- 旅
#1 アメリカに飛び立つ渡り鳥。クレイジーでハートフル、ぼくだけのパシフィッククレストトレイル歩き旅
2022.12.09 Fri
Daisuke Ito ハイカー、アウトドアライター
北の大地へ想いを馳せて
2022年5月13日。ぼくの120日にわたる物語が幕を開ける。
◇
「相棒! 見えてきたぞ!」
カラカラに乾いた空気に包まれた灼熱の大地にひっそりと、しかし堂々とそびえ立つ無機質な石碑を見つけ、ぼくたちは興奮気味に目を合わせた。
「ブランドン! いよいよはじまるな。お互い最高の旅にしようぜ!」
ぼくは慣れない英語で彼と、そして自分自身を鼓舞し、熱いハグを交わした。
相棒といっても彼と出会ったのはほんの数時間前。ぼくたちがめざす “ある場所” に向かうバスの中で偶然にも知り合った。こんなかんたんに他人同士が “相棒” と呼び合うなんておかしいだろ? それもこの場所がもつ特別な魔力なのだろうか。
ブランドンとぼく、そして乗り合わせた地元のお姉さん。
ここはガイドブックに載っている有名な観光地でも、知る人ぞ知るパワースポットでもない。言葉通りなんの変哲もない、探せばどこにでも見つけられそうなただの石碑だ。
ただ、ある種の変わり者たちにとっては、とてもとても大きな意味を持つ場所である。まるでどこか異世界との境界線のように、大きな柵が設置されているこの場所はアメリカとメキシコの国境地帯。そんな場所にそびえ立つこの石碑はこれまで、世界中から集まる旅人の、数えきれない物語のはじまりを見届けてきたにちがいない。
アメリカとメキシコの国境に設けられた巨大な柵。
通称、サウザン ターミナス(Southern Terminus)。
メキシコ国境からカナダ国境までを結ぶ長距離自然歩道、パシフィック・クレスト・トレイル(Pacific Crest Trail。略称PCT)の南端、つまりはスタート地点である。旅人たちはこの地から、想像もつかないほど遥か遠くの終着点に想いを馳せ、およそ半年間もの時間をかけ、山々を歩いて旅をする。
なんの話だよとツッコミが飛んできそうだが、ロングトレイルと聞けばピンとくる人もいるのではないだろうか。
山から街へ、街から山へ ── 。衣食住を背負ってただひたすら、みずからの足で歩き続ける。そんなマニアックで一見ストイックな山旅がこの世には存在し、一部の旅人たちを魅了している。
近年、登山界隈でもよく聞くようになったウルトラライト(UL)は、こんなロングなトレイルを歩き切るため、先人たちが取り入れた手法のひとつである。
パシフィック・クレスト・トレイルにあるサウザンターミナス。
“ロングトレイル” というだけあって総距離はなんと4,265㎞にもおよぶ。
サボテンが自生するデザートエリア、米国本土最高峰のホイットニー山を有するシエラネバダ山脈、岩稜帯と残雪のコントラストがすばらしいワシントンのカスケード山脈と、いろどり豊かな地形を渡り歩く。
1930年代に提言されたこのトレイルは、1968年にアメリカのナショナル・シーニック・トレイル(*)として整備されて以来、多くのアウトドア愛好家によって踏み固められた歴史あるトレイルである。
(*) ナショナル・シーニック・トレイル(National Scenic Trail)とは、アメリカで1968年に制定された国立トレイル法(National Trails System Act)によって指定されたトレイルの種類のこと。Scenicとあるとおり、自然のうつくしさを楽しむためのトレイル。
カリフォルニア、オレゴン、ワシントンと3州を通過するロングトレイル。
そんなトレイルのスタート地点に、衣食住を無造作に詰め込んだ、15㎏はゆうにこえているであろうバックパックを担ぎ込み、ぼくは辿り着いた。日本から8,000㎞以上も離れた辺境な場所だが、ここが旅のスタート地点。
貯金、入国ビザ、退職、パンデミック。そして自分のこころ。
バラエティーに富んだハードルを乗り越え、ぼくの中で膨らんできた夢が現実になるとき、思わず涙が溢れてしまうのではないかとも思っていた。だが、現実のぼくは妙に落ち着いていたことを、いまでも鮮明に覚えている。落ち着いていたというより、頭が現実に追いついていないと表現したほうが正しいのかもしれない。
ろくに下調べもせず、自分のこれからをイメージできずにこの場所に立っていたこともひとつの要因だろう。
「そんなので大丈夫なのか?」
「山旅は計画が第一だろ!」
そんなお叱りの声が聞こえてきそうなものだが、なにしろ行程が長すぎて細かい計画なんて立ててられない。みずから道を切り開いていくしかないし、そうするだろうと自分を信じてあげることにした。
苦難は旅のアクセント。全部計画通りじゃおもしろくないだろ?
