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角幡唯介の探検文学を読む(アキママ読書日記①)

2013.11.11 Mon

滝沢守生(タキザー) よろず編集制作請負

×月×日 『空白の五マイル』

 冒険記というのに関心が向かない。だが、探検記はめっぽう好きである。

 角幡は探検家と自称している。自身の旅は、冒険ではなく探検なのだという。ならば旅の果てに産み落とされた著作は探検記だろう。

 デビュー作『空白の五マイル----チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)は見事な作品だった。

 インド亜大陸がユーラシア大陸にぶつかった痕跡、ヒマラヤ山脈。その北側であるチベット高原に端を発し、東へ流れるヤル・ツアンポー川は、やがて直角に近いほど大きく屈曲してヒマラヤ山脈を穿つ。そこにできたのがツアンポー峡谷である。角幡は、早稲田大学探検部の時代に一度そこを訪ね、また当時からこの地の探検史を調べていた。そして、この地域、さらにはその東である中国の雲南省、四川省といった一帯を広く踏査した、20世紀初頭から中葉に活躍したイギリスの大探検家、フランシス・キングドン=ウォードに行き当たる。ヤル・ツアンポー川流域に、この希代の探検家が踏査し逃していた地域が残っていたのだ。長さ約5マイル。その後も歩かれていない。前人未到の空白地帯。だれも歩いていないからこそ、彼は二度目の旅を敢行する。しかもたったひとりで。

 探検とは、命を賭して未知の領域に踏み込む行為であり、その記録が探検記である。冒険とは命を賭した行為だ。しかし冒険記は、個人の行為の記録というだけでなく、ひどいものになると自己満足的な記述に成り下がることがある。探検記は、未知の領域を扱う点で冒険記と大きく異なるのだ。未知の領域を知るためには、いったいいままでどこまで知られているのか、つまり既知を知らなければならない。既知とは、大げさにいうなら人類史である。歴史をひもといていった先に、未知といういまだ人類が知り得ていないことが見えてくる。

『空白の五マイル』には、キングドン=ウォードの足跡はもとより、キングドン=ウォード以前から21世紀になるまで、ツアンポー峡谷における150年ほど探検史が巧みに織り込まれている。それは、角幡自身が未知を知るまでの努力の結晶だ。中には不幸にも命を落とした者もいる。とりわけ、近年になってテレビ隊に同行したカヌーイストがヤル・ツアンポー川の激流に命を落とすシーンは圧倒的だ。

 こうした未知を知り得るまでの痕跡が、ツアンポー峡谷踏査行の記述に織り重なる。その重なり方、場面展開が見事だ。動いている角幡の行為だったかと思うと、150年も前の歴史に、はたまたつい最近の遭難に、小気味よく場面は展開していくのだ。筆力といってしまえばそれまでだが、こうした構成力はどこで身に付けたのか。

 その後、本人に会う機会が訪れた。飄々とした人だな、という印象を受けた。そして、件の疑問を彼を問うた。すると、

「朝日新聞にいたとき、1000字ほどの短いコラムを連載していたんです。日々読む読者が飽きない工夫を考えていました」

 彼は飄然といった。

×月×日 『アグルーカの行方』

『アグルーカの行方----162人全員死亡、フランクリン隊の見た北極』(集英社)は、角幡唯介の最新作である。アグルーカとは、極北にすむイヌイットの言葉で、「大股で歩く男」の意味だという。また、フランクリン隊とは、探検史上に名を残す大量遭難者を出した19世紀中葉のイギリスの北極探検隊だ。フランクリン隊の隊員の中には、いまでもイヌイットにアグルーカとして語り継がれている者がいる。この作品も、150年以上も前の探検隊のありようが巧みに織り込まれている。それはまるでミステリーのような上質な出来映えである。北極行の道筋は、フランクリン隊の行程とリンクする。角幡の手に掛かると、北極の猛烈な自然環境の中に、フランクリン隊の亡霊が出てくるようだ。

 同書が出版されたばかりだった今年の夏の初め、荻田泰永を囲んで飲んだ。同書の旅には同行者がいた。それが荻田だった。彼は北極冒険家で、何度も北極行を繰り返すところから“北極バカ”で通っている。角幡作品の中では、この荻田の型破りとも思える行動が独特の味を醸し出して、作品を濃厚に仕立てる役目をしている。実際の人柄も繊細でありながら鷹揚で懐深く、北極での体験談や日頃の暮らしを楽しく聞かせてくれた。そんな荻田の本も読まなければならない。その名も『北極男』(講談社)。飲んだときは脱稿前だったのだろう。角幡に触発されたのか探検史に関心が向いて、必死に勉強しているといっていた。

 荻田に会ったときは、角幡の『アグルーカの行方』を読んでいなかった。その後に読んで、荻田にメールした。「ラストシーンの爽快さとは裏腹に、今回は読後感が複雑です」と。角幡と荻田の旅は氷ばかりの無住地帯の旅を終え、有人地帯にたどり着く。それは死の恐怖から解放されることも意味している。旅の終わりに遠くに見える有人地帯。その記述からは安心感が醸し出され、無人地帯の醸す寂寞感とは対照的で、極北の遅い春の情景描写とあいまって清々しい印象を受けた。この爽快感ともに持った違和感はふたつだった。ひとつは、今回のふたり旅の始まりが不明瞭だということだ。ふたりで行くからには、単独ではなくふたり旅とする理由がお互いにあるはずだろう。それが明確に書かれていないのだ。なぜふたりで極地にいるのか、それが読み進めながら気になってしかたがなかった。ふたりには確かめていない。しかし、このことは角幡作品にとっても重要なことだと思っている。次に会う機会があったら聞いてみたい。

