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ホーボージュン香港バックパッキング後編「森の驟雨と摩天楼」

2016.05.02 Mon

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ホーボージュン

ホーボージュン 全天候型アウトドアライター

Photo by Yuriko Nakao

日本もその一部である「アジア」を眺めてみると、
じつはまだまだ知られていない魅力的なトレイルが方々に……!
世界中を歩きめぐってきたサスライの旅人ホーボージュンが
そんなアジアへバックパッキングの旅へ出た。
前編に続き、一カ国目後編は香港のトンガリ山をめざす!

 

雨季の始まり
 目が覚めるとどしゃ降りだった。バケツをひっくり返したような、なんて形容ではてんで足りない。プールをひっくり返したようなひどい雨だ。

 しかたなく僕は出発を延期し、しばらく海風ストアで雨宿りをすることにした。

 海風ストアには20人ほどのハイカーが雨宿りをしていたが、みんなはのんびりチャーハンを食べたり、トランプをしたりしていた。彼らにとってはこんなの日常茶飯事なんだろう。

 僕はとなりのテーブルにいた若者グループに声をかけ、この先のトレイルの状況を聞いてみた。すると予想外の答えが帰ってきた。ステージ2も全面が石畳の舗装路なのだそうだ……。

「ここから北潭凹(パクタンオウ)までずっと舗装なの?」
「うん。ステージ2は階段もなくて全部スロープになってる。だから車椅子の人も気軽に遊びにこれるんだよ」
「へえ、それは素晴らしいね……!」

 口ではそう答えたが、僕はめちゃくちゃがっかりしてしまった。わざわざこんなところまで来て「遊歩道」を歩くなんて冗談じゃない。足元の登山靴が、背中の大型パックが泣いているぜ。

「じゃあ、こっちのトレイルはどんな感じなの?」

 僕は地形図を出し、シャープピーク周辺の登山道の様子を聞いてみた。

「えっ?シャープピークに登るの?」
「うん。そのつもりだよ」
「僕らも登ったことあるけど、こんな雨じゃとても無理だよ。頂上直下はすごくスリッピーで雨が降るとヌルヌルの川みたいになるんだ。これから天気はどんどん悪くなる。絶対にやめておいたほうがいい」

 まわりのハイカーもそうだそうだと口を揃える。雨はますます強くなり、遠くで雷の音がしていた。無理はできない。残念だけど今回はあきらめるほうがいいかもしれない……。

 暗い気持ちで1時間ほど待機し、雨足が弱まったところで再出発した。まあいいや。とにかく先に進んでみよう。

 遊歩道をトボトボと歩き出す。まわりは熱帯雨林のジャングルで視界が悪く、風がまったく通らない。ねっとりとした空気が身体にまとわりつき、レインジャケットがべったりと張り付いた。なんというか、ひとことでいうと「サイアク」な気持ちだった。
マクリホーストレイルのステージ2は全面が舗装整備されているため、香港市内から多くのハイカーが訪れる。大型パックを背負った登山者から傘をさした観光客までスタイルもさまざま。どしゃ降りの雨のなかをみんな楽しそうに歩いていた
 トレイルの脇には朽ち果てた廃屋が点在し、家具や電化製品などが無造作に転がっていた。香港がイギリスから中国に返還されることが決まったときに、このあたりの人は村を捨てイギリスに渡ったらしい。自由と繁栄を求めて本土から移り住んだ移民にとって中国共産党の影はきっと怖ろしく大きく見えたのだろう。

 そんなことを考えながら歩いていたら、とつぜん巨大な黒い影が僕の行く手を塞いだ。

「うわああああああ!」

 思わず飛び上がる。なんとそれは牛の群れだった。ぜんぶで10頭ほどだったが、せまい遊歩道を塞ぐようにしてノッシノッシとこちらに歩いてきた。

 僕は牛たちを刺激させないようにソオッっと道の脇によった。そのときだ。大きな雄牛が首をもたげ、正面から僕を睨んだのである。

「いやいやいやいや僕なにもしませんから。僕こうみえてもベジタリアンなんです。牛丼とかステーキとかビーフストロガノフとかぜんぜん興味ないし、いままで1回も食ったことないんです」

