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『電波少年』からエベレストへ。“なすび”が世界の頂をめざした本当の理由—その①

2016.10.09 Sun

久保田亜矢

久保田亜矢 フォトジャーナリスト、編集者

 とくに山が好きだったわけではない。
 
 山と触れ合うことのない人生を送っていたので、山にはまったく興味がなかったんです。登山に対する関心はゼロだった。少なくとも2011年の東日本大震災までは。

 
▼震災後、いったいなにがあって、エベレストの登頂をめざすことになったのでしょうか?

 ぼくは福島で生まれ、育ちました。

 福島はぼくのふるさとです。震災が起き、その直後、多くの芸能人や著名人がトラックを何十台も集めて福島や東北へ行きました。また、何千万、あるいは億単位で義援金や募金を送ったという話を耳にしましたが、残念ながら、ぼくは初動で大きな活動がなにひとつできなかったんです。

 生まれ育った土地で、地元のみなさんが大変な生活をしていて、恩返しをするなら本当にいましかないだろう……と思いながらも、なにもできなかった自分が本当に情けなくて、悔しくて。

 2011年4月、ボランティアで福島のある避難所を訪れたとき、以前番組でお会いした海辺にあった食堂のお母さんと再会しました。お母さんは涙ながらに「あ〜なすびちゃん、来てくれたんだね」と喜んで抱きついてくれて、そしてすぐにぼくに謝るんです。

「ごめんね」って。

 理由は、番組の仕事で来たぼくと撮影したときの写真やサインをすべて流してしまったことでした。避難生活を送るなかでも、ぼくとの思い出を大事にしてくれていたんだと思ったら、うちひしがれている場合じゃない!! 地道でもぼくにできることをやり続けたいと考えるようになり、できるだけ復興支援イベントに足繁く通うようにしたんです。

 店頭に立つだけで、ほんの少しでも福島に興味を持ってくれる人がいるのなら、と。

 しかし、月日が流れるにつれて徐々に支援イベントの回数も減り、最初は飛ぶように売れていたものが、まったく売れなくなりました。福島に目をやると、震災からの復興というのはほど遠いんだと肌で感じまして、これを「風化」と言うんだなとも思いました。お金や物では取り戻せないものもあるとも。

 話は飛びますが、ぼくが『電波少年』をやっているとき、日本中が応援をしてくれました。当時視聴率が30パーセントを超えることもあったそうですが、じつはぼくの人生のなかで、あれはもう二度と経験したくない過酷な毎日でした。ただ、自分が頑張る姿が周りの人たちの夢や希望になるのか……と考えたときに、いまのこの福島にぼくができることってそういうことなのかもしれないと思ったんです。

 2011年に知人に誘われ、四国お遍路に挑戦したとき、通常5〜6時間かかる峠道を2〜3時間で歩ききったことから「なすびさん、山登り向いているかもしれないですね」と地元のかたに言われた言葉、年末に目にしたNHKの番組『グレートサミッツ』の冬山の風景、そして当時はまったく知らなかったのですが、若い栗城史多さんが単独無酸素で登る姿を偶然ドキュメンタリー番組で観ていて、単純に応援したいなと思った自分……そんな点と点が結び始めて、

「老若男女、誰もが知る世界一のエベレストに、山に対してまったくド素人のぼくが登ることができたら、福島のみなさんに“奇跡だ”と思ってもらえるんじゃないか? 登山未経験のなすびでも登れるんだったら、ぼくはこんなことに挑戦しよう、とか、こんな新しいことに挑戦してもいいんじゃないか」

とか思ってくれるんじゃないかと。
 

 当時、福島に閉塞感が漂った時期でもあったし、原発事故からの再生って考えたときに、福島にとって世界でも類をみない挑戦だと思ったので。

▼なすびさんが挑戦される姿が、福島のみなさんへの勇気や希望になるとはいえ、エベレストにかかる莫大な費用の使い道について疑問視される声もあったのでは?