ターミナスと僕とバックパック。いよいよ夢が現実となる。
サウザンターミナスでレンズ越しに風景を切り取っていると、いつの間にか相棒(?)のブランドンの姿は見えなくなっていた。まぁ、いっしょに歩こうと約束したわけでもないので当たり前だ。
旅人ってやつはどこまでも自由だな。最高じゃないか。
舞いあがった砂埃をかぶりながら、到底、見えるはずもない遥か彼方のカナダに向かって、ぼくは北へとゆっくりと進みはじめた。
幾千の山を、街を、そして季節を。それはまるで渡り鳥のような、ぼくの旅はいまはじまった。
この道をずっと辿っていけばカナダへ行けるのだ。夢があるでしょ?
灼熱地獄と己の欲望
1日目の目的地は30㎞ほど先のレイクモレナ(Lake Morena)という湖の近くにあるキャンプグラウンド。近くに売店が併設された大きなキャンプ場だが、トレイルを歩くハイカーが格安で泊まれるサイトがあるそう。
バスの都合で昼過ぎの出発となってしまったぼくは、やや急ぎ足で先をめざしていた。おどろくことにキャンプ場までの区間に水場はないので、なんとしてでもそこに辿り着かなくてはならない。
「それにしてもなんて暑さだ……。こりゃヤバいな……」
ひどいときは40度をこえる南カリフォルニアの砂漠地帯。日本のそれとはくらべものにならないほどの暴力的な日差しが容赦なくぼくに襲いかかる。
水を飲もうとバックパックからペットボトルを取り出すと、それはぬるま湯と化していた。なんてこった。
「コーラ……アイス……シェイク……」
これから続いていく旅の妄想など、とうの昔に頭の引き出しにしまい込み、己の欲望に頭の中は支配されていた。
こんなサボテンが所々に。キレイなのだが注意しないと針が足に刺さってしまう。
15㎞ほど歩いたところだろうか。ちょうどいい──いや、地を這えば休憩できるような小さな岩かげを見つけたので、そこでひと休みすることにした。
ここは砂漠地帯。大きな木々など存在しないので日陰を探すのも一苦労なのだ。
「暑ぅぅ〜。コーラ……アイ……」
あかんあかん、もうこのくだりはお腹いっぱいだろう。
仕方なく飲みたくもないぬるま湯を口にふくみ、カラカラのミックスナッツをカラカラの喉へむりやりに放り込んだ。
旅はまだはじまったばかり。果てしないな……。
あたりが明るいので気がつかなかったが、ふと時間を確認するともう16時をすぎているではないか。このペースで歩くと到着は21時くらいになりそうだ。
「まぁ、多少のナイトハイクは仕方ないか〜。……待てよ?」
ある不安がぼくの頭をよぎる。
「キャンプ場の売店って何時までだ?」
これまで頭の中を支配してきた “冷たいコーラ” 。それが歩きつづけるモチベーションのひとつになっていたことは言うまでもないだろう。
ポケットからスマホを取り出し、急いで地図アプリを開いた。
《OPEN From 7a-9p》
「ギリギリじゃないかぁぁ……。でもやるっきゃない……!」
心に覆い被さっていた “辛い” というモヤを晴らし、夢中で、そして一心不乱に歩きはじめた。
人間とはおもしろい生き物だ。同じことをしていても、心のもちようひとつで体の動きも頭の中もまるっきり別物になる。