 しかし雄牛はじっと僕をにらみ続けている。ヤバイ。ロックオンされている。そしてハッと気がついた。僕は派手なオレンジ色のレインジャケットを着ていたのだ。

「いやいやいやいやセンパイ落ち着いて下さいよ。これは威嚇とかそーゆうんじゃなく、ほら、この雨でしょ?いくら南国だっていってもTシャツ1枚じゃ風邪引いちゃうじゃないすか。人間なんてその程度のよわっちー生き物ですよ。はははは」
 
「ンモオオオオーーーーーー!」

 巨大な雄牛が密林じゅうに響くような大きな鳴き声をあげた。ひええええええ~!思わず走り出しそうになったがグッとこらえた。牛でもクマでも野犬でもそうだが、相手に背中を見せて逃げるのが一番まずいのだ。
好奇心旺盛な仔牛がじゃれついてきた。鼻面を拳でゴシゴシ撫でてやると「もっともっと」とすり寄ってくる。動物の子どもはやっぱりかわええのお
 お願いですから落ち着いて下さいパイセン。僕は必死で牛をなだめながらなんとか群れとすれ違った。僕はてっきりこの牛は放牧されているのだと思っていたが、じつは農地放棄した農民が捨てていった牛が野生化した“ノラ牛”だそうだ。どうりで角を切ってないんだ。
僕が訪れたのは雨季の始まりで毎日雨が降った。森の中には小さな赤いカニがたくさんいた。森と海が交わる汽水域に棲息する独自種で、日本のアカテガニに似ていた

 ノラ牛たちと別れると僕は細いトレイルを歩き続けた。いつの間にか雨は止みあたりは少し明るくなっている。やがてトレイルは峠に差しかかり木の間からシャープピークが見えてきた。

「あ、トンガリ山だ……」

 それは海岸から見上げたときよりもずっと尖って見えた。麓で見た時には遠い稜線に三角の帽子が乗っているようにみえたが、いまはその三角形が僕の視界のど真ん中に陣取り、急峻な斜面を見せつけている。かっこいい。めちゃくちゃかっこいい。まるでツェルマットから見るマッターホルンみたいだった。

 やっぱり登りたい。僕は強くそう思った。頂上直下の急登は確かに荒れていたが、登れないという感じじゃない。

 僕は地形図をもう一度確認し、頂上までの時間を推し量ってみた。たぶん片道1時間もあれば大丈夫。あとは天気次第だ。南の空を確認する。昨日から雲はずっと南から流れてきている。風がやってくる方角を見るともう黒い雨雲は霧散し、晴れ間が広がっていた。よし大丈夫だ。

「行くぞ!」

 僕は舗装された遊歩道を離れ、岩だらけの登山道へと道を踏み外した。ぬかるみでビブラムソールが滑るが、その感触がなんだか嬉しい。足元でトレッキングブーツが笑っている。やっぱりトレッキングはこうじゃなきゃ。僕はズンズン歩き続けた。

シャープピークから海を見渡す

 登山道は踏み跡がハッキリしていて迷う心配はなかった。峠から50メートルほど登ると森林限界が訪れ、視界がグッと広がった。

 登山道のところどころに警告の看板が立っていた。中国語と英語で、この先は急峻な山岳域でありトレイルは整備されていない、体力と経験のない者は引き返すようにと警告してある。おそらく観光客が軽い気持ちで入ってくるのを防止するものだったが、それは正解だった。

 ピークまでは2カ所の急登があり、なかには手を使って登るような場所もあった。鎖やロープを張るほどではないが、転落したら大怪我をする。初心者や登山未経験者にはかなりの難所だ。
頂上直下の急登は両手を使ってよじ登るなかなかハードなセクションだった。地元ハイカーの言うとおり雨が降ったらぬかるんで大変だろう
 それでも登山は楽しかった。登れば登るほど視界が広がり、どんどん増してくる高度感が僕をワクワクさせた。登り始めて1時間後、僕はシャープピークの山頂に立った。

 ここから見渡す景色のすごさったらない。

 360度視界を遮るものは何もなく、眼下には流れる雲、そしてその下には青々とした熱帯雨林が広がり、そのベルベットのようなジャングルは白砂のビーチとグリーンの海へと繋がっている。

 ぐるりと視線を西に向けると緑の山の連なりがずっと奥まで続いていた。のたうつように続く稜線は、まるで龍の背骨のように見える。海から吹き付けられた風は山肌に当たると雲になり、白い帯となって山を駆け上がった。そして山の鞍部を乗り越えるとスルリと谷へと降りていく。それはまるで龍の背中に乗って遊ぶ精霊のようにも見えた。

 まさか、ここが香港だなんて……!

