• 山と雪

【特別ガイドルポ】稜線に残された、ツンドラの大地へ―北海道・トムラウシ~旭岳縦走記。vol.03

2018.08.27 Mon

麻生弘毅 ライター

奇跡のような30分ののち、姿をくっきり現した忠別岳。楽しい一日になりそうな予感でいっぱいの、4日目の朝。

 トムラウシ温泉から入山し、旭岳(2291m)をめざす縦走の旅、その2日目の夜は、美しい沢沿いにある忠別岳避難小屋のテントサイトで、眠れぬ夜を過ごしていた。

 その夕方、視界を塞ぐハイマツのなかで獣臭を感じてしまったからだろう、風が梢を揺らす程度の物音にも跳ね起きるよう、体が自然と反応してしまう。一刻も早く眠りにつきたいという希望とは裏腹に、地面に落ちた葉っぱの揺らぎすら聞き漏らすまいと、全身の神経を張り詰めたまま、周囲の気配を感知、分析することに没頭していた。

 実際のところ、落とし物を拾い追いかけてきてくれる親切なあの方であるかどうかは別として、なんらかの生き物がテントのまわりをうろついていたことは間違いなかった。その気配の軽さからキタキツネ、いや、小さなネズミだったのかもしれないが、なにしろこちらは落ち葉がカサッと揺れる音にもおののく有様だから、意思ある何者かが歩きまわることなど、空前絶後の大問題なのだ。

 そんな作業(というか、自分自身)に疲れてしまい、ラジオのスイッチを入れる。山でしか聞いたことのない、いつもの「ラジオ深夜便」。合間の天気予報を聞いていると、この日は前線の影響で、天候が崩れることを告げていた。はたして疲労困憊の朝を迎えると、やはり分厚い曇り空。歩けないこともないけれど、明日には前線が南に下がるという予報があり、予備日も用意していたことから、早々に停滞することに決めた。

 ならば小屋へと移動しようとテントを片付けていると、この日まで避難小屋にベースに、周囲を歩き回っていたという地元のお父さんがやってきて、満面の笑顔で言った。

「昨日の午前中、沢向こうのあの雪渓で大きなクマがずーっとごろごろ遊んでいたよ。無事にテントでひと晩を過ごせて、よかったねぇ」

 なんとなく寝そびれてしまい、小屋の外で読書。ふと顔をあげると、クマがいたという雪渓に小さなシカを見つけた。その後ろではもっと小さいシカが跳ねており、ようやくそれが親子だと気づく。仔ジカははしゃぐように母親のまわりをじゃれつきながら、ふたりはどんどんこちらへと近づいてくる。しまいには、テントを張っていた場所のすぐ沢向かいまでやってきて、のんびり草を食んでいた。そうして見ると、母ジカは立派な成獣だということが分かるとともに、体内のスケールが大雪のサイズ感についていけてないことを、改めて思い知る。やがて、シカの親子は沢の下流へと姿を消していった。おもしろいことに、その後、2組の親子が雪渓に現れ、まったく同じルートを通って沢の下へと消えていく。あそこには、ぼくらには見えない、魅力的な径が隠されているのだろう。

 いつの間にか寝てしまったいた。

 小さな気配に目を覚ますと、小屋の前の梢で、頭から肩、お腹にかけて紅い羽根で着飾ったギンザンマシコのつがいが話しこんでいる。そこにふわりと漂うよい香り。誘いこまれるように小屋へと入ると、同行の女性ふたりがカレーを作っていた。牡蠣の干物とかぼちゃのペースト、それに各種のスパイスを組み合わせながら、なにやら熱心に煮こんでいる。頃合いを見てスプーンを入れ、味見をした荻野なずなさんは、決然と顔をあげてひと言。

「いろいろ入れすぎて、なんだかちっともまとまってない! 味を薄めるスパイスはないかな……」

3日目は天候不良のため、忠別岳避難小屋で停滞。居心地のよい小屋で、のんびり過ごして英気を養う。

 翌朝は深い霧のなか、尾根まで登り返した。山道をちょろちょろと駆けるシマリスが、露払いをするかのように先導してくれている。あたりの空気は飽和量いっぱいに水分を溜めこみ、足元のチングルマやエゾノツガザクラは小さな水滴をたっぷりと抱いていた。そこに朝日が差すと、足元のそこここで、小さな光の乱反射が起こった。

