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【DISCOVER JAPAN BACKPACKING】 山の生まれる場所、薩摩硫黄島へ 。南九州火山探訪・前編

(2018.05.29)

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日本人に親しまれてきた「山」をみつめなおす
「DISCOVER JAPAN BACKPACKING」。
第一弾の舞台は、今なお新しい山が生まれる南九州。
グレゴリーを背負った案内者と共に
より深く、日本の山を知る旅へ。

■黄色い海の島「薩摩硫黄島」へ
 波の穏やかな錦江湾を出ると、フェリーは前後左右に大きく揺さぶられだした。甲板に出て海をのぞきこむと、湾内では緑がかっていた水が、黒みを帯びた群青色に変わっている。本当に澄んだ海の水は、青を通りこして黒く見えるものだ。

 進行方向を見ると、水蒸気の霞の向こうに目指す薩摩硫黄島が浮かんでいた。大海原に茶碗を伏せたような急峻な山容と、頂上から上る噴気でそれとわかる。薩摩硫黄島は、今も活発に活動する火山島だ。
今回の旅で訪れるのは、北から桜島、開聞岳、薩摩硫黄島の3つの山。薩摩硫黄島のある三島村は薩摩半島と屋久島の間に位置している。鹿児島港と薩摩硫黄島を結ぶ「フェリーみしま」は鹿児島港〜薩摩硫黄島を約4時間で結ぶ。往復7,200円、週4便が運行。

 島を間近に望む海域に船が入ると、再び海の色が変わった。島の周辺が入浴剤を流したように黄緑や乳白色に染まっている。船が港に入り込むとさらに水の色は濃くなった。湾内すべてが、鮮やかな黄色の水で満たされている。

 薩摩硫黄島の古の名前は「鬼界ヶ島」。一説には黄色い海の島「黄海ヶ島」が転じたと言われている。話には聞いていたが、これだけ膨大な水が黄色く染まっているのを見ると圧倒される。こんな風景が見られるのは、日本のなかでもこの島だけだろう。

洋上から望む薩摩硫黄島。島に近づくと付近の海域が白く濁り出す。

硫黄島の海岸は、黄緑の水で縁取られている。

港内の水はさらに黄色い。オレンジ色といってもいいほどの水をかき分けて船は着岸する。

 船のタラップを降りると、引き締まった体の浅黒い青年に出迎えられた。彼の名は大岩根 尚(おおいわね ひさし)さん。環境学を修めて南極などで調査に加わったのち、この島に移り住んだ研究者だ。今回の旅の案内役を勤めてくれる。

「硫黄島にようこそ! こんなに条件のいい日はそれほどありません。さっそく、島を見に行きましょう」

大岩根 尚さん。三島村役場に3年間務めたのち、硫黄島に移り住む。現在は「合同会社むすひ」の共同代表として、硫黄島の自然を核にしたガイドや体験学習、個人や企業向けの研修を提供している。役場勤めをする前は国立極地研究所に所属し、南極の気候変動に関する研究をしていた。それにしても、海の中の巨大な岩を研究する人の名前が「大岩根」とはできすぎている。海の世界で「根」といえば岩礁のこと。鬼界カルデラの解説者として、これ以上ぴったりな名前もない。ガイド・講演等の依頼は planetaryアットマークmusuhi.earthまで。

■南九州を滅ぼした7300年前の巨大噴火

 最初に大岩根さんが案内してくれたのは港を見下ろす崖の上。ちょうど、黄色い水を分けてフェリーが港を出て行くところだった。

「海の色に驚いたでしょう? 島に近づいてくると、海の水が緑や白に変色していませんでしたか。あれは、島の周囲に湧く熱水の成分の違いによるもの。熱水が通り抜けてくる岩の質によって溶け込む成分が変わってくるので、湧き出す熱水の色も場所によって変わるんです。この長浜湾の熱水は鉄分が多い岩を通り抜けてくるので、鉄サビのような色をしているんです。」

硫黄島港遠景。正面の緑の山が稲村岳、その奥にそびえるのが硫黄岳。硫黄岳はその名の通り良質な硫黄を産出し、平安時代以前から存在を知られてきた。鉱山は1964年に閉山した。

「海の色からもわかるとおり、硫黄島の火山は活発に活動しています。しかし、いま見えているのは全体のうちのほんの一部。本体のほとんどは海中に没しているため見えません。硫黄島は7300年前に巨大噴火を起こした『鬼界カルデラ』の外輪山の一部なんです」

「鬼界カルデラ」は三島村の硫黄島、竹島を北縁として東西約25km、南北は約15kmの広がりをもつカルデラだ。鬼界カルデラの巨大噴火によって生じた火砕流は半径100kmの範囲にまで広がり、屋久島を飲み込み、その先端は九州南部にまで到達したことがわかっている。