 僕は夢をみているような気持ちになった。ここがあの超過密都市香港だとはどても信じられなかった。それとも昨日まで自分がいたあの雑踏が夢なのだろうか。

 雄大な緑色のウネリの中にベージュ色のトレイルが続いていた。そのトレイルはどこまでもどこまでも続いていて果てることがなかった。いかにも大陸的な、悠久を思わせる光景だった。

 多島海を望む東南アジアらしい光景と、大陸的な光景がいりまじって、なんとも言えない雰囲気を醸し出していた。

 あまりの絶景に僕は1時間以上も山頂にいた。この間に何回か驟雨がやって来たが、火照った身体にはちょうどいいシャワーだった。遠くでときどき雷が轟いた。でも標高が低いせいか、それとも南国独特の匂いのせいか恐怖感はあまりない。僕は悪天候を楽しんでいた。まるごと全部楽しんでいた。
シャープピークからはたくさんの島々が見渡せた。香港が230以上の島の連なりで成り立つ海洋都市なのだということが改めて実感できる

恐怖の吸血蚊
 この日のキャンプサイトに着いたのは、日没ギリギリだった。入り江の奥にある公設キャンプ場は風が抜けずジットリと湿っていた。芝生のグランドにはあちこち大きな水たまりがあり、水たまりのない場所にはノラ牛の巨大なフンが鎮座していて、テントを張れる場所は限られていた。僕は川端のなるべく水はけのよさそうな草の上にテントを張った。

 最後のペグを打ち込んだとたん、ふたたびスコールに襲われた。慌ててテントに潜り込む。バラバラとフライシートをたたく雨粒が小豆のように大きい。
2日目のキャンプ地は小さな湾の奥にひろがる樹林帯を切り開いた公設キャンプ場。風がなく蒸し暑い夜だった
 テントの中は熱気でムッとしていた。Tシャツがべっとりと肌にまとわりつく。耐えられずにパネルを開けたら大量の蚊がテントに入ってきた。あわててドアパネルを閉め、テント内の蚊をたたきつぶす。メッシュ越しに外をみたらフライシートの内側に何十匹もの蚊がぶら下がっていた。うげー。こいつら俺のテントで雨宿りしてやがる。どうやらサイアクの場所にテントを張ってしまったようだ。
バルトロ65のウエストポケットは防水性の高い構造になっていて、ハンディGPSなどの電子器機も入れておける。雨季のアジア放浪にはとてもユースフルだ
 ……それにしても今回はドームテントを持ってきて大正解だった。じつは最初は軽量化のためにタープかワンポールテントにしようと思っていたのだが、こんなジャングルでタープ暮らしなんかとても無理だ。地面はズブズブだし、まわりは蚊やブユだらけだ。
マクロレンズを持って森の中に入るとさまざまな命の営みを見ることができ、いつまでも飽きることがなかった
 昼間の疲れが出たのか、僕は知らない間に眠ってしまっていた。雨はずっと降り続いていた。僕は夢を見ていた。大きな白いドラゴンに乗って空を飛ぶ夢だった。眼下に雲海が広がり、ときおり雲が切れるとその下に香港の摩天楼が見えた。街のネオンがとてもキレイだった。

 その時だ「キーン」という高周波が右耳の奥に聞こえた。

「うわああああ!」

 慌てて飛び起きた。耳の奥にナニかがいる! 慌てて指をツッコミかき回す。ピーピーピーと鼓膜のそばで高周波が暴れていた。なんだなんだなんだなんだ! ちょっとパニック気味に指をかき回し、そのあと犬のように首をブルブル震わせたら、その高周波はどこかへ消えた。うううううう。僕は枕元のヘッドランプをたぐり寄せ、スイッチを入れて仰天した。

「なんじゃこりゃ!」

 テントの天井一面に、ゴマ粒ほどの小さな虫がびっしりたかっているのだ。それは極小サイズの蚊のような、ブユのような羽虫だった。コイツか? 俺の耳に入っていたのは。コイツらはどうやら通気口のメッシュの隙間を通ってきたようだった。

「こぬやろー!」

 夜中に起こされたいらつきで僕はそのゴマ粒にビンタを食らわせた。するとベージュ色のテントのインナーにべったりと血が付いたのである!

