屋久島紀行【前編】 アクティビズムの潮流を訪ねる 

2022.01.10 Mon

藍野裕之

藍野裕之 ライター、編集者


〜 Nature Activism & Culture Activism  〜
「動け!」という声が聞こえた

 年末、思い立って屋久島へ向かった。

 気候変動、生物多様性の崩壊……。地球の危機の元凶は人間だというのは、もはや疑いようがない。これまでとは違った生き方、暮らし方を模索せざるを得なくなった。そこに、新型コロナウイルスのパンデミックだ。動きを封じられる中、人間は次から次に弱点を曝していった。居ても立ってもいられないという思いとは裏腹に動けない。やがて、とても健全な心を保っていられるとは思えなくなった。そして、ひとまず動き出せることになった。今しかない。新しい年を迎える前に、心と体洗い直したい。そんな心境だった。背中を押すような「動け!」という声が聞こえてしまったのだ。

 12月3日、古い型のフェリーは日の出とともに宮之浦港へ入っていった。やはり雨の島だ。船上デッキに出てみると、東の空は太陽が見えるのに、西の黒々とした森には雨が降っていた。雨は白いベールのようだった。美しく、貴重な世界自然遺産の島。それとともに屋久島はアクティビズム=運動の島だ。ネイチャー・アクティビズム=自然保護運動は、カルチャー・アクティビズム=文化変革運動と表裏一体である。両方が対になって日本各地で実践されている。その源流のひとつは屋久島だ。少し文献をひっくり返しただけで’70年代まで遡れた。そして今でも続いている。机上で活字を追うだけではなく、その胎動をわずかでも肌で感じる。そうすることで、わたしの心と体は洗い直されるはずだ、という目論見であった。

 やがて、フェリーは宮之浦港に着岸した。同乗していたのは大半がトラック・ドライバーだった。彼らの後をついて下船した。早朝のため、港の周辺の店は1軒も開いていなかった。港のはずれで雨を避けつつまどろんだ。じつは2度目の屋久島である。2014年の5月に来たときは、南端の尾之間に逗留した。そして、星川淳さん夫妻にお会いした。翻訳家、作家として知られる星川さんは、’70年代初めに行き過ぎた文明に疑問を持ち、インドの仏教老師のもとで2年修行した。その後、カリフォルニアに渡って代替技術としての適正技術を科学的に学ぼうとした。しかし、たとえばソーラーパネルだけをとっても、とんでもなく高価なことに疑問を持ち、森の中で自給自足を実践するキャンプに身を投じた。やがて、そこで学んだ自給自足の生活技術を実践する場として屋久島に移住。’82年のことだった。

 わたしは、’97年に初めて星川さんご夫婦とお会いした。予期せぬ出会いで、場所は仏領ポリネシアのフアヒネ島という小さな島だった。まだ、代表作の『地球生活』も読んでおらず、しかも日本から遠い南太平洋の島ということもあり、何かピンとこなかった。半日ほど古代遺跡が点在する丘を一緒にトレッキングしただけだが、「内なる自然」とおっしゃるのに共感はほど遠く、むしろ反発心が芽生えた。それから17年という月日がたち、あらためて星川さんに会いたいと思ったのである。

 急な申し出にもかかわらず、わたしの希望はかなった。「何か考えているの? 何かしたいの?」と問われ、「ええ」と答えた。それから『地球生活』の副題である“Our True Nature”についてお聞きした。当時のノートに星川さんの言葉が書き取られていた。
「Natureには、外界の自然ということともに、ものの本質・本性という意味もあるんです。仏教用語でいう“仏性”を英語では“Buddha Nature”と訳しています。僕は、本当の自然とは何だろうと探求の目を向けたとき、外なる自然と内なる自然の境目をなくして、ひとつにならないかと思ったんです。両方並行して本来の輝きを求めるという」
 その後に、わたしの直感も走り書きされていた。「『地球生活』は“Our True Nature=人間と世界と自然の本性”を取り戻すことがテーマの実践哲学の書だ」