 もうひとつは個人的な感想に過ぎるかもしれない。それは、『アグルーカの行方』が探検記なのか冒険記なのかということである。『空白の五マイル』と同じように『アグルーカの行方』にも探検史が巧みに織り込まれている。しかし、それは未知を探し出すために既知を知る作業の成果としての探検史ではない。むしろ、今回は未知の領域に迫ることは薄れている。探検史を織り込んで重厚に仕立てた冒険記なのでは、と思ったのである。

×月×日 『雪男は向こうからやって来た』

 ふたつの作品の間に、角幡には『雪男は向こうからやって来た』(集英社)がある。この作品は、そもそもの計画からして彼自身で立てたのではない。人が立てた計画に、ひょんな縁から参加することになっていくのだ。おまけに雪男の捜索である。『空白の五マイル』の前に書いていて、作家としてのデビュー作を目論んだが、編集者にボツにされたのだという。それを改稿して世に問うたのだ。

 ヒマラヤの雪男は、学術的なアプローチもされてはいるが、同書で角幡も語っているようにネッシーやUFOにも通じる怪しさを持った存在だ。この捜索隊に接近していくとき、彼は躊躇する。これは探検になるのかどうか自信が持てないからだ。それでも参加する。そして、結末を述べてしまうのは申し訳ないが、捜索隊は雪男には出会えなかった。

 ここで物語は終わらない。角幡は、その後にこれまで雪男に魅せられてきた人々を追跡する。中にはその過程で遭難し、命を落としてしまった人もいる。遺族にも会っていき、その人物像をつかもうとする。そこまで走らせたのは、雪男という際物的な存在になぜ惹かれていったのかを知りたいためだ。そして、雪男にのめり込んだ人々には、ある共通の体験があることを発見する。それは“らしきもの”の目撃だ。それぞれの人は、それぞれに目撃した。しかもそれは、おうおうにして待ち構えていて出会ったのではない。本当に偶然に、目撃してしまったのだ。

 目撃者を執拗に追ったのは、「探検とは何か」を探りたい角幡の思いからではないか。未知を解き明かすといっても、その未知が雪男のようにオカルト的な怪しさの中にあるものだったらどうだろう。もしかすると世紀の大発見になるかもしれない。もしかすると捜索行為はとんでもなくバカげたものと失笑されるかもしれない。もしかすると、こうしたスレスレの位置でしか現代の探検は成立しないのかもしれない。そんな縦横に張り巡らされた探検に関する疑問を終始持ち、その世界に身を投じるか否かに角幡の心は揺れる。取材されていた目撃者たちも同じように心を揺らせている。その揺れの奥に潜む真理が、この作品の本質だと思う。

 人が描く夢だとか、人生の目標といったものは、雪男のように怪しくて頼りないことがままある。それでも夢や目標が描けない人生より怪しい夢を持ち続ける人生のほうがよい、と思う。角幡が問いかけるのは、さらにその先。願っても願っても、努力しても自力では到達できないことがある、ということだ。非常にわかりにくいタイトルだが、雪男はこちらから会いにいっても会えない、雪男は向こうからやって来るものなのだ、と解釈した。自力とともに、この世界には他力という別の力があり、その力学から人は逃れることができない。ならば努力とは何だ。しかし、他力を受け入れてこそ到達できる安らかな境地がある。人はひとりでは生きていないという。そんな人間の普遍性あるテーマに迫る作品は文学的だ。

 じつは、『アグルーカの行方』にも、探検ということのほかにテーマがある。それは死というものだ。人間は死をどう捉えているのか。フランクリン隊に関する文献を渉猟していて角幡は、遭難した隊員たちが北極での彷徨を重ねるほど、直面しているはずの死に無関心になっていく、と気が付く。死に対して無関心になるとは、いったいどういう精神状態か。フランクリン隊の隊員たちに、死を無関心にさせた北極とはどういうところか。これを探るために角幡は旅立ったのだ。

 死生観も連綿と文学を支えるテーマだ。その領域もいまもって未知だといえる。

 角幡作品を通読して思う。『空白の五マイル』は、探検記として成立した。しかし、死生観の行方に迫る『アグルーカの行方』も、自力と他力の力学を問う『雪男は向こうからやって来た』は探検記ではないだろう。しかし、探検史の渉猟と冒険行の果てに産み落とされた文学ではある。探検文学。そんなジャンルを、とりあえず設定してみた。次なる作品が楽しみである。(文中敬称略)

(文=藍野裕之)

あいの・ひろゆき
1962年東京都生まれ。広告制作会社、現代美術のギャラリー勤務のあと、フリーの雑誌記者に。『サライ』『BE-PAL』『山と溪谷』などの雑誌で取材と執筆に携わる。自然や民族文化などへの関心が高く、日本各地をはじめ、南太平洋の島々などへも足をのばし、ノンフィクションの作品のための取材を重ねている。著作に『梅棹忠夫ー未知への限り情熱』(山と溪谷社刊)、『ずっと使いたい和の生活用具』(地球丸刊)などがある。

滝沢守生(タキザー) よろず編集制作請負

本サイト『Akimama』の配信をはじめ、野外イベントの運営制作を行なう「キャンプよろず相談所」を主宰する株式会社ヨンロクニ代表。学生時代より長年にわたり、国内外で登山活動を展開し、その後、専門出版社である山と溪谷社に入社。『山と溪谷』『Outdoor』『Rock & Snow』などの雑誌や書籍編集に携わった後、独立し、現在に至る。日本山岳会会員。コンサベーション・アライアンス・ジャパン事務局長。

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