• 山と雪

【短期連載】高桑信一の「径 ━━ その光芒」清水峠越え 其の弐

2018.12.10 Mon

目的により拓かれた径は、それを失うことで野に還ってゆく。消えゆく古道にかすかに漂う、かつての幕らしや文化、よすがに触れてみたい。草に埋もれ、忘れ去られた径をたどる旅。

 雨は上がっていたが、低い雲が垂れこめた翌朝、寝すぎに気付いて慌てて起きる。その日は蓬ヒュッテまでの行動で、さほどの時間はかかるまいと思っていたからだが、その時点で清水峠への登路を決めていなかったのがミスを招いたことになる。

 すでに通行不能な国道291(旧8)号線は論外として、十五里尾根(謙信尾根)か井坪坂のいずれの道をたどるかは、その場の気分にしようと先延ばしにしていた。

 というのも、明治7年に開削された清水越えの新道が、わずか4か月で開通していることから、それまで使われた十五里尾根の改良だったという説が有力で、他方、井坪坂コースは国道8号線の荒廃を救済するために拓かれたバイパスだった。つまり、どちらも明治以降に改良、開削された古道で、ならば当時の旅人の面影と痕跡を宿すのはどちらであろうかという選択に迷ったためであった。

 清水峠までは十五里尾根がいくぶん近いが、増水気味の登川の徒渉が嫌らしい。加えて峠からは旧国道を歩こうと思っていたが、それでは蓬ヒュッテに着くのが日没になる怖れがあった。

 いささか焦って選択した登路は、清水峠までが井坪坂、峠からヒュッテまでは旧国道を避けて七ツ小屋山を越えるコースにした。これが結果として好判断だったことが後に判明する。

 砂防ダム工事の現場があるヒノキグラ沢までは、前日と同様の疲れる車道歩きで、ヒノキグラ沢を越えてようやく山道になる。

 少し先で、右手に「兎平の元屋敷」の看板に出くわす。藪に埋もれた小さな平地である。ここには当時3軒の宿泊茶屋があり、旅人の便を図ったとされが、膨大な積雪で難儀したと記されている。

伊坂坂から望む国道291号線。中央の右から左にかけて、うっすらと痕跡が見える。

 井坪坂は、清水集落から清水峠までを結ぶ2里(8キロ)の道で、六日町の商人、佐藤良太郎が明治21年、通行不能になった国道8号線のバイパスとして計画したもので、22年に着工、翌23年に開通し、明治40年ころまで有料の道路として機能した。通行料は人間が一人2銭、牛馬が一頭に着き3銭であった。兎平は、その中間に位置していたことになる。

 長く登山道として使われてきた井坪坂は、牛馬の通行で知れるとおり平坦で歩きやすく、しっとりとした山道であった。だが登山道として過不足なく整備されているかといえば、そうでもない。やがて道はナル水沢と本谷を渉るが、いずれも橋はなく、飛び石を伝うことになる。増水時は苦労しそうだが、しかし登山道など、この程度で充分だというのが私の考えである。

 徒渉点を示すケルンの積まれた本谷を渉ると、本来の井坪坂がはじまる。大きなジグザグが標高差400メートルにわたって刻まれ、休憩を交えてゆっくりと登る。

 対岸には国道291号線の痕跡が、山肌に呑みこまれながらかすかに認められた。

 苔に覆われた静寂の道であった。だれが使ったものか、古い瀬戸物の欠片が路傍に散乱していた。

 九十九折の坂道を登り終えると、道は水平になって清水峠につづいている。そのあたりに旧国道の分岐があるはずなのだが、深い藪に埋もれて皆目見当もつかない。

 長い坂道を後にして水平の道を歩きはじめた旅人たちは、そこでようやく峠の向こうの山里に思いを馳せたのだろうか。

 山稜に霧のわだかまる峠に立った。笹原に覆われた、秋の峠であった。

 峠には送電線監視所があり、その手前に小さな避難小屋があった。しかし明治7年に完成した新道には、清水峠にお助け小屋のような設備があったとは記されていない。

 群馬側には一ノ倉沢、武能沢、白樺尾根上部に小屋があり、後に新潟側に兎平が設けられた。つまり、それぞれの小屋を出て峠に向かえばその日のうちに越えられるのであって、あえて山里から遠い峠に小屋を置くリスクを避けたものと思われる。

