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【ユーさんの72年⑥】中川祐二、72年目のアウトドアノート〜写真家・高野建三さんのこと

2020.12.10 Thu

中川祐二

中川祐二 物書き・フォトグラファー

「いよっ、どうだい?」

 と硝子戸から人懐っこい顔をのぞかせたのは高野建三(*1)さんだ。
(*1)高野建三=写真家。1938年、東京の生まれ。フライフィッシングやアウトドア関連の写真の草分け的な存在。ゲーリー・スナイダーや故・山尾三省との交流も深い。故人。
「釣り行ってるかい?」

 と言いながら名刺ほどの大きさの紙袋を渡された。それはアユの友釣り用の鉤が入った袋だった。

「これね、細くてかなり掛かりがいい鉤なんだ、おやじの葬式のとき記念品として配ったんだよ」

 高野さんのお父さんは、アユ釣りでは名人上手といわれた人。白い半ズボンに編み傘、竹竿を操っている建三さんが撮った写真を見たことがあった。
大喜びする高野建三さん。このときのことはよく覚えている。『OUTDOOR SPORTS』の取材だったのかスタッフで本栖湖へ行ったときのものだ。みな、渓流釣りは経験したものの、湖での釣りはポイントが分からずただ闇雲にロングディスタンスを競うようにキャスティングを繰り返していた。何人も並んで釣っているなかに高野さんはいなかった。あとで分かったことだが、ひとり岩礁地帯へ行き釣っていたようだった。しばらくして現れたときがこの写真だ。40cmオーバーのブラウントラウトを持って現れたのだが、そのときはこんなに笑ってはいなかった。やや青ざめた顔で興奮冷めやらずという体だったと記憶している。それが証拠にたぐったラインはグチャグチャ、絡まったまま引きずってきた。みなの前に来てひとしきり武勇伝を語り撮ったのがこの写真だ。(『OUTDOOR SPORTS』より)
 高野さんがうちに来るときは手ぶらできたことはあまりない。必ずなにかおみやげを持ってきてくれた。それは紅茶だったり、釣り鉤だったり、夏用の「STREAM DESIGNS(*2)」のフィッシングベストを持ってきてくれたこともあった。
(*2)STREAM DESIGNS=釣り関係のアパレルを作っていたアメリカのブランド。いまはない。古くからフィッシングベストには定評があった。
 なぜなら、高野さんは写真家、僕もカメラマンのはしくれで、お互い機材を融通することがあるからそのお礼なのだろう。

 高野さんと知り合ったのはもう45、6年前になるだろうか。僕の叔父、福永良夫(*3)があるホテルのバーで飲んでいたとき、そのバーのバーテンダーとの話のなかで高野さんの話が出たらしい。          
(*3)福永良夫=ユーさんのいちばん若い叔父。「【ユーさんの72年③】其の弐 あるいは福永良夫氏のこと」に詳しい。
 そのバーテンダー氏というのは高野さんのお兄さんで、ここからは僕の想像がかなり入っているがきっとこうだろう。釣り好きの叔父がバーで釣りの話をしていたのだと思う。“釣り人が釣った魚の大きさは日を追うごとに成長する”というから、それに近いことがあったと想像するに難くない。

 そこで弟の建三さんが話題になったのだろう。その当時、高野さんは『Angling』という釣り雑誌で連載を持ち、巻頭グラビアでもいい作品を発表していた。僕はといえば、サラリーマンをやめ山小屋での仕事を終え、山と溪谷社で仕事を始めたばかりのペーペーライター兼編集者、兼カメラマン。誌面で高野さんのことは知っていたが、釣り写真の専門家で近寄りがたい存在だった。叔父は、どこかで高野さんに会うことがあったら聞いてみなと言っていた。
 
 しばらくして山と溪谷社で新雑誌創刊の動きがあり、フリーランスの立場だが僕はその『OUTDOOR SPORTS』(*4)(のちの『Outdoor』地球丸・山と溪谷社刊)編集部で働くことになった。その編集部にちょくちょく現われたのが高野さんだった。近くに用事があったのでちょっと寄ってみた、と言いながら釣り好きの編集長と情報交換をしていた。
(*4)OUTDOOR SPORTS=1976年に「別冊山と溪谷」として創刊された雑誌。創刊号の特集は「カリフォルニアでのバックパッキングの世界」をテーマとしている。のちの『Outdoor』(地球丸、山と溪谷社刊)につながっていく一冊である。

