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ホーボージュン令和元年のアジア旅! 「ヒマラヤの果て、雲の手前。〜幸せの国ブータンを旅する〜」中編

(2019.08.19)

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山あいの温泉に浸かり
美しい歌声に酔う


 食事のあとは、みんなで近くにあるガサ温泉に行った。ブータンには3つの天然温泉があり、このガサ温泉は西部エリアでは最も大きな施設だそうだ。河原には5つの湯殿があり、それぞれが屋根と壁で仕切られていた。

「大昔からある温泉ですが、2009年に川の氾濫で源泉も建物もすべて流されてしまい、いまの建物は最近建て直されたものです」

 温泉の入り口にはチョルテン(仏塔)があり、宿泊施設や湯上がりに涼むための東屋などもあった。いまは湯治客はまったくいないが、冬の農閑期になると全国から農民が訪れたいへんな賑わいになるらしい。農民たちは家財道具や布団を持ち込み、テント暮らしをしながら一週間以上滞在する。いま僕らがテントを張っている周辺がフェス並みのテント村になるそうだ。

「私は小学校3年生の時にお母さんに連れられて初めて来ました。当時はまだ自動車が通れる道がなくて、プナカから3日かけて山道を歩いてここまで来ました。暗い山道で私はずっとお母さんの手を握っていた。でもお母さんはここに来ることを人生で一番楽しみにしていたので、すごく機嫌がよかった」とソナムさんが言う。

 まるで江戸時代のお伊勢参りのような話だが、ほんの最近、1986年のことだ。日本はバブル時代が到来し、ディスコとドラクエとダイアナカットが大ブームになり、MTVではマドンナの『パパ・ドント・プリーチ』がエンドレスで流れていた。ビートたけしがフライデー編集部を襲撃し、僕はレーサーレプリカのバイクで峠道を攻めていた。それを思うと僕はまたもや激しいタイムスリップ感とテーマパーク感に苛まれる。やっぱりブータンは時空が歪んでいるのだ。

 ブルーシートのかけられた簡易的な脱衣所で服を脱いだ。ブータンの温泉では水着着用がマナーで、全裸や下着での入浴は禁止されている。浴槽にはミネラルウオーターは持ち込めるが、食べ物やアルコール、瓶入りの飲料は禁止だ。
 ソナムさんのあとに続いて、中央にある大きめの湯殿へ入った。ここには広さ3畳ぐらいの湯船がふたつ並んでいた。つま先からゆっくりと湯に浸かる。熱くもなくヌルくもない。39℃くらいだろうか。座るとちょうど首まで浸かる深さだった。

「はああああ~」

 思わず声が出る。硫黄臭は強くないが少し茶色がかっていて鉄っぽい匂いがする。肌への刺激はなく、まろやかでとてもいいお湯だった。「フウ~」「ハア~」「ホオ~」

 ソナムさんやセリングさんやボスも目を閉じて長い息を吐く。その様子は日本の温泉にいるオジサンたちとなんら変わらない。

 隣の湯船には恰幅のいい男が5人と女の人が3人入っていた。女の人は湯浴み用の薄いシャツを羽織っている。彼らはこの近くの村に住む農民で、今日は午後の早い時間に仕事をあがって身体を癒やしに来たそうだ。みんな40歳前後だったが、男も女も肌がやけに若々しかった。本当は若いのに肉体労働のせいで老けて見えるのか、それとも中年だが温泉のおかげで肌がツルツルなのか、そのあたりはナゾだ。全員が穏やかで満ち足りた顔をしていた。まあ、温泉に浸かってイライラする人は少ないだろうけど。

 たっぷりと温泉を堪能すると、僕はボスにせっけんを借りて身体を洗うことにした。洗い場は湯殿の外にあった。高さ1メートルほどの巨大なコンクリート桶にお湯が貯められていて、そのまわりに鉄パイプの蛇口がズラッと並んでいる。蛇口にハンドルはなく、鉄パイプの先に木の栓が刺さっていた。どうやらこれを抜いてお湯を浴びるシステムらしい。

 僕は蛇口の前にあぐらをかき、石けんを泡立てて髪を洗った。こんなヒマラヤの山奥で風呂に入れるなんてこの世の奇跡だ。そう思いながら頭頂部をゴシゴシ洗った。ボスが貸してくれた石けんは若いおねーさんが使うようなフローラルな匂いがした。これもインド製なんだろうか。ボスの坊主頭とゴツイ顔を思い出して少しおかしくなった。そして蛇口の木栓を抜こうと手を伸ばして、思わず声を上げてしまったのだ

「ち、ち、ちんこ!」

 栓だと思っていたのはポーだった。

「また、ちんこかよ!」

 まったくブータン人っていうのはどれだけポー好きなんだ。神聖なお守りなのはわかるが、なにもパイプの栓までちんこにしなくてもいいだろう。

 やれやれ、と思いながら僕はちんこに手を伸ばし、手のひらを添えてギュッと握るとスポンッと抜いた。すると鉄パイプから大量のお湯がほとばしり出て、僕の顔をバンバンと叩いた。僕はそれで髪をすすぎ、顔を洗った。まったくなんちゅープレイなんだこれは。

