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【ユーさんの72年_13】中川祐二、72年目のアウトドアノート~僕はむかし“辻まこと”だったのかもしれない。

2022.02.28 Mon

中川祐二

中川祐二 物書き・フォトグラファー

 こんなタイトルにすると、きっと辻まことファンやマコトニアンに叱られるだろう。最近の山好きには、この人の名前を知っている人はもう少ないのかもしれない。

 辻まこと。詩人、物書きであり画家、登山家でありスキーヤー。ギタリストでありフルーティスト、そして何よりも皮肉屋で、恐ろしいほどの自由人だった。

 通り一遍な紹介をしておこう。
 
 辻まこと、1913年-1975年。ダダイスト(*1)辻潤と伊藤野枝(*2)の長男として生まれる。父・辻潤は翻訳家、思想家だが、精神異常をきたし、また虚無僧姿で放浪を繰り返し警察沙汰に。女性遍歴も数多く、最後は餓死したと言われている。
(*1)ダダイスト=既存の秩序や常識に対する否定や攻撃、破壊を特徴とした芸術運動、その思想“Dadaïsm(ダダイズム)”を表現する芸術家のこと。“Dadaïst”。ダダイズムは第一次世界大戦に対する抵抗や虚無を根底に持つ運動で、当時の欧米で生まれた。反芸術的な文芸活動とも。
(*2)伊藤野枝=1895-1923年。大正期を代表する婦人解放運動の活動家。婦人月刊誌『青鞜』を平塚らいてうから受け継ぐものの、大杉栄との一件もあり結果的に休刊させるなど、良かれ悪しかれ世の耳目を引いた人物。7児の母。1923年、甘粕事件の犠牲者となり28歳で早逝。
 母・伊藤野枝は日本の婦人解放運動家、作家、編集者。女学校の恩師、辻潤と結婚したものの、翌年ジャーナリストであり社会運動家の大杉栄(*3)との不倫に走り、陸軍憲兵大尉甘粕正彦に大杉栄、甥の橘宗一とともに殺害された(*4)
(*3)大杉栄=1885-1923年。日本を代表するアナキスト。作家、思想家。逮捕、投獄を繰り返しながらも社会運動家としての活動は多岐にわたる。また、『ファーブル昆虫記』の翻訳なども手掛ける文化人でもあった。自由恋愛論者で、野枝との間に5人の子をもうけた。甘粕事件で38歳にて没す。(*4)甘粕正彦=1891-1945年。軍人。陸軍憲兵大尉のときに、甘粕事件で知られる不法弾圧事件を起こす。関東大震災後の混乱に紛れ、大杉栄とその甥、伊藤野枝の3名を連行して横死させたとされる。甘粕は軍法会議の末、懲役刑となる。事件後は満州にわたり、満洲国建設にひと役買う。敗戦時に現地で服毒自殺。54歳だった。
 その後、父・辻潤とパリに1年滞在。帰国後、竹久夢二(*5)の息子不二彦と登山と金鉱探しに熱中する。奥鬼怒、会津、信州の山を歩き、スキーツアーやアルペンスキーに熱中した。
(*5)竹久夢二=1884-1934年。大正、昭和初期に活躍した画家、詩人。独特の描写で数多くの「夢二式」とも言われる美人画を遺したことで名高い。大正の浮世絵師などと呼ばれたことも。また、童話や歌謡などの文筆業や書籍の装丁、広告デザインなどの世界でも知られる存在。
 山の雑誌『アルプ』や『歴程』誌に画文を発表。雑誌『岳人』(*6)の表紙イラストは没時まで連載。その間の女性との付き合いは、両親の血を引いたせいか複雑怪奇としか言いようがないほど。詳しいことは西木正明著『夢幻の山旅』(*7)に詳しい。
(*6)『アルプ』『暦程』『岳人』=『アルプ』は1958年に創文社によって創刊された山の文芸誌。格調の高い文章で多くの読者を獲得。1983年の休刊まで25年にわたって存続した。『暦程』は1935年に生まれた現代詩をテーマとする同人雑誌。草野新平、中原中也らによって創刊され、串田孫一、北杜夫らも参加した。戦時中は休刊となったが、戦後に復活し、通巻500号を超えていまなお続いている。『岳人』は、東京新聞出版局によって発刊となった山岳専門誌。1947年、京都大学山岳部有志によって創刊。1949年から2014年まで東京新聞出版局から発行。その後、版元は変わったものの、いまなお継続中。(*7)西木正明=1940年~。小説家。平凡出版(現マガジンハウス)で雑誌編集に携わる。独立後、ドキュメンタリーな作品を多く発表。『オホーツク諜報船』で日本ノンフィクション賞新人賞ほか、多くの賞を受賞。
 1975年、体調を壊し、余命幾ばくもないと覚悟し、自死した。62歳没。
 