『OUTDOOR SPORTS』が『Outdoor』に誌名を変更した最初の号がこの1978年夏号から。表紙イラストは斎藤 融さんの手によるもの。この号の中の若き日の中川くんは編集スタッフ。この企画の撮影は高野建三氏。木曽開田高原へ輪行で行き、宿舎をベースにサイクリングをし、フライフィッシングをしジョギングをするという、いま考えると盛りだくさん過ぎるいかにも”やらせ”が臭い記事。でも当時はこれでよかったのだろう。
 話の内容から、ああ、この人が高野建三さんなんだな、とは思ったがなかなか声をかけることはできなかった。何度か編集部に現われ、顔見知りになったとき思い切って話しかけてみた。

「あの、高野さんですよね。僕の叔父がお兄さんにあったことがあり、高野さんの話をしたって……」

「えっ、どの兄貴かな、映画のかな?」

「よくわからないんですけど、ホテルのバーで会ったと言ってました」

 高野さんはヘビースモーカーで、その匂いを消すためだろう仁丹をよく噛んでいた。このときも仁丹を口に入れながらの立ち話だった。これをきっかけに高野さんとは親しくなり、事務所までおじゃまするようになった。事務所にいる助手さんと僕はそんなに歳がちがわないのに僕を対等に扱ってくれた。事務所は暗室も兼ねていて、写真家事務所特有の酢酸の匂いがした。
雑誌などの企画物の撮影ではカラー写真を使ったが、作品は必ずモノクロームだった。自分でフィルム現像し、紙焼きした。使う印画紙も決まっていた。8x10の印画紙に5x7の枠で焼き付ける。高野さんの指は現像液を使うせいで黄色かった。タバコのせいばかりではなかったようだ。
 遅くまで話し込んでいると一階の自宅から奥さんが夕食を運んでくれたことも度々だった。夕食が終ると、

「ちょっといこうか?」

 と言って近所の居酒屋へ行くこともあった。小さな店で、当時としても珍しくクジラのつまみがある店だったことを覚えている。

 高野さんがいつも仕事で使っている古い小さな写真スタジオが渋谷にあった。ふつうのスタジオは、スタジオボーイがファースト、セカンドと付き、かなりピリピリした雰囲気なのだが、ここのサービスマンは僕よりだいぶ年上、なんでも融通をきかせてくれる白髪の初老のかたで、わがままを聞いてくれるいいスタジオだった。

 高野さんに紹介してもらい、僕もここをメインのスタジオとして使うようになった。雑誌関係の撮影はほとんどここを使った。当時、ストロボメーターというものはなく、セコニック(*5)の入射式露出計、通称“ピンポン玉“を使って、あっ、そんなことはどうでもいい話でした。
(*5)セコニック=写真用露出計メーカーとしても名高い日本の精密機器メーカー。
 このスタジオのかたも写真界では古くから活躍していた人で、競馬の写真を多く撮っていた。ここでよく高野さんの話もでてくるのだが、そのなかで、藤川 清(*6)さんというかたの名前がよく出て来た。僕は直接会ったことはないが名前だけは存じ上げていた。どうも高野さんの師匠か、兄弟子だったと記憶している。
(*6)藤川 清=報道写真家。1930年、山口の生まれ。1972年の冬季札幌オリンピックのポスター写真のほか、写真集『部落』でタブーとされてきた部落問題を世に知らしめたことでも知られている。
 藤川さんはいま調べて見ると、『部落』という写真集を出し話題になった人。その著作のなかには三浦雄一郎(*7)氏とスキーの本を出したり、1972年の札幌オリンピックのポスターの写真など、また日本の焼き物などの本と、多岐にわたっている。さらに著作では『ルアーフィッシング』や、お魚博士の杉浦 宏(*8)氏と『熱帯魚淡水魚百科』なども手掛けている。どうもこのあたりで高野さんとの共通点があったようだ。
(*7)三浦雄一郎=プロスキーヤー、登山家。ミウラ・ドルフィンズ代表。1932年、青森の生まれ。2013年5月23日に80歳でエベレストに3度目の登頂。現在、世界最高齢の登頂者である。
(*8)杉浦 宏=水生生物の研究者。1930年、東京の生まれ。上野動物園飼育課員、井の頭自然文化園水生物館長など。
  