 9時を過ぎて、店が開き始めたので車を1台借りた。宮之浦川に面した車屋は、奥から型は古いが4WDの軽自動車を出してきてくれた。星川さんの住む南へ再び向かいたい気持ちはあったが、真逆の北へ向かった。宮之浦から反時計回りに周回道路を白砂の美しい砂浜を眺めつた走り始めると、ほどなく北端の一湊に着いた。この集落から2キロほど山に入った白川山が詩人の故・山尾三省の暮らしの場だった。インド、ネパールの放浪の果てに屋久島にたどり着き、屋久島に骨を埋めた詩人。「地球即地域、地域即地球」という境地に辿り着いた行者でもあった。
山尾三省さんの写真はすべて晩年の三省さんと多くの時を過ごした写真家、高野建三さんによるもの。これは三省さんと安房森林軌道を歩いているときのオフショット。三省やスナイダーからも信頼されていた高野さん。写真は生前に高野さんから託されていたもの。(写真:高野建三)


 屋久島の山中に一人の聖老人が立っている

 齢およそ七千二百年という

 ごわごわした肌に手を触れると

 遠く深い神聖の木が染み込んでくる

  「聖老人」山尾三省


ときに何かを考え込むように、表情が険しくなるときもあったが、カメラを向けると表情も穏やかに。いつでも、どこからかやってくる声に耳を傾けていた三省さん。(写真:高野建三)
 東京にいた’90年代末、わたしが身を寄せていたアウトドア出版界の片隅でも三省に関連した本の刊行があった。星川さんとお会いしたのも同時期で、同じように反発していた。とりわけ三省を取り上げる編集者には食ってかかった。’60年代末から’70年代初頭に青春時代を過ごした男。わたしより10歳ほど上。彼が三省や星川さんを引き合いに出しながら発した「ビート詩人」「ヒッピー」「カウンターカルチャー」「ニューエイジ」といった言葉、それに伴う言説の数々に違和感を覚えたのである。何故30年も前の革命の論理を再び持ち出すのか。三省らへのカリスマ主義で、「内なる自然」「聖なる自然」を多用し、現実的な自然保護よりも精神的な自然とのつながりを重視した。反発は解消されない溝を生み、惹かれていながら会う機会を逸したまま三省は2001年に亡くなり、その編集者は流浪の果てに南伊豆を住処とし、2021年3月に70歳で死んだ。「彼らしい晩年だった」と人づてに聞いた。

 わたしは東京で生まれ、東京で仕事をしてきたが、5年前から京都で借家暮らしをするようになった。そして、京都学派の碩学を囲む午餐会、高名な僧を囲む寺の夜会、芸術家たちの退廃の会と、東京にはないサロン文化に浸り続けてきた。文芸は京都の弱み。これだけ学術、芸術、信仰が幅をきかせていれば当然か。京都の市中は狭い。狭ければ人のぶつかり合いは増す。敵対は度を越すと大変なことになる。サロンは密会の場。敵対を避けるニッチである。山も逃げ場所、隠れ場所だ。京都は山が町から近い。いつでもひとりになれる。山尾三省も京都で学んだ。ビート詩人、ゲーリー・スナイダーと一緒に学んだ。



 木星は 坐禅が

 終わる頃には もう半分まで

 昇っている 鳩の鳴き声が

 弓音のように 甲高く震える。

 夜の引き明けには、比叡山の

 頂きは 粉を振りかけたみたいに白い。

  「京都 三月」ゲーリー・スナイダー

 一湊には長居をしなかった。白川山へ向かうこともしなかった。

 何故だろうか。自分でもよくわからないが、まだ早いと思いとどまったところはある。ただ、2021年は山尾三省の没後20年の年で、こんな声を聞いていた。

「今やっと、三省さんの時代が来た。三省さんがかつて語った言葉に真摯に耳を傾け、それをひとりひとりが実行する時代になった。そう心から思う」(山尾三省『アニミズムという希望』解説)

「三省さんとかつて日本で活動をともにした米国の詩人ゲーリー・スナイダーは、その後、カリフォルニア州のシエラネバダ山中に住み、バイオリージョナリズム(生態地域主義)を実践し始めた。三省さんと同じように、好きな土地を決め、その土地を構成するすべての生き物と共生するコミュニティーをつくり上げようとする活動だ」(共同通信2021.4.25配信)

