• 山と雪

孤高の老登山史家が語るマナスル登頂60年目の真相とは?

2016.02.27 Sat

藍野裕之 ライター、編集者

 布川欣一(ぬのかわ・きんいち)、1932年生まれ。御年84歳。知る人ぞ知る登山史家である。登山家としては大した登山をしていない。だが、登山の歴史にはめっぽう強い。寄せる老いに衰えを隠せないが、まだまだ元気だ。おっとり爺さんに見えるが、弁舌は滑らかで舌鋒鋭い。歴史に対して独自の解釈をする立場を守るため、登山史研究の拠点である日本山岳会などの団体には属さない。孤高の論者だ。長く出版社勤めをして、40代の半ばになって高校の社会科教師に転じ、定年まで勤めあげた。その後は登山史研究に邁進し、高齢を気にかける家族との同居を拒み、資料の山の中に独居する。いつもはぐらかされるが、登山史の解釈に悩んだ時、迷わず訪ねている。その日も電車に揺られて埼玉県中東部の田園風景の町まで小旅行。いつもの喫茶店で御大と対した。

1956年5月9日、今西壽雄、ギャルツェン・ノルブの2人が、マナスル(8163m)の初登頂に成功する。写真は、今西氏が撮影した頂上に立つギャルツェン。(写真提供=松田雄一)

——今年は、マナスル登頂から60年の記念すべき年です。
布川(以下なし) だから?
——先生は何も感じないの? リアルタイムで見てたでしょ?
 感じなくはない。やはり8000m峰のパイオニアワークは価値があったよ。僕は当時24歳だった。駆け出しの編集者でね、まだ登山史に深入りしてなかったけど、マナスル登頂の報に興奮した。やんやの大喝采だった。しかし、それから60年経って8000m峰も全部登られた。“山は真っ平らになった”と、よく言ってんだ。金さえ積めば誰でも行けるんだから、山に登るのも平地を歩くのも同じだ。60年前と同じことやっても意味ねぇよ。パイオニアワークにならんでしょ。
——そんなの分かってますよ! だから、言いたいのは、パイオニアワークの今なんだ。マナスル登頂の当時、この国は高度経済成長の上り坂を進み始めた。誰もがパイオニアであろうと志した。それを後押ししたのがマナスル登頂だったんでしょ。
 ほうー、見てきたようなこと言うね、若者よ(笑い)。
——講釈師と物書きは、見てきたような嘘を言うもんでしょ! どうして先生は、いつもそうなの?
 僕の性分よ。勘弁して。
——まあいいけど、国民の心をマナスル登頂が盛り上げた。
 そこが嫌なんだ。国威発揚に登山の業績を使う語り口が。
——先生は軍国少年だった?
 当たり前よ! 国民小学校時代に国を守ることこそ男子だと叩き込まれた。で、終戦の年が13歳で旧制中学の1年だ。民主主義ってのが始まった。僕は戦中の反動で左翼になったよ。上がった中学は札幌一中(現・札幌南高校)だった。そこに2年いたら旧制中学の前半3年を新制中学にするってんだ。そのうえ、あれは進駐軍のさしがねだったな。無理やり共学にして地区割の義務教育になったわけ。僕は札幌の西に住んでたんで、南の一中から西の中学に変えさせられた。何で? 必死に受験勉強して一中に入ったのに、何これって感じでさっ。反米にもなったよ。そんな思想かぶれの青二才を見かねた担任教師が、「お前は本を読むより山へ行って頭を冷やせ!」って言ったの。あの教師は凄ぇヤツだったんだよ。北海道帝国大学でバリバリにならした登山家だった。で、僕も山に行った。札幌郊外の低山。教師といっしょには行かなかった。いつもひとりで山を歩いた。そうすると、いいじゃない。何より気持ちいい。頭がすっきりする。山ってもんは、国のこととは関係ない。もっと個人のものだ。だから、国威発揚なんていうようなもんに、マナスル登頂だとか東京オリンピックだとかを利用するなっ!
——そりゃぁ先生、ナショナリズムに対するアレルギーだ。
 言うねっ、若いの。
——すいません。
 う〜ん。新制高校を出てね、僕は帝国ってのが取れた北海道大学に進んだんだ。スキー山岳部には入らなかった。学生新聞やってたんだど、山へは登り続けたよ。その頃、スキーで凄い同級生がいた。当時の北大はインター・カレッジ2部の中で低迷してたんだけど、そいつが滑降、回転、大回転、さらに距離まで出場して、どんどん勝って北大を2部優勝に導いた。三浦雄一郎だよ。向こうは覚えてないだろうけど、在学中に何回か話したな。その後の彼の登山……。すまんが僕は否定的だ。