 眠気を覚ます風景に、アイヌの神謡が重なってゆく。

―――銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに―――

 稜線に立つと光は鮮烈さを増し、みるみると深い霧が晴れていった。忠別川の源流をなす深い渓に白い虹が架かるとともに、忠別岳が霧のなかから顔をのぞかせる。山を包む空気は意思あるもののように、その表情を刻々と変え、ぼくらはその精気に飲みこまれてしまった。降り続けた雨によって潤いを得、生まれ変わった緑がまぶしく、薄膜を剥いだかのように、世界がクリアになってゆく。

 奇跡のような30分。停滞をして、この風景に会えて、本当によかった。

朝日があがるとともに、周囲の霧が晴れてゆく。そこには、ひと晩続く雨に洗われた、新しい朝が。(左上)夢のような時間とともに現れた白い虹。(右上)たどり着いた忠別岳から、旭岳を望む。(左下、右下)水滴を抱きしめる草花たち。 

 忠別岳を越えると、その向こうには、稜線上とは思えない大草原が現れた。南北7kmにわたって広がる高根ヶ原。右手はすっぱりと切れ落ちていて、その下には空沼をはじめとした沼が点在している。そこから吹き上げる風に乗り、ものすごい数のトンボとチョウが高い空へと舞ってゆく。空と大地がとても近い。平ヶ岳に向かって一陣の風が吹くと、叫び出したいくらいの開放感に包まれた。足元では、コマクサの大群落が揺れている。

 コマクサは、環境の厳しい石ころだらけの風衝地帯を選び、背丈の5倍以上の根を張りめぐらせ、水分を吸収することで生き抜いているという。そんなコマクサを食べているのが、氷河期から落とし子のひとつである、ウスバキチョウ。透明感のある黄色い羽根がないかと見渡していると、またしても心地よい風にくすぐられる。それにしても、ここはなんていいところだろう……。

 ディランの古い歌がよぎるのは、こんなときだ。

 そんなベタな……。いつもはそう打ち消してしまうのだが、ここで吹かれずして、どこで風に吹かれようというのか。

 ひと呼吸入れ、気づけばずいぶんと軽くなったザックを背負い直し、若いんだか年寄りなんだか分からないあの歌声を思い描く。南の空には、この旅で初めての、大きな入道雲が浮かんでいた。

(左上、左下)スケール感を失わせる、広大な高根ヶ原。こんな景色に出会えるとは。振り返ると、忠別沼と忠別岳。どちらを眺めても、圧倒的に心地よい。(右下)高根ヶ原の東側は、すっぱり切れ落ちている。眼下の湖沼群とは三笠新道でつながっているが、ヒグマが多いため、通行禁止だという。あれほど怖がっていたのに、クマの楽園と聞くと、行ってみたくなる……。(右上)忠別沼で出会ったエゾサンショウウオ。(右中)鼻歌交じりでご機嫌に歩いていると、足元に爆弾を発見!

 遠近感を摑めないような広大な草原にあり、いつまでたっても近づかなかった白雲岳避難小屋にたどり着いたのは、午後も遅い時間だった。テントを張り終えてお茶を飲んでから、夕日を眺めに白雲岳へと向かう。小泉岳、北海岳への分岐を左折し、雪解け期に湖が現れるという火口原を抜け、岩場をあがるとそこが白雲岳の山頂だった(2230m)。残雪が縞模様を描く広い渓の向こうには、夕日に浮かび上がる旭岳。またもや山が呼吸をするように、霧が浮かんでは消えてゆく。

 その姿を目に焼き付けようと、座る場所を探す。背後からの風を避ける大きな岩の手前に、腰掛けるのにちょうどよい窪みを見つけた。

 先ほど通り過ぎた分岐あたりでは、これまでに数多くの鏃や細片など、黒曜石を使った縄文期の痕跡が見つかっているという。国内でもっとも高所に残された、白雲岳遺跡。土器などが見つからないことや、あまりに厳しい環境から、定住していたわけではなく、狩猟の場であったと考えられているそうだ。

 狩猟採集に生きる人々が、楽しみとして山に登ることはなかっただろう。けれども、ときに列を離れたくなるあの衝動は、古の人にもあったのではないだろうか。そこにぽっかり浮かぶ山があり、それではと登ってみるとこの絶景……そんなことを考えていると、いま座っているこの岩には、昔日の狩人の記憶がとどめられているような気がした。もしそうだとするならば、先人はどんな思いを抱えて、この風景を眺めていたのだろう。