 さっぱりした僕はほかの湯殿をのぞいてみることにした。日本の檜風呂のような板張りの湯船やプールのように大きな露天風呂もあった。泉質はみな一緒だと思うが、温度はいろいろだった。ぬるい風呂にはおばあさんたちが浸かってずっとおしゃべりをしていた。一番熱い風呂には僧侶学校の生徒なのだろうか、坊主頭の少年たちが顔を真っ赤にして我慢比べをしていた。それはなんだか懐かしく、ほっこりする光景だった。

 少年たちが入る湯殿の壁にはこんな標語が英語で掲げられていた。

《Managing the waste has equivalent merits of offering more than hundred butter lamps. So let us manage our waste to receive more merits. GASA PRIMARY SCHOOL》

《浪費をマネージすることは100基のバターランプより遙かに大きなメリットがあります。だからよりたくさんの贈り物を得るために、無駄使いはやめましょう。ガサ小学校》

 それが温泉のお湯のことを言っているのか、それとも金銭的なことを言っているのかよくわからなかったが(……といってもここには無駄使いを謳歌できるゲーセンも駄菓子屋もない)至極まっとうで、地に足の着いた標語だった。先進国が掲げるSDGs(持続可能な開発目標)なんかよりよっぽど説得力がある。恐るべし、なのだ。

 外に出ると太陽は山陰に隠れ、あたりを宵闇が包みはじめていた。適当に涼みながらみんなのいる湯殿に帰ると、中から女の歌色が聞こえてきた。

 薄暗い湯殿で、さきほどの農家の女たちが歌っていた。絹のような細くて滑らかな歌声が、美しい三重奏を奏でている。ゆったりとした哀しげなメロディだった。村の男たちは目を閉じてその歌声に耳を傾けている。ソナムさんやボスたちも熱心に聞き入っていた。

 女たちはそんな聴衆の存在を気にするでもなく、蕩々と歌い続けていた。時々手で湯をすくっては肩や胸にかけたり、長い髪を手で梳いたりしていた。長い長い歌だった。きっと田植えや籾摺りなど単調な農作業の時に歌うのだろう。

 ケイジ君が歌声を録ってくれていた。

 ゆっくりと湯に浸かり、僕はその歌声に耳を傾けた。柔らかなお湯の上を和声が踊るように流れていく。繊細な音の粒子と湯けむりが混ざり合い、まるで雲上の天国に来てしまったようだった。人の声ってこんなにも美しいのか。なんともぜいたくな時間だった。

(これが本当の生活だよな……)

 太陽とともに目覚め、空の下で働く。汗をかき、手を汚して土を耕す。自分の手と肉体で食べ物を育てる。そして仕事が終わったらこうして温泉に浸かり、身体を休める。仲間と笑いあい、家族とゆっくり話をする。歌に耳を傾け、気持ちをほぐす。目を閉じて、天に感謝をする。(しあわせって、きっとこういうものなんだよな)

 僕は日本の社会と自分の暮らしをふり返った。息つく間もない毎日。多すぎる人。過剰な刺激。乗車率200%の満員電車。フェイクだらけのネットニュース。イジメと差別。年間2万人の自殺者。ぬぐえない不安。見えない未来……。毎日毎日立っているだけで精一杯だ。いったいなんのために生きているのだろう。ときどきそう思う。 でも今夜は満ち足りていた。何の不安も不満もなかった。徐々に身体と心がこの国のペースに馴染んできていた。心の軸が少し変わったような気がする。

「あと1時間くらい入ってます」

 そう言うソナムさんたちを置いて先に帰路についた。ブータン人はみんな長風呂だ。2時間も3時間も入っているのだ。

 夜道をゆっくりと歩いて帰った。谷を渡る風は涼しかった。じっくりと風呂に浸かったおかげで筋肉の痛みもない。気分は満ち足りていた。僕は手ぶらで、なにも持っていなかった。だけどこの坂の上にはテントが張ってあり、寝袋が敷かれている。これ以上のしあわせはこの世界のどこを探しても見つかりそうにない。

 今日の昼にセリングさんがこのあたりでターキンを見たという。ターキンは深い森の中や4,000m以上の高所に棲息するカモシカの仲間で、風狂僧ドゥクパ・キンレイが作り出したという伝説があり、ブータンの国獣になっている。そして絶滅危惧種で極端に数が減っているため、野生のターキンを見た人はしあわせになれるという。

 ガサガサガサ……。

 近くの藪から音がした。もしかしたらターキンかも知れない。そう思って目を凝らしてみたが、どうやら風が通っただけみたいだ。

(まあいいや。すでにオレはシアワセだ)

 そう思ったらなんだかまたシアワセになった。
 月は明るく、風は涼しかった。 最終回は3,000mの垂直の壁に建つ伝説の寺院を訪ねる!
 雷龍の国・ブータン旅 後編へ続く
(文=ホーボージュン、写真=田島継二)
 

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ライター
ホーボージュン

全天候型フリーライター。6,000mの高所登山からシーカヤックの外洋航海まで、フィールドとスタイルを問わない自由な旅を続けている。『山と渓谷』『ビーパル』『PEAKS』『Field Life』などアウトドア各誌で連載中。公式Twitterアカウントは「@hobojun

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