 同業という関係から、僕は高野さんと仕事をする機会はほとんどなかった。初期の『OUTDOOR SPORTS』誌で数回、この雑誌が休刊になる前に1回くらいか。いっしょに仕事をすると言っても、当時僕はまだあまり写真を撮らせてもらえなかったので、小さな編集部にありがちな、編集部みんながモデルになるというパターンで、僕がモデルになり高野さんが撮影するという、いま考えると夢のような組み合わせだった。撮影の合間に釣りはずいぶん教わったし、昔の鮎釣りの話など聞いた覚えがある。
僕も高野さんからフライをもらったことがあった。僕は他人のフライや買ったフライを使うことがないので、きっと、雑誌の企画かなんかで何本かいただいたのだと思う。この項を書くにあたり、あのいただいたフライがあるはずだと探してみたが見当たらなかった。この写真はやはり『OUTDOOR SPORTS』誌に高野さんのフライとして載っていた物。僕の記憶通り、テールが長くしっかりとハックルを巻きヘッドを作るスタイルだと思っていたがその通りだった。フライは“バイビジブル”。
 高野さんと最後になってしまった仕事は、僕と作家の塩野米松(*9)氏がモデルとなり、僕たちが当時かぶれていた英国風のスタイルで“コースフィッシング”をするというもの。コースフィッシングとはエサ釣りでパーチやブリム(*10)といった魚を運河や川で釣るエサ釣りのこと。
(*9)塩野米松=作家。1947年、秋田の生まれ。『昔の地図』『ペーパーノーチラス』などで芥川賞の候補に。『失われた手仕事の思想』『木の教え』(草思社)や『最後の職人伝(手業に学べ)』(平凡社)など、伝統文化の記録に取り組んだ著作も多い。
(*10)パーチやブリム=パーチはヨーロピアンパーチとも。スズキ目ペルカ科に属する魚類で、ヨーロッパやシベリアに広く分布する。ブリムはブリームとも。コイ目コイ科に属する淡水魚。ヨーロッパの河川や湖水、用水路などに多い。

 コースとは“Coarse”であり、粗野なとか下品なといった意味がある。いまは一概には言えないが、ハイブロウ(*11)なクラスが嗜むフライフィッシングに対して、ワーキングクラスがこの釣りを楽しんだことにこの名前の始まりがあるのだろう。
(*11)ハイブロウ=“highbrow”。知識人のこと。
 本当のコースフィッシングの道具などは持っていないので、竿は自前のものを流用し、英国から買ってきた道具を使ってジャパニーズのコースフィッシングを楽しんだ。

 高野さんは大のジャイアンツファンである。食事をしていても、酒を飲んでいてもジャイアンツの形勢が悪いと機嫌が悪くなる。このときもそうだった。ジャイアンツが負けていたのだろう、ご機嫌斜めで食堂を離れ部屋に戻った。

 翌朝、いかにも二日酔いのような顔で食堂に現れた高野さん、

「昨夜は悪かったな、最近どうもああなっちゃうんだよ」

 照れ笑いをしながらみんなに謝り朝食をとった。

 その後、秋田に古民家を借り釣り三昧の生活をしていると聞いたが、その次に聞いた高野さんの情報は楽しい話ではなかった。一旦は東京に戻ったようだったが、しばらくして遠い旅にひとりで出掛けてしまった。

 この項を書くにあたり、高野さんの写真やもらったフライを探したがなににも見つからなかった。あの陽に焼けた顔と、”ろくなもんじゃねーなー”という口癖と仁丹の匂いが記憶に残っている。

中川祐二

中川祐二 物書き・フォトグラファー

“ユーさん”または“O’ Kashira”の 愛称で知られるアウトドアズマン。長らくアウトドアに慣れ親しみ、古きよき時代を知る。物書きであり、フォトグラファーであり、フィッシャーマンであり、英国通であり、日本のアウトドア黎明期を牽引してきた、元祖アウトドア好き。『英国式自然の楽しみ方』、『英国式暮らしの楽しみ方』、『英国 釣りの楽 しみ』(以上求龍堂)ほか著作多数。 茨城県大洗町実施文部省「父親の家庭教育参加支援事業」講師。 NPO法人「大洗海の大学」初代代表理事。 大洗サーフ・ライフセービングクラブ2019年料理番ほか。似顔絵は僕の伯父、田村達馬が描いたもの。

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