(左上)白雲岳山頂から眺める旭岳と、渓を彩る雪の川。(右上)雪解け期には湖が現れるという白雲平。(右下)白雲岳避難小屋とテントサイト。ここに来て、ようやく登山者の姿が目立つように。最後の夜は、満点の星空を毛布に……。

 最終日は朝から快晴に包まれた。昨晩はよほど冷えこんだのか、水たまりがぎしぎしに凍っている。山に入って5日目、ようやくザックが体に馴染んだところで、下山する寂しさを噛みしめながら、惜しむように一歩一歩。そして、休憩するたびに地図を出し、今回歩けなかった山や渓に目を走らせた。

 富良野岳や十勝岳、ヒサゴ沼に沼ノ原、石狩岳そして黒岳―――

 みなは何を考えているのか、言葉少なに歩みを進め、旭岳山頂へと続く残雪を黙々と登ってゆく。そうしてたどり着いた最後のピークは、これまでにない賑わいを見せていた。南の方角を見渡せば、すっかりなじみとなった忠別岳、そしてトムラウシ山の姿がある。

「あの稜線を、全部歩いてきたんだね」

 万感の思いをこめるように、松浦由香さんが言う。
 次は紅葉の時期に来ようか、それとも残雪期か。

 冷たいビールの誘惑と後ろ髪を引くような山への思い、その狭間で揺れながら、よい旅だったと心が全開で笑っていた。

(左上)朝焼けに染まる渓。大雪の山々は懐の深さが印象的。(左下)朝の山道には、ひと足早い秋の訪れが。(右下)どこまでも続く、広大な山稜。後ろ髪を引かれつつ、旭岳をめざす。(下中)ようやくたどり着いた旭岳。5日間、本当によく、歩きました! (右上)すっかりおなじみになったトムラウシ山を眺めながら、旭岳から下りる。
 

【写真=岡野朋之 文=麻生弘毅 モデル=松浦由香、荻野なずな/好日山荘】


地図製作:オゾングラフィックス


■アクセス
 今回利用したトムラウシ温泉の登山口・国民宿舎東大雪荘の起点となるJR新得駅へは、新千歳空港から列車で2時間ほど。新得駅から国民宿舎東大雪荘へは、夏は拓殖バスが1日2便運行している(所要時間1時間30分、運賃2000円)。タクシーならば1万6000円ほど。初日の登りを1時間30分ほど短くできる「トムラウシ短縮コース登山口」から入山する場合は、タクシーを予約しておこう。

拓殖バス www.takubus.com
新得ハイヤーTEL.0156-64-5155
新交通TEL.0156-69-5555

 大雪山旭岳ロープウェイにて下山した旭岳登山口から旭川までは、バスで1時間30分ほど。1,430円。JR旭川駅から新千歳空港までは列車で2時間ほど。

旭川電気軌道 www.asahikawa-denkikidou.jp

■参考コースタイム
1日目 計7時間30分
国民宿舎東大雪荘(2時間)温泉コース分岐(1時間10分)カムイ天上(1時間20分)コマドリ沢出合(1時間)前トム平(2時間)南沼キャンプ指定地
2日目 計5時間25分
南沼キャンプ指定地(30分)トムラウシ山(1時間25分)天沼(1時間5分)化雲岳(1時間30分)五色岳(55分)忠別岳避難小屋
3日目 悪天のため停滞
4日目 計7時間40分
忠別岳避難小屋(1時間40分)忠別岳(2時間40分)高根ヶ原分岐(1時間20分)白雲岳避難小屋(1時間10分)白雲岳(50分)白雲岳避難小屋
5日目 計5時間55分
白雲岳避難小屋(1時間50分)北海岳(50分)間宮岳分岐(1時間40分)旭岳(1時間35分)大雪山旭岳ロープウェイ姿見駅
 


【特別ガイドルポ】稜線に残された、ツンドラの大地へ ――― 北海道・トムラウシ~旭岳縦走記。vol.01

【特別ガイドルポ】稜線に残された、ツンドラの大地へ ――― 北海道・トムラウシ~旭岳縦走記。vol.02

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