「地下の巨大なマグマだまりの内圧が高まると、岩盤の弱い部分から噴火が始まります。噴火がマグマだまりを縁取るように同時多発的に起こると、マグマだまりの上に乗る岩盤が自重でマグマだまりへと落ち込み、さらにマグマを押し出して大噴火します。これがカルデラ噴火です。高さ数十kmまであがった噴出物は、やがて崩れ落ち火砕流となります。熱い火砕流に触れた海面は蒸発し、火砕流と水との間に摩擦の小さい水蒸気の層を作ります。遮るもののない海の上を火砕流は広がっていったんです」

鬼界カルデラができたのはおよそ7300年前のこと。その誕生に伴う大噴火は九州一円に大きな被害をもたらした。(画像出典=ウィキペディア)

「鬼界カルデラが噴火したころ、九州南部には貝紋土器と呼ばれる土器を使う縄文人が暮らしていました。ところが、この貝紋土器が見つかるのは火砕流の噴出物よりも下の層だけ。火砕流の噴出物の上には以降数百年の間、人の生活の痕跡が現れません。鬼界カルデラの噴火によって、九州の縄文人は壊滅してしまったんです。火砕流の速度は時速100kmを超えます。鬼界カルデラの大噴火を見た南九州の縄文人たちは、1時間もしないうちに焼け死んだでしょう」

 これらの歴史が記録されている場所がある、と大岩根さんが続けて案内してくれたのは、島の北側にある大浦港。硫黄島港とうってかわって、澄んだ水と赤い岩壁の対比が美しい。

「ところどころで岩の色が違いますが、これらの岩はみんな生まれた年代とできかたが異なっているんです。湾を囲う黒い岩壁は長浜溶岩。その上に乗っている赤みを帯びた層が、船倉火砕流などの鬼界カルデラの噴出物です。これらは火砕流の火山灰や軽石が堆積しながら、自身の帯びた熱で溶けて固まったものです。赤い層は谷の中央部に向かってたわんでいるのがわかりますか? 火山灰は空気を多く含むので、厚く堆積したところほど空気が抜けてへこむんです」

 鬼界カルデラの噴火に由来する噴出物の総量は170立方kmとも考えられている。あまりに巨大な噴火だったため、近畿地方で約20cm、関東地方でも数cmの降灰があったことが調査で判明している。この苛烈な噴火の名残を留めることから、硫黄島周辺は「三島村・鬼界カルデラジオパーク」として認定されている。

「世界中で起きた巨大噴火のなかでは、鬼界カルデラの噴火はごくごく最近起きたものです。この噴火に由来する『アカホヤ』と呼ばれる赤みを帯びた火山灰は日本各地で見つかっていましたが、アカホヤが硫黄島の南側にある鬼界カルデラから出たことが判明したのは1970年代のこと。わりと近年のことなんです」

 大岩根さんが続けて案内したのは、硫黄岳を間近に望める「平家城展望台」。右手には硫黄岳が海からせり上がり、見下ろす海は青、乳白色、赤茶、エメラルドグリーンに染め分けられている。

「私たちがいま立っているこの高台は、海に向かってストンと切れ落ちていますが、この高台こそ、まさしく鬼界カルデラの外輪山の縁。ここから沖に見える小さな岩礁を経て、竹島へと外輪山が続いています。いま右手に見えている硫黄岳は外輪山の際にできた火山で、鬼界カルデラの噴火以降にできたものです」

「それにしても …今日の海の色はすごい。この場所には幾度となく来ていますが、こんなに綺麗に4色に分かれているのは初めてみました。三島村の職員として関わるようになったのが4年前、そして島の住人になったのがおよそ1年前ですが、未だに新しい景色を見せてくれるのがこの島のすごいところです」
画面左手の小さな岩礁が外輪山の続き。水平線に薄く霞むのが竹島。画面中央部の岩礁は1934年に海底火山の噴火で誕生した昭和硫黄島。「昭和硫黄島の近くには潜るとカーテンのように湧き出したガスが立ち上っていますよ」と大岩根さん。
青と緑に染め分けられた海。

展望台から望む硫黄岳。荒々しい岩肌から噴気が上る。

 展望台の下にも鬼界カルデラの噴火の跡がある、と大岩根さん。案内されたのは、なんの変哲もない岩壁だった。

「こう見えて、この地層にはこの場所で起こった約2万年の歴史が重なっています。一番下にある砂を押し固めたような層が『籠港テフラ』という火山灰が積み重なってできた地層です。その上の『幸屋降下軽石』という地層には大きな軽石がたくさん入っていて、さらにその上の『幸屋火砕流』という地層は様々なサイズのレキと火山灰が混ざった地層になっています」

 大岩根さんの解説によれば、ここでは1万年もの間、火山灰が積もり続け、籠港テフラの層を作っていた。しかし、この場所に突如として大きな軽石が降ってくる。「幸屋降下軽石」の存在はカルデラ噴火の始まりを告げる証拠だ。そして「幸屋火砕流」の地層こそ巨大な軽石の爆撃に続けて襲ってきた高温の火砕流そのものだ。大岩根さんの右膝の下にある層が籠港テフラ。膝頭から手首の間が幸屋軽石、指先から上の岩まじりの層が幸屋火砕流。