 僕が辻まことを知ったのは、いったいいつだったのだろう。山に登ったり、スキーや釣りに血道を上げていた頃はまったく知らなかった。しかし、辻まことは1975年に亡くなっているのだから、そのとき僕は27歳。努力すれば会えないこともなかったかもしれない。

 後年、串田孫一(*8)のご子息と仕事をする機会があった。辻さんの話をすると、オヤジさんが元気なうちに話を聞いたらいいよ、と言ってもらったのだが、そうですかとはなかなか行かれるものではない。ついにはその機会を逃してしまった。
(*8)串田孫一=1915-2005年。詩人、哲学者、随筆家。文芸誌『アルプ』を尾崎喜八らと創刊。『歴程』同人、文芸誌『同時代』同人。
 またさらに、ある集まりで会った奥様は、若いころ志賀高原の石の湯ロッジにスキーをしに通っていたという。僕がカメラマンだと知って、

「では小谷 明(*9)さんはご存知?」
「はい、名前だけは知っていますが、小谷さんはこの世界じゃ神様みたいな方、面識はありません。」
(*9)小谷 明=1934年~。写真家。自然との関わり合いをテーマに多くのガイドブックや写真集を発表。とくにスキー写真の世界では群を抜いたシャープさが魅力。1970年には三浦雄一郎のエベレスト大滑降の写真を撮影している。
 ……ん? 石の湯ロッジ、小谷 明……。

「では、もしかにて辻まことをご存知ですか?」
「あら、あなた辻さんをご存知なの?」
「知っていると言っても、スティービーワンダーを知っているといった程度のことで……」
「とってもおもしろい方よ、スキーはうまいし、ギターもお上手なの」

 これはニアミスとは言わないだろうが、僕の人生のなかに辻まことはときどき現れることがある。

 多分50年くらい前になると思うが、当時いっしょにスキーに行っていたKご夫妻がいた。その方は僕よりひとまわりくらい年上で、山登りに釣りに、スキーにとご夫婦で遊び歩いていた。子どもがいなかったせいか、僕をよく可愛がってくれた。彼が、

「ユーさん、もちろん辻まことはご存知ですよね?」
「辻まこと? いいえ知りません」
「おやおやそれはもったいない、なかなかおもしろい人ですよ、絵もいいし」

 次に会ったとき、Kさんは辻まことの本を貸してくれた。これが僕の辻まこと初体験だった。
僕が辻まことを知ったころ、すでに絶版になっていた本もずいぶんあった。しかしインターネットもブックオフもまだなかったものの、入手するのはそれほど困難ではなかった。山岳関係の古本を扱う店をずいぶんと回った。そんなときに『辻まこと全集』が出版された。すごく高価だったが思い切って購入した。
 それ以来、僕は辻まこと病にかかってしまったようだった。当時出版されていた本を買いあさり、古書店も随分と回った。新宿の古いビルの中の出版社を見つけ、分けてもらったこともあった。じつはそのビルは僕がよく通っていた飲み屋のすぐそばだったこともあった。雑誌『岳人』の表紙の校正刷りの別刷りがあったので、それも分けてもらった。その絵の中で岩を登ったり、歩いている人つまりはモデルとなっているのは、この出版社の主宰S氏だった。

 買いあさった本を端から読んだ。僕がこの手の本を読むとき、必ずその地域の地図を用意する。その本の中に出てくる地名やイニシャルで書かれた場所の情報を、地図で探しながら読んだ。それがまた謎解きのようでおもしろかった。