なんてもっともらしいことを言ってみたが、たかがコーラに釣られているだけ。しかし、このときのぼくにとっては「されどコーラ」なほど乾き切ってしてしまっていた。
一日中、ぼくを照らし続けた太陽は山の奥へと身を隠し、次第にあたりが暗くなってきた。時刻は20時を少しまわったところ。残り1㎞ほどで目的地のキャンプ場へ到着する。
不純な動機の追い上げもあり、無事に時間内に到着しそうだが、最後の1㎞ってなんでこんなに長く感じるのだろう。この気持ち、登山をする人は共感してくれると思う。
夕焼けとレイクモレナのコントラストが美しい。
トレッキングポールをバックパックにしまい、小走りで売店に駆け込んだぼくはさっそくコーラを手に取り、足早にレジへ向かった。
「いらっしゃい。君はPCTハイカーかい? 今日は暑かっただろう」
「そうなんだよ。もうこの瞬間が待ちきれなかったよ」
「ハハハ。そうだろうね。今日はゆっくり休んでいきなよ」
店員のおじさんとかんたんな挨拶を交わし、ついに待ち望んだ瞬間が訪れた。
「ぐびっ、ぐび、ぐびっ……」
まるで口の中から胃袋まで、なんの遮りもない真っ直ぐな管が通っているかのように、コーラが一気に流れ込んだ。飲んでいるというよりは吸収しているといった表現が正しいと思う。それほどまでにぼくの体は枯渇していた。
人生でいちばんおいしかったコーラと客のお兄さんのおすすめビール。
クールダウンしたのち、受付で料金を支払い、ハイカーサイトへと向かった。
大きなキャンピングカーを横付けし、ワイワイと焚き火を囲んでいるファミリーサイトとは異なり、静まりかえったハイカーサイトはすでに10数張のテントが張られていた。ヘッドライトでほかのテントを照らさぬよう適当な幕営地を確保し、パパっとテントを設営。時間も遅いので早速、夕食の準備をすることにした。
歩くことに夢中で気にとめていなかったのだが、夕方あたりから少しフラフラとしていた。
「あまり食べてなかったからエネルギー不足だろう」
そう思ったぼくは食料袋からインスタントラーメンを2袋取り出し、おもむろにクッカーの中に放り込んだ。ちなみにインスタントラーメンはアメリカでも大人気の安い、うまい、早いの3拍子揃ったトレイルフードである。
しばらく火にかけるとフタがカタカタと踊り出したので、リフターを使ってクッカーを持ち上げようとしたそのときだった。
「カクッ、ガッシャァーーン!!!」
みなさんお分かりだろう。ぼくの大事なラーメンはカリフォルニアの大地にダイブしていった。
「嘘だろ。いままでこんなミスしたことないのに……。もうイヤだ……」
あらためて調理する気力もなく、手持ちの食料も限られるので、水でラーメンをササっと洗い流してそのまま口に放り込んだ。記念すべき初日のディナーは素っ気ない味わいの汁なしラーメンだった。
……言葉も出ない。
「あぁ、もう動きたくない。なんか吐き気もしてきたし……」
ふだんはテントの中で軽いストレッチや翌日に歩くトレイルの確認をするのだが、このときはそんな余裕もなく、テントの中にバタバタっと倒れ込んだ。
エネルギー不足かと思っていたが、ネットで調べるとどうやら熱中症っぽい。
「こんなのが半年も続くの……?」
はたしてこんな毎日に耐え続けられるのだろうか? そんな不安に駆られながらも瞼は重力に逆らえず、旅の1日目は幕を閉じた。