伊坂坂のブナに刻まれた切り付け。

 峠を越えて七ツ小屋山に向かう。前号で予告した江戸時代の峠越えが、この道であった(清水集落・阿部和義氏絵図他)。

 道は湯檜曽川に沿って、白樺尾根、蓬峠、七ツ小屋山を経て清水峠に至り、謙信尾根を下って丸ノ沢付近に達したとある。

 湯檜曽と清水に番所を置いて通行を禁じた江戸幕府だが、止むを得ない事情で許可が下りれば通行は許された。ということは、道はあるのだから、許可を得られない犯罪者でも、関所を破れば通れたことになる。

 江戸時代後期の医者であり蘭学者だった高野長英は、幕政を批判して捕えられ、後に牢屋敷の火災に乗じて破獄。6年に及ぶ逃亡の末に捕縛されるが、故郷の岩手県前沢に向かうため、群馬県中之条から直江津に越える逃亡ルートを、作家の吉村昭は、その著書『長英逃亡』(新潮文庫)で、清水越えとして描く。

色づきはじめた清水峠を後に、七ツ小屋山に向かう。三角の建物はJRの送電線監視所で、右奥に小さく白崩避難小屋が見えている。監視所の前から右手前に延びているのが旧国道で、通行不能な新潟側と違い、現代でも登山道として使われている。

 もちろん記録は残されていないため推測を免れないが、山に精通する案内人を密かに雇って峠を越え、越後の山里に至る描写は精密かつ多彩なもので、その膨大な資料収集の末の信憑性を存分に著している。

 歴史の偉人が通った峠は、河合継之助の八十里越えや、源 義経の仙北街道など多岐にわたるが、必然として通ったのならさておき、そこしかないから通ったというのであれば、ことさら峠の喧伝に使ってほしくない、と私は思っている。どのような偉人であっても、彼らは峠を彩る添景に過ぎないからである。

 ならばなぜ高野長英かといえば、義経にせよ河合継之助にせよ、峠は彼らにとって敗走の道に過ぎないからだ。

 しかし長英には、犯罪者でありながら江戸にもどって復活するという野望があった。生きんがための執念にも似た脈動である。その思いが、私に親近感をいだかせる。

 もちろん、峠の主役は庶民であっていい。峠には希望がある。さまざまな苦難を背負いながら、なお一粒の希望を胸に、人々は険しい山岳を貫く峠を越えたのである。

 古文書には、清水峠から土樽越えと呼ばれる道も記されている(『南魚沼郡誌』)。さらに昔、上杉の斥候部隊は清水峠から粟沢に抜ける古道をたどったという。粟沢は、みなかみ町の「奥利根スノーパーク」の一帯を指すが、峠から粟沢までの経路は明らかではない。

 つまり清水峠には、古来さまざまな道が錯綜して存在していたことになる。

蓬ヒュッテの夜。左が高波菊男さん。

 七ツ小屋山から蓬ヒュッテまでは、霧に覆われたアップダウンの激しい稜線の道で、清水越えの最大の山場ともいうべき道のりであった。やがて日没寸前、霧のなかから蓬ヒュッテが忽然と現れて私たちを迎えた。そこに小屋の主、高波菊男さんの懐かしい顔があった。

【参考文献:『南魚沼郡誌』大正9年発行、南魚沼教育委員会、北越新報社。ほか。】


高桑信一 たかくわ・しんいち
1949年、秋田県生まれ。作家、写真家。「浦和浪漫山岳会」の代表を務め、奥利根や下田・川内山塊などの渓を明らかにした、遡行の先駆者。最小限の道具で山を自在に渡り、風物を記録する。近著に『山と渓に遊んで』(みすず書房)、『山小屋の主人を訪ねて』(東京新聞)、『タープの張り方、火の熾し方 私の道具と野外生活術』『源流テンカラ』(山と溪谷社)など。

出典:好日山荘『GUDDÉI research』2017夏号

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