 まだ、インターネットがあった時代ではないものの、知り得た情報をもとに編集者である友人たちに辻まことの魅力、すばらしさをことあるごとに話して聞かせた。ロケの往復の車の中で、居酒屋のカウンターで。そのときは具体的になることはないが、何かの企画、特集を組むときにそうだユーさんが何か言っていたな、辻まこと関連だったな、ちょうどいいやってみるか、ということになる。『求めよ、さらば与えられん』(*10)である。
(*10)『求めよ、さらば与えられん』=「新約聖書―マタイ伝・七」に由来。「神に祈り求めなさい。そうすれば神は正しい信仰を与えてくださるだろう」の意。転じて、物事を成就するためには、与えられるのを待つのではなく、みずから進んで求める姿勢が大事だということ。
 こうしてまず、山岳雑誌のY誌でハイキングの特集を組み、僕たちは奥鬼怒、手白澤温泉へ行くことになった。この手白澤温泉は辻まことが一年を通し足繁く通ったところ。現在でも車で入ることはできず、近くの駐車場から歩いて2時間半ほどかかるところにある。不便といえば不便なのだが、この2時間半のコースが気持ちよくハイキングにはちょうどいいコースだった。しかし僕たちは翌日、まるで辻まことが体験したことと同じような“ハイキング”をすることになったのである。
奥鬼怒温泉郷は鬼怒川沿いにある温泉群で、奥鬼怒スーパー林道でアクセスする。しかし、この林道、女夫渕から先は一般車通行止め。途中の加仁湯、八丁の湯へは送迎はあるが、日光澤温泉と手白澤温泉は歩いてアクセスしなくてはならない。不便といえば不便なのだがそれがまたいい。こんな明るいブナ林をのんびり歩く、あの露天風呂のありがたみがいや増す。
 電車とバスを乗り継ぎ、登山道に入るとそこは明るいブナの林、気持ちのいい登山道だった。僕は辻まことの実家にでも行くような気分で歩いていた。林道のどん詰まりにその手白澤温泉はあった。登山客相手の古い温泉宿だった。薄暗い廊下には、辻まことの手になると思われる老人像が額装されかかっていたと記憶している。その隣には「手白沢温泉ヒュッテ 奥きぬ温泉郷」と染め抜いた手拭いが広げて画鋲で張ってあった。まさしくこれは、辻まことが書いたものに違いなかった。おかみさんを拝み倒し、無理を言ってこれを分けてもらった。
辻まことの手になる手拭い。雪の降る林のなか、ふたりの山男が丸太を運ぶ。その丸太には手白沢の宿名が。入手した当時はナス紺の色だったが、経年変化でグレーっぽくなってしまった。いまはまた復活して販売をしているようだ。
 豊富な湯量を誇るこの宿の露天風呂を楽しみ、翌日“ハイキング”に出発した。宿の隣の建物に掲げられた看板「手白澤温泉ヒユッテ」という文字は右から書かれており、これも辻まことがつくったものだと聞いていた。

 このまま、昨日来た道を引き返せば明るく気持ちのいい温泉ハイキングという記事が成立したのだが、僕たちはさらに山奥へと向かった。なぜなら辻まことの作品を読んでいて「根名草山」(ねなくさやま)や「温泉ヶ岳」(ゆせんがたけ)という名前が頭にこびりつき、ぜひ行ってみたいとこのコースを提案したのだろう。しかしどちらも2,300mを超す山、ハイキングの範疇を逸脱していた。
  
 途中までは快適な登山だったものの、根名草山を越えてからが大変なことになっていた。ここからでも引き返せばよかったといまでも思っている。まるでマッチ箱をひっくり返したように木が倒れていたのである。風倒木をまたぎ、くぐり、残雪に足を取られながら辛い行程となった。
この年の前年、台風でずいぶん山が荒されたらしい。女夫渕から手白澤温泉への川原でも工事用の重機が作業をしていた。きっとこの風倒木も古いものではなく、前年の台風の爪痕だったのだろう。道はなくひどく疲れた記憶がある。
 そんな辛いなか、何かよく似たことを経験したような記憶がよみがえってきた。それは僕が体験したわけではなく、辻まことが帝釈山を歩いたとき、風倒木に難儀したというような記述がありそれを思い出したのだった。
今回この項を書くにあたり、当時この風倒木のなかを歩いた辛さを思い出しながら辻まことの絵を探した。それは引馬峠という作品にあった。その中にはこんな記述があった。「……私はハッとおもわず息を飲んだ。それはまったく驚くべき風景だった。倒木などという生易しいものではない。尾根筋いっぱいにマッチをバラまいたように、根こそぎ森が倒れているのだ」 この根名草山とおなじ風景だった。(『画文集 山の声』東京新聞出版局刊 P170-171)
 温泉ヶ岳を経由して金精峠から急坂を下り、金精トンネルの脇へと降りた。疲労感と達成感で安堵したハイキングとなった。しかし、ドラマはこれで終わらなかった。