「うわあああああ~!」

 予想外の展開に僕はビビった。こいつら血を吸ってやがる!いったい何の血だ?俺の血なのか?

 慌てて確認してみると、両手両脚にビッシリ赤い斑点がついていた。それはじんましんを起こしたように広範囲に渡っていたが、とくに痛くも痒くもない。

「くぬやろう!!!」

 僕は逆上し、ゴマ粒を片っ端からぶっつぶした。ベージュのインナーテントがみるみる血で汚れたが血を吸われた怒りは収まらない。とにかくつぶした。真夜中の大虐殺だった。

「はあはあはあはあ」

 ゴマ虫を殲滅したことを確認すると、僕はバックパックから細引きを取り出し、通気口のメッシュパネルをグリグリと縛り上げた。これでもうノミ一匹だって中に入れない。ざまあみろ。肩で息をする。しかし本当の地獄はここからだった。

 とつぜん全身が痒くなった。赤い斑点の一粒一粒が猛烈に痒いのだ。表面だけでなく肉の奥の方まで痒い。うぎゃああああああああ! 狂ったように掻きむしった。爪を立ててガリガリ擦る。掻けば掻くほど局所は熱を帯び痒みが増した。汗が噴き出し、掻きむしった肌に汗が沁みる。それがまた痒みを増幅させ、僕は発狂しそうだった。パプアニューギニアからアラスカまで世界のあらゆる原野で蚊に刺されてきたが、こんなに強烈なのは初めてだ。

 あとで調べてわかったことだが、これは台湾や南シナ海沿岸で「小黒蚊」と呼ばれている蚊(あるいはその仲間)のようだった。特長は蚊に独特のあの羽音がしないことと、刺されても痛みがなくまったく気付かないこと、そして刺されてから数時間後に突然猛烈な痒みが発症することだ。つまりひとことでいうと「最低最悪の吸血鬼」なのである。その後寝ている間もずっと掻きむしっていたらしく、朝起きると爪の間が血だらけだった。

 いやあ、アジアの密林恐るべしだ。

颱風がやってくる?

 3日目もまたテントを叩く雨音で目が覚めた。しばらくじっとしていると雨は止み、こんどは蝉の大合唱が始まった。そうかここでは4月にもう蝉が鳴くのか。そんなことを考えていると、それにカエルと鳥の声が重なった。亜熱帯の朝はいつも賑やかだ。
 
 朝メシを食いながらiPhoneで天気予報をチェックする。香港気象台のホームページに飛ぶと、トップページが真っ赤になっていた。赤い極太のゴシック体で「雷暴警告」と書いてある。

天文台在4月11日上午6時50分發出之雷暴警告、
有効時間延長至今日上午10時正、
預料新界有幾陣狂風雷暴。
預料高達毎小時70公里或以上的陣風吹襲香港。

 なんじゃこりゃ。よくわからんがヤバそうだ。「狂風雷暴」とか「陣風吹襲」とか字面からしてオソロしい。

雷暴發出時、請採取以下預防措置:
1.留在室内。在室外的人士應進入建築物内。
2.堤防猛烈陣風吹襲。留心被飛散或墜落物件擊中。
3.在高速道路或天橋上的駕車人士應減低車速。

小まめに香港気象台のHPをチェックし毎日の山行計画に役立てた。た。この日は低気圧の接近で判断がとても難しかった
 むーん……。とにかく室内で大人しくしていろってことか。各エリアの予想風速が掲載されていたが、青州は風速40メートル、赤柱は風速32メートルとなっている。おいおい完全に颱風レベルじゃないか。

 でも西貢は北風4メートルの予想になっていた。香港という狭いエリアでこんなにも数値が違うのがどういうことなのか僕にはまったくわからなかった。竜巻みたいなもんだろうか?

