行の先駆者。最小限の道具で山を自在に渡り、風物を記録する。近著に『山と渓に遊んで』(みすず書房)、『山小屋の主人を訪ねて』(東京新聞)、『タープの張り方、火の熾し方 私の道具と野外生活術』『源流テンカラ』(山と溪谷社)など。

出典:好日山荘『GUDDÉI research』2017冬号

【短期連載】高桑信一の「径 ― その光芒」女川古道 其の参
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