 ここからバスに乗って帰京するはずだったが、すでに最後のバスは終わった後だった。仕方なく、ここから記憶が定かではないのだが、湯の湖まで歩いたのだろう、ここでもバスを探したが最終バスは終わっていた。ならばここで泊まり、翌日帰るしか方法はなかった。

 さらにドラマは続いた。同行のY誌編集者が困った顔をしながら口を開いた。

「すいません、こんな予定ではなかったので泊まる金がないんです。でも、何とかします」

 何とかしますって言ってもこんな山奥ではどうしようもない。編集者くんは小さな山小屋風の温泉宿に入っていき交渉が始まった。しばらくしてニコニコして出てきてひと言、

「オーケーです」

 オーケーって、何がオーケーなんだ。

 さすが歴史ある老舗雑誌『Y』誌である。事情を話し料金は帰京後に送るので4人の1泊をつけにしてもらったと言う。僕たちにとっては思わぬご褒美だった。温泉に入りご馳走をいただきあたたかい布団で一晩を過ごさせてもらった。

 翌朝玄関へ行くと、昨日まで履いていたあのドロドロの靴がきれいになり並んでいるではないか。疲れていたので何もせずつい脱ぎっぱなしにしていたのが恥ずかしかった。外側をきれいに洗い、湿った内側には新聞紙を入れ手入れをしてくれていた。同行したモデル嬢は、昨夜入浴のとき、温泉で髪を洗うと痛むのでと湯を沸かしバケツで運んでくれたという。

 なんという心遣い、もしかするとカタリで人を騙して泊まっていると思われてもおかしくない状況なのに。宿のおかみさんに丁寧に礼を言いバスに乗った。いい時代だったのである。これも、辻まことのおかげなのだろうか。

 手白澤温泉での取材を終え、気持ちのよかったブナ林、音を立てて露天風呂に流れ込む温泉、もう一度プライベートで行ってみたいと思ってはいた。インターネットが発達し、簡単に情報が見られるようになった頃、手白澤温泉を検索してみた。するとどうだろう、建物は新しく建て替えられ、食べ物はフランス料理を出し、恐ろしく高額の価格設定をした宿が出てきた。

 まさか、あの手白澤温泉ヒュッテがこんなことになっているなんて何かの間違いじゃないかと思った。何か経営面で変化があったのだろうか。これでは僕はもう行きたくはないな。

 今回、この項を書くにあたってもう一度検索してみた。建物は新しくなってはいたが、料理は洒落た今風の料理となっていた。前回調べたときのようにガチガチのフレンチではなく、山小屋らしくもあり、やはりフレンチ風でもある和洋折衷料理になっていた。

 何か狐にでもつままれたのだろうか、ヒュッテが宗旨替えをしたのだろうか、はたまた僕の勘違いなのだろうか。料金も決して廉価とは言えないが、それなりの価格に感じるというのはこちらの財布感覚が変わったのだろうか。

 いずれにせよ、車では入れず徒歩でのアプローチ、日帰り入浴営業はなく、部屋にテレビもない。露天風呂は昔のまま、「手白澤温泉ヒュッテ」という辻まことが書いた看板は健在のようだ。
1983年取材時の手白澤温泉ヒュッテ。辻まことがつくった右から「手白澤温泉ヒュッテ」と書かれた看板は現在も使われているようだ。しかし、ホームページなどでは「手白澤温泉」だけの表記になっている。そして手拭いは「手白沢温泉ヒュッテ」で、時代の移り変わりが感じられる。
 『マタイ伝』その2はB誌である。担当のOくんは若く素直で、ちょっと凝り症な編集者だった。僕はことあるごとに辻まことで洗脳してきた。彼はK大学文学部を出ていたせいか興味を持ち話に乗ってきた。いや、乗ってくれていたと言ったほうが正しいかもしれない。そのほうがユーさんを掌に乗せるのが楽だと思っていたに違いない、きっと。