 ジャッジが難しかったが、とりあえず歩き始めることにした。ステージ2と3の中継点である北潭凹(パクタンオウ)という峠まで歩き、そこでもう一度天気予報をチェックしてみよう。

 本音をいうと僕は多少天候が荒れようと早く山に入りたかった。整備された道を歩くのはつまらなかったし、密林で蚊につきまとわれるのにもウンザリしていた。ここではほんの数百メートル上がるだけで雲海の上に出られる。そこには涼しく爽やかな風が吹き、不快な吸血虫もいない。

 辿り着いた北潭凹には立派な道路が通っていた。バス停の横には日本の公園並みのキレイなトイレと水道設備があり、なんと自動販売機まで設置されていた。

「やったー!」僕は自販機に駆け寄った。自販機では冷えたコーラやアクエリアス、マンゴージュースや中国茶が売られていた。もう喉がカラカラだ。僕はパックから財布をとりだした。ところがどっこいぎっちょんちょん。コインの投入口が金属パネルで塞がれていて、そこにはこんなプレートがかかっていたのである。

「只限八達通付款・Octopus Only」

 がびーーん。またもやオクトパスカードか……! しかたなく僕は水道の水を飲んだ。そして次に来る時には絶対に「ピッ!」としてやるぞと、固く決意をしたのだった。

ステージ3へ突入

 山にはガスが立ち込めていたが、さいわい狂風も陣風も吹いていなかったので、僕はそのままステージ3に突入することにした。この区間は3つのピークを踏む本格的な縦走コース。森の中と稜線歩きが交互に訪れ、変化に富んで面白い。晴れたらきっとスペクタクルな光景が楽しめるのだろうが、あいにくこの日はずっと濃い霧が立ちこめていて展望はなかった。

 この日のメインイベントは「地獄の底」と呼ばれる谷の登り返しだった。雷打石(ルイタシェ)から雞公山(カイクイサン)向かう途中でトレイルはいったん深い谷底へと降りる。そのその降り口で正面に雞公山の急斜面が一望できた。

「もしかしてアレを登り返すの??」
正面に見えるのが雞公山(カイクイサン)。このあと「地獄の底」と呼ばれる谷底まで降りてあの斜面を登り返すのだ
 雞公山はここからみると壁のように見えた。しかもいまからいったん谷底まで降りて、ひたすら登り返さねばならないのだ。登山ではこういう状況が一番つらい。登りのしんどさならいくらでも耐えられるが、これまでコツコツと積み上げてきた高度をみすみす捨てるのは精神的にダメージが大きいものである。なぜここが地元ハイカーに「地獄の底」と呼ばれているのか、僕にはよく理解できた。
歩き疲れたり、景色のいい場所を見つけたらそこでコーヒーブレイクにした。好きな場所でメシを食い、好きな場所で眠れるのがバックパッキング旅のいいところだ
 難関を前に僕はいったんここで休憩をすることにした。お湯を沸かしコーヒーを淹れる。ミカンの皮を剥き、クッキーを頬張る。バックパッキングの旅は衣食住のすべてを背負って歩いている。だから休憩も野営も自分のペースで組み立てられる。それがバックパッキングのいいところだ。

 「地獄の底」を歩き終えて辿り着いた雞公山は残念ながら視界ゼロだった。それなのに山頂に着いたときの達成感はすごかった。標高なんてたったの399メートルなのに。この時僕は思ったのである。登山というのは高度で計れるものではない。それはタマシイの高鳴りで計るものなのだ。

 むーーーん。いいこと言うな俺。
雞公山の頂上でニワトリの物まね。ちなみに中国ではオンドリは「ウォウォ」、メンドリは「グーグータ・ググタ」と鳴くらしい

 雞公山からステージ3のゴールまでは長い長い尾根の下りだった。膝を痛めないように気を付けながら僕は淡々と降りていった。その途中で路傍の石にペンキでかかれたこんな落書きを見つけた。