「幸屋降下軽石の層を見てください。かなり大きな軽石が入っていますから、ここは噴火口に近かったと思われます。ところどころに入っている黒いものは、数百度の軽石に埋められた木が炭化したものです。そしてその上の『幸屋火砕流』が、海を渡って南九州の縄文人を滅ぼした張本人だと考えられます。このように、なんの変哲もない岩壁でも、詳しく読み解いてゆくと過去の大事件を伝えてくれるのです」

 これらの地層のずっと上のほうに乗っているのが、今の硫黄岳から出た噴出物。硫黄岳の2000年ぶんの仕事に比べると、鬼界カルデラの噴火によってできた地層のいかに厚いことか。解説を聞けば、鬼界カルデラの噴火が大きなものだったことが うかがい知れる。

 ここで、大岩根さんはバックパックから硫黄の塊を取り出した。特別に許可を得て、硫黄岳から採集してきたものだという。

「気象庁の定める硫黄岳の現在の噴火警戒レベルは1。5段階あるレベルのうち、いちばん軽いものです。しかし、危険なことには変わりはないので現在登山道は閉じられています。これはガスマスクを着けて硫黄岳に登って採集してきたもの。硫黄島の噴気孔では、純度の高い結晶が採れるんです」

 硫黄に黒炭と硝石を混ぜると黒色火薬ができる。硫黄は火薬の原料として珍重されたためか、こんな辺鄙な場所にありながら硫黄島は古くから文献に登場する。

「平家物語には、平安時代の僧・俊寛が『鬼界ヶ島』に流された、と書かれています。この鬼界ヶ島を今の喜界島とする説もありますが『常時火が燃えており、硫黄の多産する高い山がある』と平家物語には書かれていますから、硫黄島こそが鬼界ヶ島でしょう」

硫黄岳の岩肌からは勢いよく蒸気が吹き出し、その噴出口が黄色く染まっているのが麓からも見える。

「俊寛をしのぶ堂がある」と大岩根さんが誘ったのは、竹林のなかに伸びる苔むした道。旺盛な竹の林に道を維持するのは大変に手間がかかるものだ。こんな道が人口百数十人の島で維持されていることからも、島の人の俊寛への思いが感じられる。

 平安時代後期の僧・俊寛は、平氏を討つ計画に加わったことが露呈して鬼界ヶ島へと流された。同時に流された別の2人は許されて島を出たが、俊寛だけは許されず、鬼界ヶ島で果てたとされている。

「俊寛とともに流された2人は、娘である徳子の安産を願う平清盛によって赦されましたが、俊寛だけは赦されませんでした。そしてこのときに徳子の産んだ子どもこそ、壇ノ浦の戦いで入水したとされる安徳帝です。ところが、安徳帝は壇ノ浦では死んでおらず、硫黄島に逃げ延びて硫黄島の名家である長浜家の始祖になったという説があります。平家の落人伝説は九州各地にありますが、俊寛が硫黄島へ流されていたことを考えると、こんな話も荒唐無稽でないように思えてきます」

島に流された俊寛は、許されることなく36歳でこの地で果てたとされる。俊寛が庵を結んだ地の近くには俊寛をしのぶ「俊寛堂」が建つ。

 火山を知る一日の締めくくりとして、大岩根さんが連れ出してくれたのは「東温泉」。大波の洗う岩に3つの湯だまりが作られている。源泉は湯だまりの上にある岩の割れ目だ。もうもうと湯気をあげる熱水が湧き出し、源泉は手をつけていられないほどに熱い。

 気兼ねのいらない男だけの旅。海に向かって全裸になり、湯温のいちばん低い湯だまりに入る。目の前には乳白色の東シナ海。その向こうにはうっすら屋久島の島影が見える。肌をチリチリと灼く熱めのお湯が気持ちいい。東温泉は水着で入ってもOK。もちろん全裸でもOK。
「私たちは山や岩を以前からそこにあり、これからも変わらずそこにあるものと思いがちですが、実は数万年、数億年という長い年月をかけて少しずつ変化してゆきます。一方硫黄島では、山から上がる噴気、温泉と海が描き出す模様などが、数秒から数分で刻々と変化してゆきます。硫黄島の魅力は、そんなダイナミックな地球の姿を目にできることだと思います。こうして温泉に入るのも地球の力を感じるひとつの方法ですね。しかし、この温泉は要注意。溶け込んでいる硫酸のせいでちょっと酸性が強いんです」

 なんと、チリチリとした感触は熱い湯ののせいではなく、硫酸によるものだった。湯に浸けた手ぬぐいはそのままにすると硫酸で繊維がボロボロになるので、宿に戻ったらなるべく早く洗ってください、と言って大岩根さんは笑った。

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ライター
藤原祥弘

野生食材の採集と活用、生活技術につながる野外活動などを中心に執筆とワークショップを展開。twitterアカウントは@_fomalhaut

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