 ある日僕は、辻まことの息子がやっている店があるから行ってみようとOくんを誘った。繁華街からちょっと離れた広い道に面したところにその店はひっそりとあった。 

「あそこだ、あそこだ。ほらあの看板、辻まことが書いたものだよ」

 とひそひそ声で言った。何も悪いことをしているわけではないので声をひそめる必要はまったくなかったのだが、なぜか見てはいけないものを見る、来てはいけないところへ来たような気分だった。

 そこには大きな看板に皮が張られ”雑魚亭”と彫られていた。中へ入った。客は誰もいなかった。カウンターの中にやや背の高い色の白い青年と母親らしき人がいた。……ははー、この人が息子だな、う~ん、親父に似ていないでもない、いい男だ。するとあの女性は$%&#さんか……(前出・『無限の山旅』に詳しい)。……ユーさん、そんな眺めていないで何か注文しないと……そうだな……。

「じゃビールを、それとつまみをなにか」

 Oくんとの会話は妙によそよそしく、あたり触らずの話題でビールを数本飲み店をあとにした。ふたりはようやく重い空気から解放され、それぞれの感想を言い合い繁華街へ向かった。河岸を変えて反省会をもったのは言うまでもない。

 ここからはまた記憶が定かではないのだが、どうしてそうなったのかよくわからない。辻まことごっこでもしようとでも思ったのかもしれない。

 Oくんは凝り性なところがあるといったが、彼が企画した特集では、いつも自分の出番というものをつくり、画面に顔を出すのが好きだった。準備段階で彼はこっそりフジテレビ美術センターへ行って衣装などを調達する。得意なのは寅さんになることで、衣装を借り自らそれを着て画面に出てくることがよくあった。

 ある日、辻まこと風の衣装などを考え、それを持って雑木林に現れた。ニッカーボッカーにツイードのジャケット、エイトパネルのビッグキャップ。ライフル一挺、それにムササビの縫いぐるみだ。これを僕に着せて僕を辻まことにした。僕としても決して嫌ではない、憧れの人風になれるのだから。
まずは真ん中の写真。これは本気で辻まことを演じている筆者。きっと栃木の山の中、雑木林で撮ったのだろう。足元にいる犬は僕の代になって2匹目の犬コスズ。この犬の親ヒコロクはBP誌の表紙を飾ったこともある。辻まことの冬の楽しみはムササビ狩りだったようだ。左は辻まこと『画帖から』白日社刊。右は画文集『山の声』東京新聞出版局刊 P50。
 ムササビの縫いぐるみを木の枝から吊るし、僕がそれを狙う、まさに辻まことの「ムササビ射ちの夜」のワンシーンである。これをどのように誌面に使ったのかまったく記憶がない、となると企画倒れでお蔵入りになったのかもしれない。ただ、辻まことになり切った写真は僕の手元にある。

 ある日、辻まことの展覧会が開催されるという記事を新聞に見つけた。よく気をつけていないと見落としてしまうような小さな記事だった。その場所は八ヶ岳だという。時間をやりくりして中央高速を車で向かった。小さなギャラリーだった。入り口で入場料を払い中へ入った。明るいギャラリーで何点かの辻まことの絵画が展示されていた。会場にはやや音が大きいとは感じたがパイプオルガンの曲が流れていた。それもレコードではなく本物のパイプオルガンの演奏だった。見ると小さいながらもパイプオルガンが高いところにつくられていた。

 絵をみながら進むと、いままで流れていた曲が急に止まるのである。そしてその少し前から弾き直し、つっかえつっかえの演奏をしている……なんだこりゃ……。

 辻まことの絵のBGMだとばかり思っていたが、どうもそうではないらしい。絵の展覧会と同時にパイプオルガンの練習にこのホールを貸しているらしい。そうわかると音が気になりゆっくりと絵など見ていられなくなった。何度か上を見上げ演奏者を睨んでみたが、ご存知のとおりパイプオルガンの演奏者は客に背を向けて演奏する。小さなリアミラーはついているもののそんなことに気を回すようなレベルの人ではない。