 前京大総長の山極壽一さんである。山極さんは、かつてわたしが歯向かった編集者と同世代だ。

 ゴリラの研究で知られる山極さんだが、それに先行してニホンザルの研究があり、ある時期はヤクシマザルとゴリラを並行して研究していた。山尾三省が屋久島の廃村に暮らし始めたのは’77年。山極さんは、その前年からヤクシマザルの調査を始めた。当時、京大サル学は大きな転換期にあった。野生の群れを追わなくてはサルのNature=本性に迫れない-−。餌付け群から野生群への転換。餌を撒いてサルをおびき寄せるのではなく、人間が森に入り込み、サルに受け入れられるように、あるいは近づいても無視されるようにする人づけという方法へのシフトである。

 2年かけて下北半島から日本列島を縦断してきた山極さんは、屋久島にたどり着き、照葉樹林で野生のヤクシマザルに出会った。そして、「美しい」と見惚れた。やがて、山極さんは仲間と屋久島の西端の集落、永田に家を借りて住み始めた。当時すでに、「屋久島を守る会」があったという。屋久島への移住を望んでいた三省を迎え入れたのは、「守る会」の島民活動家たちだった。やがて、彼らの開く勉強会に、山極さんたち京大の若き研究者、あるいはその卵たち、そして三省も加わるようになっていったのである。
白川山の集落で若者と語る三省さん。畑を耕し、薪で風呂を沸かし、暮らしのなかにも神と呼ぶものを見出していた。(写真:高野建三)


  わたくしは ここで夢を起こす

  無言で畑を起こす一人の百姓が 一人の神であることを知り

  無言で材を切る一人の大工が 一人の神であることを知り

  無言で網を引く一人の漁師が 一人の神であることを知り

  わたくしもまた 神々の列に加わりたいと思う

  「夢起こし−地域社会原論−」山尾三省

 本人もそれを後年知って驚いたようだが、じつは、屋久島で出会う以前に山極さんと三省は接点があった。山極さんは幼少期から高校卒業まで東京の国立で過ごした。国立と国分寺は目と鼻の先だ。国分寺には「ほら貝」というロック喫茶があった。’67年にできたそうだが、その初期の運営の中心人物が三省だった。この「ほら貝」に高校紛争の只中にあった山極さんは出入りしていたという。当時はまだ三省は詩集を出しておらず、「部族」という同士の集まりに加わり、自給自足の暮らしを模索していた。「部族」という名を勧めたのはスナイダーで、三省たちは同士たちとの共同体を「コミューン」と呼んだ。「ヒッピーの人たちはヒッピーっていわれるのを嫌がるんだよね」。三省の没後20年を記念した京都の集まりで、車座の談義が盛り上がる中で山極さんは笑った。

 一湊を出て、その西ふたつ目の集落である永田に向かった。屋久島には1800mを超える山が8座ある。みな、島の中央部に聳えていて他の沿岸部からはどの山の頂上も見えないが、永田だけは別だった。集落はもとより海岸からも屋久島第2位の高峰である永田岳(1889m)の山頂まで一望できる。しかし、雨雲に覆われて見えなかった。集落にはたった1軒だけ冬場営業をしている民宿があった。そこが今回の逗留場所であったが、まだ時間が早かった。

 わたしは山腹から流れ出る永田川に添い、河口に向かって歩いた。海に近づくと川は大きく北に湾曲し、海側に砂が大量に溜まって巨大な堤防のようになっていった。重機が入った痕跡を見てとれたので、人工物だと思ったが、たまたま行き合った永田の人に訪ねると天然の砂溜まりなのだという。大量の雨の成せる技なのか。砂は白く海は紺青だ。そして高度を増すほどに亜熱帯、暖温帯、亜寒帯へと変わっていく山肌に黒々と樹々が生茂る。圧倒され、しばし立ち尽くした。その後、周回道路をさらに走った。島を1周して再び永田に戻ったのは陽が落ちてからだった。

藍野裕之

藍野裕之 ライター、編集者

(あいの・ひろゆき)1962年、東京都生まれ。文芸や民芸などをはじめ、日本の自然民俗文化などに造詣が深く、フィールド・ワークとして、長年にわたり南太平洋考古学の現場を訪ね、ハワイやポリネシアなどの民族学にも関心が高い。著書に『梅棹忠夫–限りない未知への情熱』(山と溪谷社)『ずっと使いたい和の生活道具』(地球丸刊)がある。

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