 で、マナスルだっ。計画が始まったでしょ。いよいよ来たなって感じで固唾を飲んで見守った。まず、後にサル学を切り開く京大の今西錦司が隊長で、偵察隊だ。そして翌年は第1次登山隊。慶應出身で、卒業後はヒマラヤ行きたくてインドに拠点を持つ貿易会社に就職した三田幸夫。これが隊長。登攀隊長は高木正孝だ。旧制成蹊高校から東京帝国大学に行って、ヨーロッパに留学し、アルプスの氷雪登山を経験して帰ってきた30代。すぐ下のキャンプでサポートしたのが高木と同世代の加藤泰安。この人は旧制学習院の高等科から京都帝国大学へ進んだ今西錦司の懐刀よ。戦前、戦中に朝鮮、満州、蒙古の登山、探検を繰り返して極地法をいち早く身に付けたマネージメントの天才だ。まさに東西の雄。高木と加藤のコンビは当時の日本登山界で最強だったと思うなっ。そのうえ加藤喜一郎、山田二郎っていう慶應を出たばっかりの若くてピンピンしたのが、体力を温存しながらアタックの時が来るのを待った。これ以上ない布陣だったよ。

——ようやくワクワクしてきた……。
 しかし、あれだけの布陣を持ってしても登れなかった。当時の技術では、8000mのジャイアントは仕留めきれなかった。それでも翌年すぐ、堀田弥一を隊長に第2次登山隊が出て行った。だけど……。
——マナスルの麓のサマ村で、村人の抵抗にあってマナスルに取り付くことすらできずに帰ってきてしまうんですね。
 あれは外交の未熟さが原因だ。
——誰の? 隊長の? 日本山岳会?
 いやいや。日本人全体が未熟だったんだ。サマ村の一件の後、関係修復に西堀榮三郎が行っただろ。西堀さんも京大の人だ。徒手空拳でマナスルの発端を切り開き、その後に南極越冬隊長やって名を挙げた。節操がないけど、当時の日本じゃ例外的に優秀な男よ。外交の勘も鋭くて、見事に関係修復の礎をつくって帰ってきた。サマ村でのことを隊長だった堀田弥一の責任にする人もいた。今もいる。それを言うのは酷だ。堀田さんは1936年に立教大学で登山隊を組んで、日本初のヒマラヤ登山をやってのけた。それを買われてマナスル第2次登山隊の隊長に抜擢されたんだけど、本当はマナスルに行きたくなかったんだ。大きすぎる責任だと分かっていたんだよ。

1952年の偵察隊から足掛け5年、第3次登山隊はまさに背水の陣といってもいい挑戦であった。日本中が固唾を飲んで初登頂を応援した。(写真提供=松田雄一)

——日本人初のヒマラヤ登山隊を成功に導いても、不安があったんですか?
 堀田さん率いる立教大隊と同時期に、今西錦司を親玉にした京都帝国大学がカラコラムのK2を狙って交渉に入っていったんだ。どちらも相手は今のインド、パキスタンを統治していたイギリスだよ。考えてみな。立教大学っていうのはミッション系の大学でしょ。アメリカ系のミッションだ。一方の京大は“帝国”って名乗っている。当時の大日本帝国は、軍部が力づくで政治の舵取りをし始めていた。世界から危ない国って思われ、その象徴のような“帝国”っていう冠を載せた大学には警戒するよ。反対にミッション系大学にはすんなり許可が出た。そうしたアドバンテージみたいなものでヒマラヤ登山がうまくいった、と堀田さんは分かっていたんだよ。
 歴史っていうのは、出来事だけを追っていったのではダメだ。周辺の事情や当時の時代的な環境も見て出来事を考えないといけない。
——そういう話が聞きたかったんだ、先生! 戦後、敗戦の痛手から何とかして立ち直ろうとしていた。そこへ湯川秀樹のノーベル賞があって、占領が解かれ、マナスルが始まった。マナスル登山の1回の費用は今の貨幣価値に換算すると20億円ともいわれます。文部省、毎日新聞社が資金を出し、それでも足りないと民間企業から一介の庶民までが寄付をした。そんな国を挙げたイベントに協力した企業から世界に日本の技術力を見せ付ける輸出品が生まれ、続々とアメリカ市場に出て行った。マナスル登頂、その後の南極観測隊は再び世界へ出て行く日本人を後押ししたんじゃないの?
 まあ、そう結論を急ぐな。敗戦の痛手から立ちなるって言うけど、経済復興、世界に認められる壮挙があっただけで戦争の痛手から立ち直れたわけじゃない。極端なことを言えば、戦争の痛手は何があっても消せないよ。しかし、あの急速な右肩上がりの経済、次々の壮挙は過去を忘れさせ、未来に向かおうという気持ちにさせてくれたんだ。あのね、僕は当時、出版社勤務のサラリーマンだったわけだけど、給料が毎年がんがん上がったんだよ。今じゃ到底考えられない。僕も先のことばかり考え、結婚もして子どもも生まれた。でも、未来への希望だとか言って、先のことばかり考えた時代がよかったとばかりはいえないでしょ。