 ついに僕は頭にきた。僕は頭に血が昇るとすぐに体が動いてしまう性格なのだ。つかつかとさっき入場料を支払った女性のところへ行き、

「あのオルガンの演奏は何なんですか! 演奏するならもっときちんと演奏をしてください。練習するなら誰もいないところでやってください。僕はこの辻まことの絵を見に来たのです。オルガンの練習にお金を払って聞きに来たわけではありません」

 きっとを絵を見に来ていた人は……そうだ、そうだ……と溜飲を下ろしたに違いない、と僕はそう思っている。おかげでそこにどんな絵が展示されていたのか、いまじゃまったく記憶にないのである。

 『マタイ伝』その3は、自動車雑誌から派生したF誌である。親会社は大きな出版社だがその子会社が出したアウトドア誌。車に関する記事も多かった。その雑誌の編集長経験もあるHくんが僕の担当だった。素直で飄々としたH青年に辻まことを注入した。

 辻まことの作品の中で僕がもっとも好きな作品のひとつに『ずいどう開通 湖村譚の2』がある。「ずいどうは隧道のこと。串田孫一説によると隧道といえば歩いて抜ける穴で、トンネルは汽車で抜ける穴のこと」と、この章の冒頭にある。この隧道というのは話の中でK湖とN湖と書かれているが、富士五湖の河口湖と西湖を繋ぐ“文化洞(*11)という隧道のことで、文章の中では「南北洞」という名になっている。N湖は西湖(サイコ)をニシコと読ませたのであろう。
(*11)文化洞=河口湖から西湖へ抜けるトンネル。話のなかでは『南北洞』となっている。調べて見ると、旧文化洞は心霊スポットとしても有名だったとか。   
 ある日新聞にこの隧道が新しくなるという記事を見つけた。さっそく編集のHくんに連絡をし、古い隧道開通の話は辻まことの作品にある。次の新しい隧道開通をユーさんが書くというのはどうだと、半ば強引にページをつくらせ富士五湖へ出かけた。

 河口湖は東京からだと富士五湖の入り口に位置し、いまでは高速道路を下りればすぐにアクセスでき、早くから観光化された湖である。観光シーズンともなればモーターボートが走り、水上スキーを楽しむ人々で溢れている。そして早くから外来魚であるブラックバスの漁業権を認可したことで1年を通して釣り人が絶えない。

 それに比べ河口湖の西側に位置する西湖は、最近でこそ釣りやウィンドサーフィンで賑わいを見せているが、当時は訪れる人も少ない静かな湖村であったに違いない。

 『ずいどう開通 湖村譚の2』の内容をざっとお話ししておこう。河口湖の東から隣の西湖へ行くには峠を越えるしかなかった。そこで隧道を掘ろうという村の熱意が通じて、予算がついた。工事は進んだが中央部に硬い部分があり頓挫。

「鉄より固い岩だったが、俺たちの信念はもっと固かったってわけだ」

 ようやく掘削に成功した。その硬い岩盤の辺りはコンクリートの必要がなく、凸凹の岩肌がそのままになっていた。

 村は土産物屋をつくり、旅館を増築し、焼玉エンジンの観光船も用意した。4月のよき日に開通式が行なわれた。村人が集まり大歓迎の式典が用意されていた。ついに待ちに待ったバスがやってきて、入り口に張られた紅白のテープを切り隧道に突入した。
西湖の東端にある集落津原、たぶん集落の人はツブラと言うだろうが、バス停の表記はローマ字併記でTSUHARAとなっていた。ここに流れ込む小川の脇に辻まことたちは小屋を建てた。本の中にそのテラスでの絵が描かれていた。僕がツブラを訪れたとき、湖に向かってテラスをつくった店があった。まるで辻まことの絵のように思った。僕は店の人に断りこのテラスで弁当を使わせてもらった。まるで絵の中にいるようだった。テーブルに広げた本は『山からの絵本』巻頭口絵、創文社刊。
 隧道の中でものすごい音がした。バスは露天掘りのままになっていた岩石にぶつかり、屋根がひんむけオープンカーになってしまった。すべてが台無しになったが、村人は硬い岩石をくずすのではなく、道を掘り下げバスを通そうと試みた。するとそこに水が溜まり、さらに歩けるように板を渡し橋をつくった。