山行急走六七時
一鼓作氣勝雄獅
劝君莫逞一時勇
関節劳損悔恨遅

山を走ること6~7時間
獅子のごとく一気に駆けたが
調子に乗ったの後悔してる
関節痛くてしかたねえや

 中国語はまったくわからないが、きっとこんな感じだと思う。それにしても七字絶句(漢詩の形式)にするとなんだかめちゃくちゃかっこよく見える。どんなしょぼい内容でも勇ましく、そして含蓄に溢れて見えるのだ。僕は路傍の石を眺めながら有名な李白の「山中問答」という漢詩を思い出していた。

問余何意棲碧山 
笑而不答心自閑 
桃花流水杳然去 
別有天地非人間

ある人に訊かれた。どうしてこんな山の中に棲んでいるのかと。
僕は笑って答えない。でも心はどこまでものびのびしている。
桃の花を川に浮かべば、その水はどこまでも流れていく。
そんな俗世間とは違う、別天地がここにはあるのさ。

 李白のこの詩はそのままアウトドアーズマンの心の内を映していると僕は思う。

 大自然の懐に抱かれ、注意深くその声に耳を澄ませていると、街では気付くことのなかった声が聞こえる。風や雲や川や水の動きに目を凝らしていると、かすかな変化の中に永遠の真理を見ることができる。僕らが山に分け入るのはスポーツのためでもレジャーのためでもない。静かに心を整え、大自然の摂理を体感するためなのだ。

 そう。旅とは詩である。旅人は詩人である。つらい旅、険しい山中でこそ旅人は詩を紡ぐべきなのだ。僕はバックパックからペンを取り出すと、おもむろにこう書き付けた。

亜細亜放浪山旅 
毎日荒天濡全身 
襲来蚊嵐激痒痒 
願青空風呂麦酒 

アジアを流れて山の旅
荒天続きで濡れねずみさ
蚊にも襲われすげえ痒い
お願い神様、青空、風呂、ビール。

 むーん、詩人だ。もはや杜甫か李白の生まれ代わりと言ってもいいだろう。何百、何千の名詩を口から吐きながら、まるで雲に乗った仙人のように、真っ白い霧の中を歩き続けた。ステージ3の最後の下り。長い長い階段が続いたステージ3のゴール(兼ステージ4のスタート)地点に到着。多くの中継点は道路沿いにありバスやタクシーでアクセスできるようになっている。ルート図や標距柱(ディスタンスポスト)の説明文が掲示されている

喧噪とネオンの街へ

 ステージ3を無事に歩き終え、僕は水浪窩(スイロンウー)の中継点に到着した。一瞬このままステージ4に突入したい衝動に駆られたが、翌日は豪雨の予報だったのでぐっと我慢し、いったん香港市街に戻ることにする。
帰路のMTRにて。香港の地下鉄は清潔でピカピカ。ずぶ濡れのウェアと泥だらけのトレッキングシューズがちょっと恥ずかしい
 その後はMTRとバスを乗り継いで香港に帰った。バスに揺られて山道を下っていくとどんどん街の灯りが近づいて来て、あっという間に回りを電飾とネオンに囲まれた。通りには人が溢れ、ポルシェやベンツなどの高級車が目抜き通りを流している。
香港中心街をザッピング。表通りのブティックから裏通りの露店まですべてがエネルギッシュで面白い
 窓の外には超高層アパートが林立し、何千、何万という灯りが灯っていた。それはとても不思議な感覚だった。ついさっきまで山の中にいて、まる1日誰にも会わず、誰ともすれ違わなかった。僕のパックはずぶ濡れで、ビブラムソールには泥がついている。汗を吸った化繊のTシャツはザリガニみたいな匂いがして、隣に座ったOLさんが顔をしかめている。そう。これが僕がつい数十分前まで“原野”にいたなによりの証拠だ。

 それが今はこうして大都会の真ん中で、ネオンの流れとクラクションの風を浴びているのだ……。立山連峰から下山して扇沢のターミナルからバスに乗ったら大町が歌舞伎町になっていた……そんな感じのワープだった。