 とてもたくさんの方々から、その言葉を投げかけられました。震災直後に思いついたことでもあったので、「売名行為だろう」とか「便乗商売だろう」と散々叩かれ、批判のほうが圧倒的に多かったのも事実です。

「お前がエベレストに登って、なぜ福島が元気になるんだ? お金の使い方を間違っている」とも。正直、かなりへこたれそうになったんです。

 いまは仕事の関係で都内に住んでいますが、福島でラジオ番組を持ち、毎週福島に戻る生活を続けています。基盤は中学生のころに引っ越したいまの実家で、福島のなかでも「中通り」というエリアになります。父方はいわきにあり「浜通り」、そして母方は会津なので、つまり「会津通り」。福島でも、3つの地方に縁があるという人はなかなかいないようです。しかもぼくは父の仕事の都合で、子どものころから福島県内を転々としていて、どちらかというと根無し草。

 ぼくの人生の転機となる『電波少年』が終わったあと、福島県内のローカルTVで福島県内津々浦々いろんなところに伺って、59市町村全部を回ったこともありました。だから、福島県内全域がぼくにとってのふるさとなんです。

 エベレストの挑戦にはお金もものすごく掛かります。個人で登るとなると1,000万円近くは掛かるといわれるなかで、それならば集めたお金を被災地に持っていったほうが役に立つだろうと。それも批判や非難を受ける原因にはなっていました。


 でも、もし自分が集めた1,000万円というお金を福島に持っていくとしても、県内のあらゆる場所に縁があるぼくは、どこに届けたらいいんだろうか……と大いに悩みました。浜通は実害があって被害も大きいんですけど、中通りもまた風評被害で物が売れなくなりました。会津は地震も津波もあまり影響がなかったとはいえ、観光や農作物が売れず大打撃を受けています。ならば、福島を少しでも気にかけてもらうため直接的に支援するのではなく、間接的に支援したいと考えたんです。

▼なすびさんのエベレストの登頂をサポートした国際山岳ガイド近藤謙司さんとの出会いは?

 じつは最初に相談した山岳ガイドは、イモトさんの山登りを指導している角谷道弘さんでした。相談をすると「可能性はある」といってくださり、まずは2012年の1月に石鎚山へ。しかし2か月後に、角谷さんご自身が大けがをされ「俺は高所登山ができなくなるかもしれない」と連絡があったんです。その瞬間、ぼくの頭のなかは真っ白になりました。
 
 諦めきれずに、「どなたか紹介していただけませんか?」とお願いをすると、何名か名前があがったなかに近藤謙司さんの名前があったんです。そして「たぶん、なすびくんの想いをいちばん理解してくれるのは近藤さんじゃないか」とも。

 その後、実際に近藤さんにお会いし、気持ちを伝えました。


▼近藤さんは、すぐに承諾してくれたのですか?

 近藤さん自身、東日本大震災に向けていろいろと活動はしているけれど、なかなか直接的に、長期的に支援することがむずかしくなってきていたこともあったそうで、「ぼくがなすびくんをサポートすることで福島の応援になるんだったら、全力で君をサポートする。東北の応援にしたい」と理解してくださいました。

 ただ、あまりにも登山経験が少なすぎるということで、2012年秋にマナスルの登山隊についていくことに。金銭的に余裕がないので登頂は無理だったのですが、通常ゲストは麓のサマ村までヘリで飛ぶところを、それではなんのトレーニングにもならないので歩いて行くことに。シェルパやキッチンスタッフはカトマンズから一週間くらいかけて車と徒歩で現地へ向かうのですが、彼ら現地スタッフと同じ処遇で自分の装備は自分で担ぎ、キッチンの仕事も手伝い、テントも自分で設営して……ようするに「日本人シェルパ」として、標高にして3,700mくらいのサマ村まで行くことが条件でした。

 サマ村は、マナスルの入り口になる村。標高700mくらいから3,700mまでキャラバンをして歩き続け、その後にベースキャンプの4,700m以上に長期滞在できれば、認めてもいいということでした。ベースキャンプで2週間ほど滞在し、帰りもヘリを使わずに、また別のルートをたどりつつ、5,000m位の峠を越えて下りてくるという行程でした。

▼エベレストに挑戦するためのトレーニングは?