「日本広しといえど、中に橋の架かっているずいどうはわが村の南北洞だけずら……」

 きっと、観光の進んだ河口湖からたくさんの文化が入ってくることを期待して“文化洞”と名付けたのだろう。しかし、瓢箪状の隧道ではそれは叶わなかった。

 その文化洞を僕は何度も通ったのである。確かに露天掘りのままだった。そこを定期バスが通っていたかどうかは知らないが、乗用車は問題なく通れた。そして僕はその隧道を利用し西湖へワカサギ釣りに足繁く通っていたのである。

 新しい「すいどう開通」。このとき、僕はあまり新しくできた隧道は見たくなかった。いやいや、見たいのだけれど見たくない、辻まことのお話がひとつなくなってしまうような複雑な思いだった。新しくできたその隧道は「文化洞トンネル」という名称がつけられたきれいなトンネルだった。
新しくできた「文化洞トンネル」(左)。旧道の奥にはコンクリートで塞がれた「文化洞」が見える。物語では「南北洞」となっているが。これは西湖側の入り口。
 まず僕は旧道があったと思われるほうへ藪漕ぎをした。しばらくすると大きなコンクリートの壁が見えた。その壁はずいどうがあったことを思わせる半円形の新しいコンクリートで塞がれていた。その上には「文化洞」の文字が見える。ずいどうを封鎖するというのは柵でもつくり、中には入れないようにするだけで覗けるのではないかと思っていた。

 僕はそのコンクリートの壁を叩き、

「辻さ~ん、辻まことさ~ん」

 と叫んだ。壁に耳を当ててみたが何の返事もなかった。西湖側の入り口へも行ってみたが同じように塞がれていた。
これは河口湖側の文化洞の入り口。新しくできた道路からそれ、古い道があったと思われる藪を辿ったら遠くにコンクリートの建造物が。自然のなかにこのような建造物があるとちょっと不気味だ。でもそれは、ずいどうとわかるかたちを残し、「文化洞」という名称までそのままになっていた。手が届くならはがして持ってきたい気分だった。
 封鎖されたずいどうの前には、まるで人を寄せ付けまいと番をしているようにマムシグサが咲いていた。
    
 しばらく前まで、所用で常磐道を走ることが多かった。東日本大震災が起きてから水戸以北へは行ったことがない。このエリアはそんなに大きな川はないが渓流魚が釣れたり、海のそばの川で小魚と遊んだり、小さなキャンプ場があり人が少なくてよかった。何より新鮮な魚を手に入れてキャンプで食べたり、場所によっては牧場で直に和牛の肉を分けてもらったり、穴場的エリアだった。

 当時は高速道路がいわきまでしかできていなかった。さらに北へ向かうには、海沿いを走るか山の中を北上するか選択しなければならない。いずれ一般道だが僕は川を見ながら行きたかったので山道を選んだ。これがえらく細い道でちょっと後悔したが、交通量が少なかったので助かった。

 どこへ行くかというと、そのときは確たる目的はなく、いい川があったら竿を出してやろうというくらいの旅だった。細い山道を抜けると開けた集落に出た。脇に川が流れ、こんな川でヤマメでも釣れてくれたらいいなと思いながら走っていた。道端に天山文庫(*12)という案内版を見つけた。うる覚えだったが、詩人草野心平(*13)の記念館ではなかったか。
(*12)天山文庫=詩人、草野心平が名誉村民に任命され、それを記念して建てられた記念館。(*13)草野心平=1903-1988年。詩人。詩誌『歴程』を中原中也とともに創刊。蛙をテーマとした詩を書き続けた。1987年、文化勲章を受賞。
 すぐに矢印のほうにハンドルを切った。茅葺き屋根のその記念館に見学者は誰もいなかった。草野心平は中原中也(*14)らとともに現代詩の同人誌『歴程』を創刊した。後年辻まことは挿絵やカリカチュア(*15)を載せていた。
(*14)中原中也=1907-1937年。昭和初期を代表する詩人、歌人、翻訳家。『歴程』同人。詩集に『山羊の歌』、訳詩に『ランボオ詩集』など。30歳の若さで逝去。(*15)カリカチュア=特徴を誇大に表現した風刺画。戯画、漫画、ポンチ絵。
 建物の中は板張りで脇に囲炉裏が切られていた。僕はその前に座りこの建物のオープニング時の資料などをめくっていた。するとどうだろう、そのオープニングパーティに辻まことが参加していたようだった。サイン帳に辻まことの自筆と思われるサインを発見したのだ。こんなところで会えるとは思っていなかった。