 街に戻った僕は、iPhoneで安宿を探し、廟街(テンプルストリート)の近くにあるバックパッカーハウスに宿を取った。泥だらけの靴を脱ぎ捨て、雑巾のような靴下をゴミ箱に放り込む。部屋のエアコンは冷えすぎでベッドのスプリングはランドクルーザーの板バネみたいに固かったが、それでもここは天国だ。屋根もあるし蚊もいない。

「うひょーーーー!」

 熱いシャワーが僕を“こちら側”に引き戻した。何度も何度も髪を洗い、ドライヤーをつかって洗ったパンツを乾かす。そして夜の街へと繰り出した。
廟街(テンプルストリート)のナイトマーケット(男人街)に繰り出しブルースリーのTシャツを買った。そのあとはフットマッサージでトレッキングの疲れを癒す
 この一帯は香港でももっとも賑やかで猥雑な場所だ。バックパッカーハウスの1階は大衆食堂で、大勢のお客さんがすさまじい量の肉や魚を食べていた。「中国人は4本足は机以外すべて、飛ぶものは飛行機以外すべて食べる」と言われるが、あながちウソとは思えない。厨房の裏では羽をむしられるニワトリが断末魔の叫びを上げ、アスファルトの路上には水槽から逃げ出した上海蟹が逃げ回っている。ポルシェ・カイエンに乗ったバブル紳士が伊勢海老みたいな大きなシャコをバケツ一杯買っていった。あれをぜんぶ食べるのだろうか?

 屋台の向かいはポルノショップで日本のAV女優のポスターが張り出され、その前で白人観光客が嬉しそうに記念写真を撮っている。半ズボンを履いた街の男の子たちが、それを指さして笑っていた。みんな大声で、みんな剥き出しで、そしてみんな楽しそうだ。アジアの混沌。アジアの純真。アジアの旅は夜が楽しい。路地裏が楽しい。
麺類、ダック、チキン、海鮮、お粥……。香港の食堂は何をたべても美味しい。ゴハンの美味しい国はいい国だ
 僕は裏通りから裏通りへ、屋台から屋台へ、露店から露店へと渡り歩いた。露店にはいかにも中国っぽい安くてアヤシイ品物がたくさん売っていて超楽しかった。ちなみにいまナイトマーケットでもっとも熱い商材は「ドローン」。さすが時代の動きに敏感な国際都市香港だ。

 たっぷり喰って、飲んで、そのあとは中国4000年の歴史を誇るフット・マッサージへ。連日のハードな山行で疲れ切った足の筋肉をがっつりしっかりほぐしてもらった。

香港の面白さは自然と街の距離の近さだ
香港島にある「ホンコン・トレイル」は摩天楼を見下ろすエキサイティングなトレイルと聞いて歩きに行ったのだが……。雨と霧でまったく何も見えず。とほほ
 翌日は香港島の「ホンコン・トレイル」を歩き、夜はネオン管がギラギラ光る中環(セントラル)のビル街をさすらった。観光スポットも裏通りもビル街も住宅街もそして街をグルッと取り囲む山と海もすべてがビビッドでパワフルで、僕はこの街がすっかり好きになってしまった。
MTRに乗って中環(セントラル)エリアへ。近代的な高層ビルが建ち並ぶ金融・ビジネスの中心地だ。毎晩午後8時になるとサーチライトやビルの電飾がいっせいに夜空を彩り、幻想的な光景が広がる香港市民はみんな明るくてとてもパワフル。中国そしてアジアの経済成長を牽引するエネルギーが人々の表情にも満ち満ちている
 街のダイナミズムと人々の明るさ、そして街と大自然との距離の近さが香港の最大の魅力だ。アウトドア派もインドア派もバックパッカーもシティスリッカーも垣根を越えてともに集い、自然と都会を楽しめる。いやあ、香港たのしいわ。ちょっと病みつきになりそうである。

 今回僕は6日間の休みとLCC(バニラエアー)の格安チケットを利用してやって来た。航空券は片道たった1万5000円。フライト時間は4時間50分。ほんの少しがんばれば誰でもこんな自由で壮大な歩き旅が楽しめるのだ。

 今年はバックパックに自由を詰め込んで、こんな亜細亜放浪に出てみるのはどうだろう。
 


 

 それでは、今回旅した香港マップや実際の持ち物リストなどを公開!