 過去を忘れて起こったのがサマ事件だよ。日本の登山には、古来の「信仰登山」と明治以降の「近代登山」とがある。僕は、このふたつを分けて捉える考え方だ。登山史をやる人の中には、信仰登山と近代登山が重なり合って明治以降の登山は展開したんだと説く人もいる。だけど、僕は違う。だって、もし日本古来の、山を聖なるものと考える思想を、近代登山、あるいはアルピニズムに生きてきた登山家が持っていたのだとしたら、マナスルを聖なる山としていたサマの村人の気持ちが分かったはずだよ。それが分からなかった。新しいものに飛びついて、未来ばかりを求めて過去を忘れたんだ。あのとき、毎日新聞社がスポンサーってこともあってマナスル報道の一切を仕切っていたけど、そんな大新聞だってサマ事件の原因を村人「迷信」だと書いていたんだ。日本の過去を忘れていた証だよ。その点、槇有恒という登山家は、信仰登山の残像が今よりずっと濃い明治の登山も分かる人だった。

——いよいよマナスル第3次登山隊ですね。
 うん。第3次登山隊は背水の陣。登頂できなければ外国隊に登山を行なう権利を譲らなければいけない、という状況の中で組織された。もはや日本隊としては最後のチャンスだった。偵察隊から、ずっと大金使ってきて、責任はあるは、たくさんの人たちからの期待はあるは、というんだから大変だよ。そんな中で登山をやるんだからね。偵察隊は今西錦司の隊長があって組織されたけど、第1次登山隊も第2次登山隊も隊員が先にあらかた決まって、後から隊長が決まったんだ。それで第3次登山隊は元に戻したとも言える。まず槇さんの隊長というのを決めた。槇さんは、マナスル登山の計画が始まったとき日本山岳会の会長で、実施に当たっては裏方の陣頭指揮を執ってきたんだね。親玉だよ。虎の子を表に出さないと、もう誰も納得しない状況さっ。で、周囲の人たちが槇さんを口説いた。60歳。今じゃ老け込む年じゃないけど、当時は60歳といえば老人だから、最初は出馬をしぶった。周囲は説得を止めない。そして、槇さんは腰を上げた。で、ついに登った。よく奮起したよね。その代わりと言っちゃぁ何だけど、隊の運営は冷徹にやった。槇さんは人情のある人だったろうけど、それを押し殺して登頂に向けて冷酷非道とも思える判断を次々にしていったんだ。そんなことができたのも日本の登山界の親分だったからだろうね。マナスルに行くような登山家は、若くたって一家言あるよ。強い個性を持っているよ。そんな連中も槇さんが言うのだからついて行くって思えた。思えない隊員でも、反論をさせないだけの威厳が槇さんにはあった。苦労を重ねた60歳だ。隊員たちが自分をどう見ているか、自分でも分かっただろうね。だとしたら、組織のリーダーとしては想像を絶するプレッシャーだ。今の日本を見回して、どうだよ、おいっ。そんなリーダーがいるかい?
——疑問符を打たざるを得ない……。
 登頂の後、『マナスルに立つ』って記録映画がロードショーになった。大人気だったよ。僕も観た。興奮した。映画だけじゃなく、隊員たちが各地で講演をしたんだ。槇さんも各地を回ったよ。今になって槇さん偉いなと思うのは、講演でマナスルを「征服した」って一言も言わなかったことだよ。「登らせてもらった」って言ったんだね。登頂のときにだって、最初のアタック隊、これが結局は初登頂を果たしたわけだけど、今西壽雄とギャルツェン・ノルブのふたりを指名した。ネパール人もちゃんと入れたんだ。
——登頂だけが目立つけど、登頂までの軌跡を見ていかないと、マナスルの意味のようなことが分からないんですね。
 そうだな。人類未踏の8000m峰に立つなんていう探検の思想は、先進国からしか出てこないよ。その渦の中に。日本は名乗りを挙げて入ったんだ。そして、やってみるといろんな難題を突きつけられた。苦労した。それでも、やっとの思いで初心を貫徹して登った。先進国なんて言い方は嫌だけど、マナスルに登頂したから先進国の仲間入りをしたってわけじゃないんだよ。マナスルに立つまでの試練で、世界に影響力を持つ国としてどうあるべきかを学んだんだ。それを、当時どのくらいの日本人が分かったかは、疑問が残るけどね。僕も時代に浮かれていたな。自責の念はある。