 帰国後、トレーニングのために近藤さんの講習会に入り、八ヶ岳と谷川岳の冬山に登りました。ここからエベレストに挑戦するという感じでした。また実際にエベレストに行くときも、通常のツアーであればルクラまで飛行機で飛ぶところを、近藤さんから「エベレスト街道を下から全部歩かないか? エドモント・ヒラリーら往年の登山隊と同じように」と言われたんです。これは、山に登る機会も経験も少ないぼくのための提案で、下を歩いたほうが高度順応にもなるからと。

 また、こんな理由もありました。たとえば富士山でイメージするんだったら「一合目から歩いて登り、また一合目まで下りました」というほうが、伝わるものがあるんじゃないか? と言われたときに「なるほど」と。これはエベレスト街道でも同じだなと。それ以降、ヘリや飛行機は一切使わず、できる限り歩くようにしているんです。


 ただ一度だけ、飛行機に乗ったことがあるんです。それは去年の帰りでした。あのネパール大地震のときにベースキャンプから戻るときのことですが、「頼むから、飛行機に乗って帰ってきて欲しい」と近藤さんと現地のコーディネイトに言われてしまったんです。下の道がどうなっているかわからないし、いまは緊急事態だからと。

▼山に通うようになり、装備はどうされたのですか?

 山にまったく縁がなかったので、道具もそのころから徐々に揃えていくという感じでした。とくに、ぼくが気を使ったのは足もとでした。これは角谷さんからのアドバイスでもありました。ウェアはコロンビア。近藤さんがコロンビアといっしょに手掛けたジャケットなどもあり、とても魅力的です。山に対してまったくのド素人なので着比べているわけではありませんが、ストレスなく動ける着心地のよさだけでなく、デザインも気に入っているので、山でなくともふだんから着る機会が多いですね。

▼まず1回目のエベレストですが、残念ながら失敗に終わりました。そのときの状況をお聞かせください。

 短い期間ではありましたが、近藤さんのアドバイスもあって、高度順応も順調でした。しかし1回目は標高8,700mで断念。理由はぼくの体力の限界でした。先行している近藤さんたちの本隊からだいぶ遅れをとってしまい、いっしょにいたシェルパに「ここで止めよう」と言われたんです。頂上まで行っても、そこからC4まで下りてくる安全な酸素の量がないと。

 ぼくらより酸素量の少ないボンベを使用しているシェルパにとっても、そう判断せざる得ない状況でした。それでも諦めきれずにいると、天気が急変。前に伸ばす手もうっすらしか見えないほどに霧が立ちこめ、死の危険を感じるくらいでした。そして、下山を決めました。

 ただ、人生でこんなに泣いたことはないというくらい、ベースキャンプで悔し泣きもしました。じつはC4で、近藤さんに「もう一度アタックさせて欲しい」と懇願したんです。近藤さんも「わかった」と言ってくださり、日本に連絡をしたり、シェルパとの話し合いもしてくれたのですが、

「なすびくん、やっぱり駄目だ。一度失敗した人が、再びアタックして成功したという例がいままでにない。頼むから下りてくれ」

 といっしょに泣いてくれたんです。ぼくは登山のド素人。ガイドの言うことは、ここでは絶対聞かなければならない。そう自分に言い聞かせ、1回目のエベレストの挑戦が終わりました。
※写真は2016年の4月25日11時56分のエベレストのベースキャンプ。地震の発生した時間にすべての隊が黙祷を捧げた

*****

 1度目は経験不足と体力の限界、2度目はアイスフォールでの大規模な雪崩によって、そして3度目はネパールの大地震……。まるで、エベレストに拒まれているかのよう。

 それでもなすびは、エベレストへの挑戦を続けた。じつは、エベレストに登り始めてからの3度の失敗と、4回目の成功のときとでは、なすびのなかで、小さいけれどとても大切な変化があったのだとか。

 いったいそれは……?

(なすび、後編はこちらから)

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