香港 Backpacking map
 この旅の香港で実際に歩いた場所や、立ち寄ったアウトドアショップ、スーパーなど、さまざまな旅の情報を落とし込んだオリジナルの香港地図をAkimamaスタッフが用意してくれた。赤いラインがフィールドで移動した全軌跡。ぜひみんなの香港旅にも活用してほしい。なお、右上の□マークから拡大地図へ移れば4大トレイルを一時的に消すなど、必要な情報だけを表示させることもできる(これはPCの方が見やすいかも)。

マクリホース・トレイル 山行アドバイス

 香港は大きく「香港(島)」「九龍(クーロン)」「新界(シンカイ)」の3つのエリアからなる。ビルが林立する香港島の北岸や九龍がいわゆる香港らしい密集市街地。対して北部一帯の新界は大規模ニュータウンなどが点在するとともに自然がとても豊かなエリア。美しい海や山、丘陵風景などが広がっている。
 マクリホース・トレイルはその新界を東西に横断する100kmのトレイルだ。行程は全10区間(ステージ)に分かれている。
 ステージ1は東端に位置する西貢(サイクン)東郊野公園の広大な湖に沿ってスタート。今回歩いた2はトレイル中でもっとも海岸線と山が織りなす美しい景色が広がるステージだ。3・4で西貢半島の山深い一帯を歩き、5・6で九龍市街地の裏山を抜ける。そして7・8で香港の最高峰である大帽山(タイモーシャン、957m)のピークを踏み、9・10の深い森歩きでフィニッシュとなる。
 トレイルは日本の山のような登山道もあるが、石畳の道や舗装路なども入り交じり、全体的に歩きやすい。また500mごとにトレイル上には標識が立てられていて道迷い遭難の危険は少ない。万が一のときにはプレートの番号を救助隊に知らせれば場所が特定できるシステムになっている。
 各ステージの接続地点にはバスやタクシーの通る車道が通っているので、アプローチがしやすいのも香港のトレイルの魅力だろう。

道具について

 靴はマインドルのライトトレッキングシューズ「X-SO 70 Mid GTX」を使った。これはゴアテックスサラウンドという足の裏側からも蒸れが放出される最新のタイプで、アジア圏などの高温多湿なエリアにはピッタリだ。香港のトレイルは足場がよく整備されているので、それほどラギッドなソールは必要ない。脚力がある人ならトレランシューズでも十分だと思う。ただし5〜11月は雨季なので防水対策はしっかりしたい。ウェアはTシャツ短パンでも充分だが、標高の低い密林地帯では虫に刺されることも多い。この時期はしっかりした雨具とザックカバーは必携装備。僕はアウトドアリサーチの超軽量レインシェル「ヘリウム2」を携行した。テントは今回「ホーボーズネスト(アライトレックライズ0の改造バージョン)」を使用。自立型のハーフドームテントは設営する場所を選ばず使い勝手に優れるが、雨季の低山ではインナーがフルメッシュのものの方が快適だろう。文中にも書いた通り、ワンポールテントやタープでのキャンプはこの時期あまりお勧めできない。

旅の相棒 Gregory バルトロ65

 歴代のトリコニとバルトロを愛用してきたが、現行モデルは快心のできだ。このバルトロ65、背負い心地のよさはグレゴリーの真骨頂だから今さら語るまでもないが、他では例えばフロントの大型ポケットが使いやすい。この部分には純正のレインカバーが付属していて、天候の急変にすばやく対応することができる。僕はここにレインウェアの上下と速乾タオルをいれている。また、ハイドレーション用のスリーブが超軽量のデイパックになっていて、ピークへのアタックはもちろん、買い出しなどにも使える。長期放浪旅にも便利なのだ。

サイズ: S、M、L
容量: 61L(Sサイズ)、65L(Mサイズ)、69L(Lサイズ)
重量: 2,200g(Sサイズ)、2,300g(Mサイズ)、2,369g(Lサイズ)
カラー: ネイビーブルー、スパークレッド、シャドーブラック
価格:42,120円(税込み)

 

(文=ホーボージュン、写真=中尾由里子)


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