 係の人に、辻まことのことを聞いてみた。するとこの村の長福寺に墓があるという。草野心平が紹介し、娘さんが建てたという。

 長福寺はこんもりとした森の中にあった。辻まことの墓参にきたと告げると裏の墓地にあって、すぐにわかると教えてくれた。

 そこには辻一、良子と彫られたスイカほどの大きさの自然石が置かれていた。何の飾り気もない。辻まことらしいと思い、ポケットにあったタバコに火をつけ墓前に捧げた。

 帰り際、庫裏に行き、礼を言い帰ろうとすると、ステテコと肌着姿の矢内住職が、

「ご苦労様、どちらからですか?」

と聞きながら 

「冷たいものでも召し上がりなさい」

と言ってアイスキャンディをくださった。寺の庫裏のカビ臭さ、キャンディのおでこにくる冷たさが鼻の奥をくすぐった。

 たいした計画も立てず、知らぬ土地へ来て辻まことに会えるなんて、これもニアミスとは言えないのだろう。しかし僕は、辻まこととのニアミスを追いかけているのかもしれない。
もっとも辻まことらしい作品の3冊。左から『山からの絵本』創文社刊。表紙はツブラの小屋のテラス。真ん中『山で一泊』創文社刊。右、画文集『山の声』東京新聞出版局刊。
 一生懸命辻まことの本を読みあさった僕の時代は過ぎた。しかしその後、文庫化された本がずいぶん出るようになった。また、違う視点から辻まことを見た本も現れているようだ。新しい本を探しまた読んでみようと思っている。

 そんな中で、某大手出版社から文庫化された本が出た。どんなものかと読んでみた。おやおや、そんなことがあっていいのだろうかとびっくりするようなことが書かれていた。それは「小屋ぐらし」という章の“モミジのまるた”という話の中でのこと。オリジナルは、ツブラ(*16)につくった小屋生活での出来事で、大嵐の後流れ着いたモミジの丸太を材木商の旅人に売った。その金で1年間女中を雇ったとある(創文社昭和53年第7刷)。
(*16)ツブラ=地名だが漢字表記は津原(ツハラ)。西湖東端の集落名。
 ところがその文庫で出版された本では”1年間お手伝いを雇った”と変えられていた。

 びっくりした。確かに現代、女中という言葉は差別用語として扱われている。しかしこれはそれを容認している時代に書かれたもの、いままでの文学作品がしたように断り書きを掲載すればいいこと。作品の文章に手を入れるなんてとんでもないことだ。その後この文庫本を読んではいないので、重版時に修正されたかは確認していない。

 後日、やはり文庫本を多く扱う老舗出版社のベテラン編集者にこのことを話した。すると彼は手のひらを首に当てて横にずらす仕草をした。僕もその通りだと思った。

中川祐二

中川祐二 物書き・フォトグラファー

“ユーさん”または“O’ Kashira”の 愛称で知られるアウトドアズマン。長らくアウトドアに慣れ親しみ、古きよき時代を知る。物書きであり、フォトグラファーであり、フィッシャーマンであり、英国通であり、日本のアウトドア黎明期を牽引してきた、元祖アウトドア好き。『英国式自然の楽しみ方』、『英国式暮らしの楽しみ方』、『英国 釣りの楽 しみ』(以上求龍堂)ほか著作多数。 茨城県大洗町実施文部省「父親の家庭教育参加支援事業」講師。 NPO法人「大洗海の大学」初代代表理事。 大洗サーフ・ライフセービングクラブ 2019年から料理番ほか。似顔絵は僕の伯父、田村達馬が描いたもの。

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