——う〜ん。なるほど。
 話を戻そうか?
——お願いします。
 ナショナリズムの話をしたな。僕は、ナショナリズムには3つあると思うんだ。まずは国家主義ナショナリズム。国家こそいちばん優先すべきとして醸成されるナショナリズムだ。ふたつ目が民族主義ナショナリズムだよ。文化を共有する民族を最優先する考え方。最後が国民主義ナショナリズムだ。
——戦前の日本は?
 それゃぁ、君、国家主義に決まってんだろっ。で、民族主義。第1次世界大戦の後、オスマントルコ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国っていう帝国が崩壊して、新しい国家ができていったけど、あれはみんな民族主義が根底にあった。その後、ちょうどマナスルの頃だけど、アジア、アフリカの植民地独立も同じ。ずっと後に起こる東欧諸国の独立もそうだ。今のISまで民族主義ナショナリズムは続いている。で、国民主義だ。
——それが分からない。
 どうして?
——国民って言うと、大衆とか庶民と同じで、国家とか民族とかの集団がまずあって、集団そのものを優先するナショナリズムという感じがまだある気がします。市民ナショナリズムって言う方がしっくりくる。
 市民? どう違う?
——市民って言うのは、大衆や庶民と違って煽動されない。自立した個人だ。悪しき集団に迎合しない。でも、志が同じなら連帯する。
 難しいな。国家だとか民族を超えるな。それを考えてナショナリズムが成立するのだろうか?
——青臭いようだけど、国家の壁、民族の壁を越えて、いい社会をつくるんだというナショナリズムってあると思うんだ。
 いいね。そこで登山だ。自立って言ったけど、理想的な登山隊っていうのは自立した個人の集まりだよ。みんな自分で自分を鍛えてきている。自分の命にも自分で責任を取る。その覚悟がある。そのうえで他人が危機に陥ったら助ける。それから登山っていうのは金にならん。アマチュアリズムの世界だ。マナスルやった連中だって京大は学者、東京の登山家は企業家やサラリーマンだった。みんな生きていくための仕事は別に持っている。そこで立って、そのうえで登山をやった。今じゃ「プロ登山家」なんて名乗るのがいるけど、あんなのダメだ。
——プロって名乗るヤツだって、登山だけでは食ってないよ! いろんな仕事をやっている中で、自分がいちばん優先するのは何か? っていうことですよ。稼ぎは少ないけど登山を最優先するって意味の、言ってみれば決意表明みたいので「プロ登山家」とか「冒険家」とか名乗っているんだと思う。
 そうか。やっぱりアマチュアリズムか。まあいい。ともかく、登山を支えるのは自立ってことには間違いない。
——自立した個人ってことで、理想的な登山隊のような社会的な連帯のあり方を考える時代か……。
 若いのっ、自分で言っといて何だ! 顔を上げろよ。「マナスル60周年に際し、君は何を考える?」ってことなんだろ。今日はこのへんにしようか?
——先生、次はいつ会いましょうか?
 さあね。
——また連絡しますよ。
 わかった。待ってるよ。
(聞き手=藍野裕之)



「山道具が語る登山史」布川欣一著(山と渓谷社刊)
A5判/230ページ
*現在は絶版中、古書店などで購入可能




「明解日本登山史」布川欣一著(ヤマケイ新書刊)
新書判/272ページ/950円

藍野裕之 ライター、編集者

(あいの・ひろゆき)1962年、東京都生まれ。文芸や民芸などをはじめ、日本の自然民俗文化などに造詣が深く、フィールド・ワークとして、長年にわたり南太平洋考古学の現場を訪ね、ハワイやポリネシアなどの民族学にも関心が高い。著書に『梅棹忠夫–限りない未知への情熱』(山と溪谷社)『ずっと使いたい和の生活道具』(地球丸刊)がある。

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